440.学校へ行こう!
初夏の足音が微かに聞こえ始めた、春の終わりのこと。
一面に広がる水田には、緻密に張り巡らされた水路から分岐された命の水が、なみなみと張られ始めていた。まだ苗の植えられていないその広大な水面は、さながら大地に嵌め込まれた巨大な水鏡だ。
だが、その鏡が映し出していたのは、吸い込まれそうな青空ではなく、今にも泣き出しそうな鉛色の重い雲だった。
そんな景色を見下ろす小高い丘の上に、一人の少女がいた。
彼女の名はベル。
瑞々しい若い芝生に直接腰を下ろした彼女は、膝の上のキャンバスに向かい、一心不乱に目の前の風景をスケッチしていた。世間一般の感覚であれば、絵に描くなら青く晴れ渡る絶景を望むところだろう。
しかし、ベルにとってこの陰鬱な曇天は、決して忌むべきものではなかった。
自然というものは、時と場合によって千変万化の色彩を見せる。
だからこそ、この重苦しい灰色に包まれた景色も、今日しか、いや、この「今」という刹那にしか出会えない、唯一無二の特別な美しさを持っているのだ。少女はその奇跡を捕まえるように、細く、極限まで鋭利に削り出した炭のペンをさらさらと走らせる。
その時――少女の背後から、草を踏みしめる柔らかな足音が聞こえた。
気配を察してベルがふと振り返ると、そこには見慣れた男の姿があった。
「よう、ベル! やっぱりここにいたか。ほう……相変わらず、というか。いや、どんどん上手くなってやがるな」
顎に手を当て、感嘆の息を漏らしたのは、この地を治める領主ラルフ・ドーソンだった。
ベルの手元で息づく風景画はあまりにも精密で、それでいて叙情的だった。
ただの模写ではない。
空気の湿度までをも閉じ込めたようなその筆致は、彼女の持つ画才が、すでに「天才」という陳腐な言葉すら生ぬるい領域に達していることを物語っている。
「はい、ラルフさま。実は……共和国の議員さまから、直々に依頼をいただいたんです。どうしても自室に飾りたい、と言われまして。アッシュ・ディッキンソンという、驚くほどお若い方でした」
「あー……彼か……」
ベルの言葉に、ラルフの脳裏にある青年の姿が浮かんだ。
野心に満ち溢れたその兄とは正反対の、どこか気弱そうで、それでいて硝子細工のように繊細な佇まいを見せる青年議員。なるほど、彼のような気質であれば、ベルの描く静謐な世界観に魅せられるのも納得がいった。
ラルフは視線をベルに戻し、ずっと水面下で温めていた本題を切り出すことにした。有力な貴族たちから熱烈な打診を受けていた、彼女の将来に関わる話だ。
「で、どうだ、ベル。前に話していた、王都の美術学院に入学するって件、少しは考えてくれたか?」
その言葉を聞いた瞬間、ベルの炭ペンがピタリと止まる。
刹那、水田の表面を滑るように、湿った春の風が丘を駆け上がってきた。
ベルの手元にある厚手の画用紙が、パタパタと拒絶を露わにするように震える。
「……ラルフさま。私、ずっとここにいたいです。……ここにいちゃ、ダメ、なんですか?」
ベルは視線を落としたまま、消え入りそうな声でポツリと呟いた。その瞳には、未知の世界への不安が少なからず滲んでいる。
「あ、いや! その、ダメってわけじゃ決してないんだ。ただな、一度くらいは広い世界を知って、色々な技術や価値観を勉強してみるのも、ベルのこれからの将来のためになるんじゃないかって、そう思うだけで……」
慌てて取り繕うように言葉を重ねるラルフ。しかし、ベルは小さく首を横に振った。
「……私には、絵を描くことしかできません。難しい計算も苦手ですし、ミンネやハルちゃんみたいに、お給仕を上手にこなすこともできませんから……」
「あー、いやいや! あのな、そんなに自分を卑下する必要はこれっぽっちもないんだぞ? 僕としては、その類稀なる絵の才能をもっと伸ばして、もっともっと、将来的にお前ががっぽり稼げるようにしてやりたいってだけで……」
「私……お金、稼がなくてもいいです……」
「ハァっ?!?」
ラルフは思わず自分の耳を疑い、素っ頓狂な声を上げた。
金さえあれば、より自由に、より己の欲望を具現化できる。誰もが渇望し、狂奔する絶対的な価値――それこそが「貨幣」であると、ラルフは信じて疑わなかった。つまるところ、この若き公爵ラルフ・ドーソンもまた、貨幣経済の魔物たる『資本主義』の毒に、どっぷりと侵されていたのである。
「今のままでも、毎日お腹いっぱい美味しいご飯を食べられて、こうして大好きな画材も買えています。これ以上は、もう何も望みません」
ベルは淡々と言い切ると、再び炭ペンを目の前に真っ直ぐ突き出し、指先で景色の平行線を確認する作業に戻ってしまった。
その横顔には、世俗の欲など微塵も入り込まない、芸術の徒としての純粋さが宿っていた。
✢
そして、その夜。
「……と、まぁ、そういうこってして……」
気だるげにテーブルに肘をつき、深い溜息をつくラルフ。
そこは、夜な夜な賑わいを見せる『居酒屋領主館』の客席だった。
「うーん。まぁ、本人がそこまで頑なに拒むなら、無理強いはできないわよねぇ……」
「そうか……。しかし、まぁ、学歴がすべてというわけでもあるまいしな……」
ラルフの正面で、ベルの出資者になりたいと鼻息を荒くして立候補していた貴族たちが、一様に肩を落としてガッカリと項垂れている。
「……そうは言っても、僕としてもさ。一度くらいは、このロートシュタイン以外の広い世界を見てほしいと思うんだがなぁ」
未だ諦めきれないラルフが独り言のように呟く。すると、
「フッフッフ……! それは完全に『親のエゴ』ってものですわよ、ラルフ公爵。子供ってね、いつのまにか、親の手を離れて、自分自身の物語を歩み始めるものなのですのよ……」
隣の席から、優雅にワイングラスを揺らしながら声をかけてきたのは、リネア・デューセンバーグだった。
ラルフがそちらを振り返ると、リネアの視線の先には――。
「ふんっ! いい度胸じゃない、受けて立つわよ! 題して『スタミナ・特盛・カレーライス』! 二十分以内に一粒残さず食べきったらお代は無料! ……ただし、一秒でもオーバーしたら、きっちり銀貨一枚徴収するからね!」
並み居るガタイの良い冒険者の男たちを相手に、微塵も物怖じすることなく、むしろ不敵な笑みを浮かべてチャレンジ・メニューの口上を述べる金髪ドリルツインテールの少女――エリカの姿があった。
確かに、リネアの娘は親の庇護などどこ吹く風で、己の心の赴くままに自分の物語を全力で邁進しているようだった。
ラルフは苦笑しつつ、今度はカウンター席へと視線を移した。
そこではベルが、周囲の喧騒など完全に遮断したかのような凄まじい集中力で、昼間に描いた風景画に一筆一筆、丁寧に色を乗せている。
そのすぐ隣の席では、なんとこの国の最高権力者であるウラデュウス国王が、身を乗り出して彼女の絵を覗き込んでいた。
「おお、やはり素晴らしい出来栄えだ。どうだ? 今度、儂が水上都市で釣りをしているところでも描いてはくれまいか?」
もはや打診というよりは、一人のファンとしての熱烈なリクエストである。
ラルフは、再び深い思考の海に沈んだ。
確かに、本人の意思は最大限尊重されるべきだ。自分はベルの本当の親ではないが、孤児院で育った彼女の将来を案じるあまり、領主としての親のようなエゴと強引さで押し通そうとしていた自覚はある。
しかし――彼女は、紛れもない天才なのだ。
その類稀なる才能は、こんな世界の片隅の領地で燻ぶらせるべきではなく、もっと大きな世界へと羽ばたくべきではないのか。
悶々と悩むラルフ。
するとその時、
「ちょっと! アナタ、こっちに来なさい!」
唐突に、無表情のダンジョン・マスター――スズが、ベルの小さな手をグイと引っ張った。
「えっ? ええぇ!? な、なんですかー?」
突然のことに戸惑い、画筆を握ったまま慌てて手を引かれるベル。
連れて行かれたのは、月明かりが差し込む窓際のテーブル席だった。
ラルフはそれを見て、
(ほう、さすがはスズだな……何かしらの深謀遠慮と、ベルの背中を押すような、含蓄のある金言を授けてくれるに違いない!)
と密かに期待の眼差しを向けた。
しかし、スズはベルを椅子に座らせると、
「はい。ここに座って、窓の方を向いて。……描く!」
「は、はい……っ」
わけもわからず困惑しながらも、スズの放つ独特の威圧感に押され、ベルは再び下絵に向かって筆を動かし始めた。
すると、スズは満足げに頷き、感情の読めない瞳でラルフを振り返った。
「どう? ラルフ?」
あまりにも言葉が足りなすぎる質問を投げかけられ、ラルフは呆然とする。
「えっ? はっ? え……? なにが、どう、って……?」
ベルは今、窓の外の夜景に向かって一心不乱に絵を描いている。ラルフの視点から見えるのは、彼女の、小さな、けれどどこか職人気質な頼もしさを感じさせる背中だけだ。
スズはそのベルの背中をピシッと指差すと、静かに、しかし妙にキメた声で言い放った。
「…………『ルックバック』」
静寂。
そして、コンマ一秒の遅れもなく、ラルフの脳細胞に電流が走った。
「ああああぁ! わかった! わかったぞちくしょうー! すっごいわかった!! お前が何をしたかったのか、めちゃくちゃ理解できたわ!! って、バカヤロォォォッ!!」
ラルフは座っていた椅子を激しく蹴飛ばさんばかりの勢いで立ち上がり、店内に響き渡る全力のツッコミを炸裂させた。
そう、それは前世の世界で空前絶後の話題を呼び、多くのクリエイターの心を抉り、そして感動させた、あの天才漫画家先生の名作のオマージュ(というかただのポーズ再現)だったのだ。
しかし、周囲の客たちにそのメタなネタが伝わるはずもない。
当のベル本人に至っては、絵が描けるなら場所はどこでもいいらしく、ラルフの絶叫すら心地よいBGM代わりに、すでに色彩の迷宮へと没頭し始めていた。
やれやれ……、
とラルフが頭を抱えて席に座り直した、その時だった。
カウンター席で、並々と注がれていたぐい呑みを一気に干し、とん! と小気味よい音を立てて卓に置いたウラデュウス国王が、何気ない様子で、しかし重大すぎる一言を呟いた。
「――だったら、ロートシュタインに学校があればいいんじゃないか?」
「…………は?」
ラルフは思わず、首の骨が引きちぎれんばかりの勢いでギュン! と音を立てて国王の方へと顔を向けた。
確かに、ラルフ・ドーソンが統治するロートシュタイン領には、高等な教育を施すための「学舎」が一つも存在しない。
ラルフ自身も、かつては王都の魔導学園に入学し、ロートシュタインを離れて寮住まいをしつつ(実際は魔法で隠蔽した"秘密教室"を好き勝手に改造して過ごしていたわけだが)、学んでいたのだ。
この王国において、学術的な向上心や一芸を極めようとする若者は、故郷を離れて王都へ出向くのが絶対の常識。
それを、まさか……。
このロートシュタイン領に、新たに「学校」を設立しろと……!!?
ラルフの脳裏に、莫大な予算書、教師の招聘、校舎の建設、そして山のような書類仕事という名の"厄介事の悪魔"たちが、満面の笑みでダンスを踊り始める光景が浮かんだ。
新たな、そして過去最大級に面倒な仕事が、津波のような勢いで目前に迫り狂っているのを、ラルフは肌で、そして魂でひしひしと感じるのだった。




