439.海を渡る熱
白亜の巨躯が陽光を撥ね返し、ロートシュタインの港は祝祭の熱気に包まれていた。
魔改造船『アビエラ・グレイス号』。その優美な船体を見上げる群衆からは、絶え間ない感嘆の声が漏れている。
そんな熱狂の渦中、式典の檀上に立った領主ラルフ・ドーソンは、およそ貴族らしからぬ軽妙さで杯を高く掲げた。
「休肝日――!! ということで、堅苦しい挨拶は抜きだ! 進水式、カンパーイ!」
威厳をどこかへ置き忘れたような簡潔な宣言に、港はどっと笑いに沸く。
「いやッ! ラルフさま! 休肝日って、飲んでるじゃねーかよ?!」
「はーハッハッハ! 相変わらず、わけわかんねー!!」
形式美を重んじる他領の貴族が見れば眉をひそめるだろうが、これがロートシュタイン流の「粋」というものだった。
「よし、野郎ども! 乗り込めー!」
女傑メリッサ・ストーン船長の凛とした号令が響くと、海賊公社の屈強な男たちが野太い雄叫びを上げ、次々と甲板へ躍り出る。
だが、その活気溢れる光景の中で、ラルフはある違和感を見逃さなかった。
フルフェイスのヘルムを深く被り、不自然なほど猫背でタラップを登ろうとする一人の船員。
その肩には、明らかに「大物を狙うため」の、異常に太い釣り竿を収めた革製ケースが担がれていた。
ラルフは無言で歩み寄ると、その肩をガシッ! と力強く掴む。
「……どちらへ行かれるつもりですか、ヴラドおじ?」
銀色のヘルムが、錆びついた歯車のような動きでゆっくりと振り返った。
「……な、何のことかな……? 儂はただの、志低き一介の船員であってだな……」
「バレバレなんだわねぇ! その業物で、またマグロを狙う気でしょうがっ?!」
ラルフの鋭い指摘に、周囲が凍りつく。
それもそのはず、この不審な船員の正体は、あろうことか一国の王――ウラデュウスその人だったのだ。
家臣の目を盗み、顔を隠してまで釣りに興じようとする奔放すぎる国王。
「あっ、陛下! なにしてんだよ?! コラッ! めんどくせーんだよっ!!」
遠くから血相を変えて駆けてくる宰相。その言葉遣いは、もう壊滅的だ。
国王ウラデュウスの「釣り逃避行」は出港を待たずして幕を閉じた。
「メリッサ! 途中、エストルンドに寄るのを忘れるなよ!」
無念の表情で連行される国王を見送りつつ、ラルフは甲板の船長へ声を張り上げた。
「分かってますって! ティナの酒場に『例の積荷』を届ければいいんでしょ?」
「そう、それだ! ティナによろしく伝えてくれ!」
積み込まれた木箱には、東の森で採れた瑞々しいタケノコや、セスの農園で収穫されたばかりの新鮮な野菜が押し込まれている。
「錨を上げろ! アビエラ・グレイス号、新たな航海へ!」
メリッサの鋭い叫びと共に、白亜の巨船がゆっくりと岸壁を離れる。
その勇姿が蒼海へと滑り出すのを見届け、ラルフは晴れやかな溜息をついた。
「さて、帰りますか……。ファウストさん、今日はもうお仕事は?」
隣で欠伸を噛み殺していた隣領の主、ファウスティン公爵が気怠げに口角を上げた。
「ああ。面倒な書類仕事はすべて文官どもに丸投げしてきた。今日はもう、一文字も読みたくないな……」
「はは、それじゃあ決まりだ。真っ昼間から一杯やりましょう!」
「最高だな。市場で気の利いたツマミでも仕入れていくか」
二人の公爵が交わす会話は、およそ統治者のそれではなく、休日の堕落を謳歌しようとする悪友同士のそれだった。
すると、ラルフの傍らに控えていたメイドのアンナが、音もなく優雅に頭を下げた。
「……失礼いたします、旦那様。以前よりお伝えしておりました通り、これより半日の暇を頂戴いたします」
「ん? あ、そうだったね。たまには羽を伸ばしてくるといい」
「はい。恐縮です……」
相変わらずの無表情で短く応じると、彼女は静かに雑踏の中へと消えていった。
その後、
ラルフとファウスティンは、セス少年がハンドルを握る魔導車:エバーの後部座席で揺られていた。
「それにしても、綺麗で大きな船でしたね!」
バックミラー越しに目を輝かせるセスに、ラルフは苦笑して項垂れる。
「そりゃあね……。あの改修費に、僕のポケットマネーがどれだけ消えたと思ってるんだ……」
「はんっ、どうせ最終的には十倍にして回収する算段なのだろう? お前のことだ、単なる贅沢で投資を捨てるはずがない」
ファウスティンの言葉に、ラルフは不敵な笑みを返した。
だが、その時。
「……うーん? なんか、街の様子がいつもと違いますねー?」
セスの何気ない呟きに、ラルフは窓の外へ視線を向けた。
「街の様子?」
「なんていうか、人通りが少ないっていうか……。こう、景色に彩りが足りないというか……」
ラルフは流れていく目抜き通りの景色を注視した。
屋台で鉄板を振るう中年男性。
マクダナウェル・バーガーから出てくる腹を空かせた冒険者。
道端で酒を酌み交わす聖教国の司祭と共和国の議員。
一見、いつもの活気に満ちたロートシュタインだ。
しかし、ラルフの脳裏に言いようのない寒気が走る。
「……っ! セス、止めろ!」
「えっ!? あ、はいっ!!」
急ブレーキの衝撃と共に、タイヤが鋭いスキール音を上げる。ラルフは車が完全に止まる前に外へと飛び出した。
「どうした、ラルフ! なんなんだよ?!」
困惑して追いかけてきたファウスティンの横で、ラルフは戦慄に目を見開く。
「なんだ……これは……。何が起きている……?」
「はあ? 何を大げさな。男たちが騒いでいるだけの、いつもの日常だろう?」
喉を鳴らし、ラルフはその「異常」の正体を震える声で口にした。
「……女性が……一人もいない……」
見渡す限り、視界に入るのはむさ苦しい男たちの姿のみ。華やかなドレスも、少女の笑い声も、ロートシュタインの街から完全に消失していた。
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一方その頃、
ロートシュタインの港から数キロ離れた海域では――。
「私はその『貴族遊戯』をくださいな!」
「私は『ニャンキス』の第二巻を! 布教用と予備も含めて三冊!」
アビエラ・グレイス号を包囲するように集結した無数の小舟から、凄まじい熱量を孕んだ女性たちの歓声が上がっていた。
「はい、お次の方どうぞ! 最新刊、まだ在庫ありますよー!」
甲板でテキパキと「薄い本」を捌いているのは、"BL開放戦線"の主催者にして、逃亡者の、カイリーである。
「まさか、海上で"ブラック・マーケット"を開催するなんて。流石のラルフ様も、ここまでは読み切れないでしょうね……」
メリッサ船長は呆れ果てた様子で溜息をつくが、その眼差しにはどこか感心したような色が混じっていた。
ここには身分も立場も存在しない。
あるのは、禁断の「推し」という名の背徳感を求める乙女たちの情熱のみ。
この世界に初めて「腐」という概念を植え付けたカイリーは、今や彼女たちの聖女として崇められていた。
そこへ、一艘の小舟が音もなく近づいてくる。
「カイリーさん。ロートシュタインへ戻るのは危険です。旦那様が血眼になって捜査網を広げていますから」
舟の上で静かに告げたのは、暇を取っていたはずのアンナだった。
「あはは……やっぱり? どうしようかなぁ、そろそろ新しい拠点が欲しいかも」
困ったように笑うカイリーに、アンナは淡々と、しかし確かな福音を授ける。
「そう言うと思いましたよ。……エストルンドに、新たな隠れ家を確保しました。酒場の店主、ティナという若い女性も貴女の大ファンだそうですよ……彼女曰く、『全力で協力を惜しまない!』とのことで……」
「本当!? よし、じゃあ。しばらくはそこにお邪魔しちゃおうかな!」
こうして、カイリーの新たな潜伏先は決まった。
ラルフがどれほど厳重な捜査網を敷こうとも、それを上回る速度で「カイリー逃亡援助ネットワーク」は大陸中に根を張りつつある。
結果として、ラルフとファウスティンをモデルにした「いかがわしすぎる同人誌」は、これからも変わることなく、いや、さらに加熱しながら世に流布され続けることになるのであった。




