438.イメージの詩――海賊と呼ばれる男
そこは、音も色彩も遮断されたかのような、静謐な白亜の空間だった。
どこまでも続く無垢な世界の中、不釣り合いなほど贅を尽くした円卓がひとつ。
並ぶのは、名酒と、この世のものとは思えぬ芳醇な香りを放つ佳肴の数々である。
「モグモグモグモグ! どう? ……美味しい?」
その問いに、対面に座る日に焼けた美丈夫は、困ったように眉を下げた。
「……失礼ながら。あまり、美味しくはないですね」
まさか、自分が命を賭して運んだ葡萄酒が、こんなにも"かび臭い酒"だったとは……、と。悲しくなってしまった。
「あはは、残念! でも正直でよろしい! じゃあ、ラルフ君から献上された、冷えたビールに切り替えましょうか!」
快活に笑い、グラスを鳴らすのは、この世界の理を司るという女神リュシアーナ。
その現実離れした美しさと、あまりに世俗的な振る舞いのギャップに、ジェームスは不思議と納得していた。
そう。自分は、――死んだのだ。
荒れ狂う海、愛船の舵を握りしめたまま果てた、あの瞬間の感触。
それだけが、今の彼に残された唯一の「生」の証左だった。
「ですが、この肉……ベヒーモス、でしたか? これは絶品だ。まるで、飲み物のように喉を滑り落ちていく……」
「そうでしょ? これ凄いわよねー! さすが、ラルフ君! "さすらる"!」
リュシアーナは、皿に鎮座する極厚のステーキを、手慣れた手つきで切り分けていく。
極上の晩餐。
未知の美味。
しかし、ジェームスの胸を占めているのは、舌を刺激する喜びではなく、心の最奥に澱のように沈殿している、消えぬ親愛だった。
「……女神様。俺の、奥さん。それと、息子のホルストは、その後……どうなったのでしょうか?」
リュシアーナの手が、止まった。
彼女はわずかに溜息をつき、ナイフを置く。
「知りたい?」
「……はい。できることなら。それだけが、俺の心残りなのです」
「そう。まあ、未練を抱えたままじゃ、あんまし良くないか……」
彼女は、どこか慈しむような眼差しでジェームスを見つめた。
「貴方の妻、マチルダさんはね。一人で立派にホルスト君を育て上げたわ。貴方と死別してから、最期の瞬間まで、彼女は貴方だけを想い続けた。再婚の誘いもすべて断って……。最後は多くの孫たちに囲まれ、安らかに天寿をまっとうしたわよ」
それを聞いたジェームスの口端から、自嘲気味な、けれど愛おしさに満ちた笑みがこぼれた。
「あのバカが……。俺のことなんてさっさと忘れて、もっとマシな男を捕まえればよかったんだ」
吐き捨てる言葉とは裏腹に、その双眸には柔らかな光が宿る。
彼は手元のグラスを呷った。
喉を焼く未知の刺激と、突き抜けるような清涼感。それが、彼にとっての「救い」の味だった。
「ホルスト君はね、貴方の背中を追うようにして船乗りになったわ。父の記憶は薄くとも、その魂が海に呼ばれたのね。彼は航海の途中で共和国の気のいい船乗り達と意気投合して、その誘いを受けたの。家族と共に共和国に渡り、海軍の技術士官として迎え入れられた。つまり……大出世よ!」
「ははっ! そりゃあ、たまげた! 凄いなっ! あいつ、俺よりずっと遠くまで行ったんだな!」
「そうね。彼は死ぬまで誇り高き海の男でありたいと願い、子供や孫たちに語り続けたそうよ。『俺の親父は、世界一の船乗りだった』ってね」
「そうか……。そうか……そうだったのか……。うん……そうなの、か……」
ジェームスはたまらず目頭を押さえた。
若くして家族を残し、無念の死を遂げたと思っていた。
しかし、自分の命が残した種火は、現世で確かに燃え続け、誰かの心を温めていた。
その事実だけで、彼の凍てついた魂は報われたような気がした。
「……貴方は最後の瞬間まで、船乗りとして在り続けた。その意識が尽きても、船を沈めまいと舵を離さなかった。……貴方は、本当に立派な船乗りだったわ」
女神の慈愛に満ちた言葉に、ついにジェームスの瞳から熱い涙が溢れ出した。
「ありがとうございます……。本当に……ホントに、ありがとう、ございます……ありがとうございます」
「さあ! 湿っぽいのはここまでよ。貴方に私の加護を授けましょう。……で、どうしたい? 貴方ほどの崇高な魂なら、転生先の希望くらい、私がちょちょいと聞いてあげられるわよん!」
おどけてウインクするリュシアーナに、ジェームスはしばし呆然とし、やがて静かに、けれど強く願った。
「……マチルダの元に、もう一度、転生することはできますか?」
それは、神への冒涜に近い傲慢な願いかもしれない。
けれど、女神は優しく微笑んだ。
「…………うん。そう言うと思ったわ。貴方たちの縁は、魂の深いところで結びついているものね。……オーケー、任せなさい!」
その言葉を聞いた瞬間、ジェームスの胸を去来していた不条理な死への無念も、運命への呪いも、すべてが清涼な海風に洗われるように消えていった。
「……ありがとう、ございます」
深く、深く、彼は頭を垂れた。
「転生先は……、あらあら。奇遇ね! 元いた世界だわ。記憶は引き継げないけれど……強い縁が貴方を導くわ。貴方の子孫たちのすぐ近くに、貴方は新しく生まれ変わる。――さあ、案内人をお願いしてもいいかしら?」
リュシアーナが傍らの虚空に声をかける。
「うん……わかった。ここからは、私が」
いつの間にか、そこには透き通るような白髪の少女が立っていた。
ジェームスはその姿に既視感を覚え、目を丸くする。
「その子は、女神アビエラよ」
「女神、アビエラ様……?!」
驚愕に震える。
彼が最期の時まで操舵を握り続けた、あの白亜の船。
アビエラ・グレイス号の名を戴いた、守護女神その人だった。
「貴方が最期まで私に祈りを捧げていたこと、知っている。何もしてあげられなくて、ごめんなさい。だから……今度こそ、幸せになって」
幼い女神アビエラが、小さな手を差し出す。ジェームスはその手を、宝物を扱うかのように慎重に握りしめた。
「そうね! 今度こそ、幸せになってね! 良き来世を!」
背後で、だらしなくビールグラスを傾けるリュシアーナが手を振る。
ジェームスは立ち止まり、晴れやかな笑顔で振り返っ
た。
「女神様……。とても、ありがたいお言葉ですが、俺は、……決して不幸ではありませんでしたよ!」
その宣言は、白亜の空間に高く響き渡った。
他者から見れば、非業の死。
けれど、
"船乗りは流れに身を任せたりはしない"。
自然の猛威に立ち向かい、自らの信念という舵を切り続ける。
ジェームスは、その生涯を真の船乗りとして全うしたのだ。
その誇りがあれば、
十分だった。
「本当に、ありがとうございました」
アビエラに手を引かれ、彼は眩い光の中へと歩みを進める。
「……そういえば。貴方の子孫の女の子、今じゃ『海
賊公社』なんて呼ばれてるみたいよ」
「え? 海賊?! 女の子なのにか? ……ははっ、でも、なんだかカッコいいじゃないか!」
笑い声と共に、彼の魂は新しい光の中へと溶けていった。
✢
メリッサ・ストーンは、重い頭を持ち上げ、意識を覚醒させた。
視界に映るのは、転がる酒瓶と、死屍累々のごとく酔い潰れた「海賊公社」の野郎ども。
「おい、メリッサ……。ここに、泊まったのか?」
呆れたような声の主は、眉間に皺を寄せたロートシュタイン領主、ラルフ・ドーソンだった。
「あー……頭が、割れる……。飲み過ぎた……」
メリッサは外套を被ったまま、床板にドサリと額を打ち付けた。
「というかだな! 仮設ドックの中で夜通し酒盛りしてたのか?! え?! お前らには、この船が最高のツマミだってのか?!」
ラルフが指し示す先には、改修を終え、天井の採光窓から降り注ぐ陽光を浴びる白亜の船。
――アビエラ・グレイス(改)。
再び大海原を夢見るその姿は、神々しいまでの美しさを放っていた。
「……あー、はい。もう、こんなのを見せられたら、飲むしかないですよ〜。精巧模型も良きですが、完成したこの船を眺めているだけで、酒なんて何杯でもいけます。……ぐへ……ぐっへっへっへっへっへ〜!」
「……うっわ、変態かよ、お前は……?!」
ラルフはドン引きしつつも、溜息をついた。
「いいか、進水式は明日の午前だ。一応、公式行事なんだからな。正装を用意しておけよ!」
「はい、はい……。大丈夫れす、わかってまふ……。ふぁぁぁぁ……」
盛大な欠伸をするメリッサ。
その姿を見ながら、ラルフは密かに思っていた。これほどまでに情熱を仕事に傾けられる彼女は、きっと誰よりも幸福なのだと。
「ん~……。なんか、変な夢を見た気がします……」
「はぁ? 夢? どんなだ?」
「なんか……男の人が、綺麗な女の人と酒を飲んで、肉を食べてたような……」
「それ、お前の欲望そのまんまじゃないか! まだ食い足りない、飲み足りないってか?!」
「あ、いや。そういうことではなくてですね……」
そんな、いつも通りの喧騒。
それが、ロートシュタイン領の、穏やかで騒がしい日常だった。
✢
アビエラ・グレイス(改)はその後、海賊公社の旗艦として、未踏の南下航路を次々と切り拓いていくことになる。
そして後年――。
船長メリッサ・ストーンは、とある人物と結ばれ、子をなした。
彼女はその長男に、偉大なる先祖の名を授ける。――ジェームス・ストーンと。
その少年は、物心ついた頃から異常なほど海に執着し、母を困らせた。
そして成長し、母から船長の座を譲り受けるや否や、彼の「暴走」が始まった。
「オラオラオラ! "海賊様"のお通りだ! どけ! テメェら、誰に断ってこの海域を封鎖してやがる?! 海の"モズク"にするぞ、コラァ!」
「せ、船長! それを言うなら、モズクじゃなくて『藻屑』ですよ!」
「ん? ……お、おう……。どっちでもいいんだよ……。とにかく、邪魔するなら沈めるぞ! コラァ!」
ジェームス・ストーンは、わずか数年で海賊公社を、大陸全域を網羅する巨大海運商社へと押し上げた。
どんな荒波も、どんな無謀な航路も、彼の操る舵を止めることはできなかった。
世界の海運通商を掌握せんとするそのカリスマ性と、天賦の操舵技術。
いつからか、誰からともなく、人々は彼を「海賊」と呼び、畏怖したが、当の本人は、その二つ名をいたく気に入っていた。
彼は世界中の美味を王国へ運び込み、食文化と経済を劇的に発展させた。
不敵な笑みを浮かべ、まるで生き急ぐかのようにその生を謳歌する彼は美食家としても知られたが、一点だけ、奇妙なこだわりがあった。
「ワイン……か。あんまり好きじゃないんだよな〜。ビールはあるか? できれば、ロートシュタイン産の、淡麗なフレーバー・ビールがいいな」
高貴な晩餐会であっても、彼は庶民的なビールの味を求めた。
そして、彼の出自について、まだ語られていないことがある。
それは、
彼の父親……。
海賊公社の女傑、メリッサ・ストーンの心を射止めた男は、一体誰だったのか?
その物語は、
また別の機会に……。




