437.肉の日
帝国の皇帝ゼファーニア・ヴォル・ドミナンスは、かつて『肉を飲んだ』ことがある。
後世の歴史家たちが首を傾げるであろうこの一節は、彼が王国領ロートシュタインの中心、美食の震源地とも言える『居酒屋領主館』に滞在していた折の述懐である。
「はいよーっ! 本日の大奉仕、サービスメニューはベヒーモスの丸焼きだ! 安いよ、食わなきゃ損だぜ!」
店主であるラルフ・ドーソンの、弾けるような威勢の良い声が店内に響き渡る。だが、詰めかけた客たちが幾重にも重なる林の如く立ち飲み、立ち食いに興じているため、皇帝の座る位置からその姿を捉えることは叶わない。
目の前に供されたのは、深皿に鎮座する巨大な骨付き肉。
先ほどまで庭で毛皮ごと業火に焼かれ、内部で旨味を閉じ込めながら蒸し焼きにされた、ベヒーモスの真髄とも言える部位だ。
持ち上げれば、琥珀色の脂身とプルプルと震えるコラーゲンの塊が、自重に耐えかねて今にも崩れ落ちそうに揺れる。皿の底には、熱によって液体へと昇華した黄金の脂がなみなみと湛えられていた。
ゼファーニアは作法などかなぐり捨て、太い骨を鷲掴みにすると、剥き出しの食欲に従って豪快に頬張った。
――咀嚼という、あまりに煩わしい工程は、そこには存在しなかった。
「あれ? えっ?! ……消えた? いや、待て。ベヒーモスの肉とは、飲み物だったのか? 喉越しが、良すぎやしないか?」
口に含んだ瞬間、筋繊維は淡雪のごとくホロホロとほどけ、濃厚な脂とコラーゲンの濁流とともに、一瞬にして胃の腑へと流れ落ちていく。
大魔導士ラルフ・ドーソンが、その比類なき魔力を料理という名の芸術に惜しみなく注ぎ込む男だとは知っていた。だが、魔眼を駆使して焼き加減を極限まで見極めたこの肉料理は、もはや調理の域を超えた魔法そのものであった。
「はい、いらっしゃい! 今日は特別イベント『肉の日』だよー! テイクアウトもジャンジャン受け付けるからねー!」
看板娘の一人、エリカは凛々しくも愛らしい額に『肉』の一文字が躍る鉢巻きを締め、押し寄せる客の波を見事に捌いている。
ウラデュウス国王の、あまりにも無責任かつ豪胆な『差し入れ』によって幕を開けたこの突発的イベントは、ロートシュタイン領を疾風怒濤の勢いで駆け抜け、瞬く間に伝説的な『宴』へと変貌を遂げていた。
偉大なる異世界グルメファンタジーの先駆的作品、七日に一度、"ドヨウの日"に異世界へ繋がる扉を開く"あの洋食店"においては、『肉の日』といえば月に一度の滋味溢れる『とん汁』が振る舞われるのが定石だが――。
ここ、領主館の"肉の日"は、より野性的で、血肉を沸き立たせるような野蛮な饗宴であった。
「おーい! 赤ワインのボトルを注文したのは誰だ!?」
「あ! はいはーい! 私たち! 私たちでーす!」
「おい、それをあっちの聖女様までリレーしろ!」
「了解、任せとけ!」
熱気で飽和し、身動きすらままならない店内では、客同士の間に奇妙な連帯感が生まれていた。給仕たちが移動できないのであれば、手から手へと料理や酒のボトルをリレーすればいい。
だが、その善意の連携が、思わぬ『誘惑の連鎖』という副産物を生んでしまう。
「ドッヂさん! 悪い、向こうのパトリツィアまで、この料理を回してくれないか!」
ラルフがカウンターから身を乗り出し、常連の農夫ドッヂに大きな皿を託す。
「ん? 了解だラルフ様……。って、なんだこれ? うわ、めちゃくちゃ良い匂いじゃねぇか。これ、一体何の料理だ?」
「ああ、それか? ベヒーモスの『肉あんかけチャーハン』だよ。チャーハン王子こと、フレデリックの逸品だぞ!」
ラルフが目が回りそうな忙しさの中で短く応じると、ドッヂの喉が大きく鳴った。
「くっ……よし、俺の分も注文だ! ……あ、おい! これ、奥の赤髪の嬢ちゃんまで回してくれとよ!」
ドッヂが無念を断ち切るように隣のエルフの少女へ皿を渡すと、彼女もまたその芳醇な香りに瞳を輝かせる。
「なんなんこれ?! ひゃんでー美味そげだねっか〜?! ⋯⋯ちっと、つまみ食いをば⋯⋯」
とぼけた顔でスプーンを伸ばそうとした瞬間、店の奥から鋭い叫びが響いた。
「ちょっとちょっとー! それ私の私の! それは私のチャーハンよ〜! 勝手に食べないでぇぇーっ!!」
パトリツィアの、切実かつ怒りに満ちた怒号が喧騒を切り裂く。
食への執着が生んだ、あまりに必死な抗議であった。
その熱狂渦巻く店内から一歩外に出れば、そこにはまた別の戦場があった。
「はい、次の人! 持ってきた鍋を見せてくれ! サイズに合わせて切り分けるから!」
巨大な包丁を軽々と操るミラ・カーライルが、持ち帰りの客たちをテキパキと捌いている。
自宅から持参した鍋に、入るだけの肉を詰め込むという豪快なシステムだ。その行列は、夜の帳の向こう側まで果てしなく続いている。
「……くっ、これは想像以上に骨が折れる。脂が刃に絡みつき、研いだばかりの包丁がすぐに鈍るぞ。なんと厄介な獲物だ……」
慣れない巨大包丁を手に、額の汗を拭うのはクランク・ハーディーだ。
かつて聖剣騎士団で「最強」を自負していた彼も、調理という名の戦場では苦戦を強いられていた。
すると、そこへ一人の男が静かに歩み寄る。
「どれ……少し貸してみろ」
「あっ! け、剣聖様!」
クランクは慌てて場所を空け、敬意を込めて一歩退いた。
ヴォルフガング・ドーソンは、クランクから吸い付くように包丁を受け取ると、黒く炭化したベヒーモスの表面を、まるで愛し子を撫でるかのような手つきで優しくなぞった。
――ドスン。
重厚な音とともに、狙い違わず炭化した外皮が剥がれ落ち、完璧な厚みのブロック肉が切り出される。抵抗など一切感じさせない、あまりに滑らかな断絶。
「……あー。わけわかんなよー! すごいよー!」
クランクは遠い目をして、己の未熟さを噛み締めた。剣技に関しては並ぶ者なしと自負していたが、目の前の男は、もはや「切る」という事象そのものを支配しているようだった。
「というかよ……あいつ、何やってんだ?」
ヴォルフガングが視線を向けたのは、庭の片隅だ。
そこには、皆から「お母さん」と慕われるフォレスト・ウルフの姿があった。
彼女はエリカから貰ったであろう大きな骨付き肉を平らげた後、残った骨を口に咥え、前脚でシャコシャコシャコシャコ! と一心不乱に地面を掘り返している。
どうやら、お気に入りの宝物として、この希少なベヒーモスの骨を大切に埋める気らしい。
そこへ、店の窓から顔を出したラルフが声を上げた。
「親父ー! ついでに、手頃な骨をいくつか切り出してくれないか?」
「ん? 骨? ああ、またスープの出汁にでもするつもりか?」
「いやいや。骨を縦に割って焼いてさ、『骨髄』を客に出そうと思ってね。酒の肴には最高だろ?」
ラルフのにこやかな提案を聞いた瞬間、ヴォルフガングは再び「お母さん」の方を見た。
その咥えている骨が――ちょうど良いサイズ感だったからだ。
だが、フォレスト・ウルフは即座に反応した。
獲物を狙う剣聖の気配を察したのか、彼女は必死な形相でフルフル、フルフル! と首を激しく横に振る。
完全に人語を理解しているようで、断固拒否の姿勢を示していた。
さすがのヴォルフガングも、その必死さに苦笑し、強奪するのを思い止まる。
「……分かった、待っていろ。大腿骨あたりなら、髄もたっぷり詰まっていて食べ応えがありそうだな」
彼は再び、解体途中の丸焼き巨獣へと向き直った。
「おーっ! 剣聖殿の一閃だ! 瞬き禁止だぞ! みんな、よく見ておけ!」
ミラが子供のように飛び跳ねて喝采を送る。
「まあ、参考にはならないでしょうがね……」
クランクもまた、諦め混じりの羨望を瞳に宿し、一介の剣士としてその一挙手一投足を注視した。
次の瞬間、篝火の光を一瞬だけ反射させ、剣聖の大剣が夜の闇を切り裂く。
圧倒的な力を持つ強者たちが、その武威を殺し合いではなく、ただ「美味い飯」を分かち合うために遺憾無く発揮する。
そんな贅沢で、あまりに賑やかな『肉の日』の夜は、深く、更けていった。
ちなみに――。
翌朝、領主館の庭には、ベヒーモスの骨の一欠片すら残っていなかった。
「希少な巨獣の骨格標本が手に入るぞ!」と期待して王都から駆けつけた魔獣生態学者たちが、跡形もない地面を見て一斉に無表情になったのは、また別のお話⋯⋯。
まさか、
骨まで貪り尽くされるとは、
夢にも思っていなかった⋯⋯。




