430.インペリアル・ハート
ロートシュタイン領の黄昏時。喧騒が混じる街角の屋台街に、一人の男が立っていた。
名はゼフ。そう名乗る男。
歳は四十代半ば、銀の糸が交じり始めた髪を無造作に流したその細身の体躯からは、奇妙なほどに洗練された「気品」が立ち昇っている。
「いかがですか? 帝国の錬金薬師が秘伝のレシピで組み上げた、奇跡のハーブ・リキュール。その名も『インペリアル・ハート』。……お望みとあらば試飲もできますよ」
ゼフの軽妙な口上に、一人の男が吸い寄せられるように足を止めた。
異様なまでの「美食」と「珍品」への嗅覚を持つ男、グレン子爵である。
「ほう……。これはまた、底知れぬ色味だ。まるで深い森の奥に眠る古層のようだが……。どれ、その自慢の一献、試させてもらおうか」
「賢明なご判断です。……これには、少しばかりの『魔法』をかけるのが作法でしてね」
ゼフは微笑み、水晶のように透き通った砂糖の塊を取り出した。小さなナイフで軽やかに割り出されたその欠片を、クリスタル製のショットグラスへと落とす。カラリ、という硬質な音が響く。
そこへ、瓶からエメラルドグリーンの光彩を放つ液体が注がれた。
「どうぞ。ゆっくりと、舌の上で転がしてください」
手渡されたグラスを覗き込み、子爵は感嘆の声を漏らした。
「……凄まじい芳香だ。ただの酒ではないな、これは。まるで、高級ハーブで醸されたポーションのようだ」
子爵はその毒々しくも美しい液体を、慈しむように一口、喉へと送った。
ハーブの鮮烈な苦味と、溶け出した砂糖の官能的な甘みが、複雑な重奏となって脳を揺さぶる。
「……いかがでしょう?」
「うむ! 素晴らしい! 一本……いや、二本、即刻買い取らせていただこう!」
即断即決。
グレン子爵の瞳には、知識欲と独占欲、そして美食家としての狂熱が混ざり合っていた。だが、ふと我に返った彼がゼフの顔を凝視する。
「ところで……。貴公、どこかでお会いしたことはないか? その……いささか、嫌な予感がするのだが……」
「しっ……! お静かに。ここは、身分も肩書きも、すべてが曖昧に溶けていく美食の街。そうでございましょう? ほら、そのショットグラスの砂糖のようにね」
ゼフは悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
その立ち居振る舞いは、一介の露天商にしてはあまりに高潔すぎたが、子爵はそれ以上の追及を飲み込んだ。
「……ふん。砂糖が勿体ない。もう一杯、今買ったボトルから注いでくれ」
「毎度あり。……いらっしゃいませ! いかがですか、帝国の至宝ですよ!」
威勢の良い呼び込みを再開するゼフを背に、子爵は立ち飲みを続ける。
夕闇が街を包み込む頃、ゼフは銀貨がずっしりと詰まった麻袋を弄びながら、上機嫌で口笛を吹き、『居酒屋領主館』の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませー!」
「お好きな席へどうぞ!」
店内には、従業員の子供たちの元気な声が弾けていた。
そこは、まるでこの世界の縮図だった。
「マスター! 油そば、大盛りで! 追い飯も!」
凛々しい女騎士が、最近のお気に入りを叫ぶ。
「この貝、この赤いソースで食べると……飛ぶぞ。意識が、遥か彼方の海へ……」
リザードマンの戦士が、牡蠣の殻を山のように積み上げながら恍惚としている。
「ちょっと! なんで生のピーマンがこんなに甘くて美味しいのよ! あり得ないわ! ムシャムシャ……。ラルフさま! この『肉味噌ピーマン』をおかわり! 」
運び屋の女性が、新たな味覚の扉を開いてしまい、半狂乱で叫んでいる。
ゼフの言う通りだった。
ここでは、生まれ持った血筋も、背負わされた責務も、すべてが暖簾の向こう側に置いてこれる。ただの「客」として、等しく美味に跪く場所なのだ。
カウンターの隅、自称・ヴラドおじさんが、眉間に深い皺を刻んでゼフを振り返った。ゼフは軽やかに笑い、旧知の仲であるかのようにその隣へ滑り込む。
「いらっしゃい。ゼフさん。はい、おしぼりね」
カウンターの中から差し出されたのは、この店の主にして、ロートシュタイン領を統べる公爵、そして"殲滅の魔導士"たるラルフ・ドーソンだ。
適度に温められた純白の布。その細やかな気配りに、ゼフは目を細める。
「ああ、ドーソン卿。また来てしまったよ。今夜も……これで、君の『オススメ』を頼めるかな?」
ジャラリ、と銀貨の詰まった麻袋がカウンターに置かれる。
「……いや、だから。そんなに大金はいらないって。うちは普通の酒場なんだからさ。……まあいいや。いつもの、お任せコースでいいんだね?」
ラルフは呆れ顔で応じる。
この常連客・ゼフの金銭感覚は、どこか浮世離れしすぎていた。
「ああ! いつものように、テキトーに頼むよ!」
ソワソワと料理を待つゼフの横顔に、隣のヴラドが低く、重厚な声をかけた。
「……のう。貴様、そんなに遊んでおって、帰らなくていいのか?」
「ん? ああ。これでも七日に一日は戻っているさ。所詮、朕は……おっと、私はお飾り。優秀な議会と文官どもがいれば、国という巨大な歯車は勝手に回るものだよ」
もはや隠す気もない自称に、ヴラドは深く溜息をつく。
「……羨ましい限りよ。儂のところの連中にも、その爪の垢を煎じて飲ませたいものだ」
「人のこと……言えます?」
ゼフの返しに、二人は顔を見合わせ、店内の喧騒を塗り替えるほどの高笑いを上げた。
「はいよ。ゼフさんには『トリアエズナマ』と『肉味噌ピーマン』。ヴラドおじには『蒸しレバ刺し』と冷酒だ」
差し出された酒と肴。
その芳しい香りが、二人の「牽制」を終わらせる。
ゼフは、運び屋のマーサが半狂乱になっていたあのツマミをおもむろに手に取ると、早速、シャクリ! と頬張り、そして……。
「お! これは、美味い……! 確かに、このピーマンの瑞々しさと肉味噌のコクと甘さは……信じがたい調和だ!」
ゼフは感動を剥き出しにし、陶酔の表情を浮かべる。そしてジョッキに手をかけた瞬間、ヴラドが鋭い視線を向けた。
「おい。乾杯もなしか? 無作法が過ぎるのではないか、若造」
「おっと。これはいけない。どれほど下賤な酒場であろうと、そこには鋼鉄の掟にも等しい『作法』が存在するのでしたね」
カチン、とジョッキとぐい呑みが触れ合う。
その音は、国家間の同盟よりも固く、それでいて軽やかだった。
ラルフはそれを見届け、満足げに肉味噌の追加仕込みに取り掛かる。
宴が進むにつれ、交わされる会話の熱量が増していく。
「……もう少し、関税を緩くしてはどうだろう? 流通が滞れば、結局は末端の胃袋が干上がる」
「ふん。それは儂も検討しておる。だが、急進的な変革は反発を招くぞ」
「反対勢力ですか。確かに。しかし、彼らに『さらなる旨味』を提示し、組織を内側から緩やかに溶かしていけば……なんとかなる。ヒトという生き物は、劇的な変化には恐怖するが、緩やかな変容には案外、心地よく適応するものですよ」
それは、一介の酔客が語るにはあまりに壮大で、あまりに冷徹な国家運営の真理。
「はいよー。ゼフさん。これ新作の『オークのハツ』ね」
だが、次の瞬間には、ゼフはラルフが差し出す新作の串焼きに目を輝かせていた。
杯を何杯も、何杯も空けた頃、
「あっ! おっちゃーん、来てたんだ? どう、シメはあたしの『特製スープカレー』にする?」
甲高い声を響かせて現れたのは、金髪ツインテールを揺らす看板娘、エリカだ。
「ああ、エリカくん! ぜひとも頼むよ。思いっきり辛くしてくれ。地獄の業火のように赤い、あの極彩色のスープを所望する!」
「ふんっ、期待してなさいな!」
意気揚々と厨房へ消えていく彼女の背中を見送り、ヴラドは心底信じられないといった様子で呟いた。
「……あんな劇薬のような辛味、よく食えるな……」
「え? 美味しいですよ? 最後に彼女のカレーを食べると、頭がスッキリとして、不思議と翌朝に酒が残らないんです。これも一種の魔法かもしれませんね」
「ふむ……。まあ、人の嗜好はそれぞれか。ラルフ! 儂はシメにあっさりとした『醤油ラーメン』だ。余計な小細工はいらんぞ」
「へいへい……分かってるって」
カウンターの中で、既に見越していたかのように麺を茹で始めるラルフ。
「ヴラドさん。どうですか? この後、スナック・リネアで飲み直しませんか? 実はあそこのママにも、『インペリアル・ハート』を卸す約束をしているんですよ。よかったら、一緒に行きませんか?」
「まだ飲むのかよ……。全く、元気な男だ……」
呆れ果てるヴラドだったが、その口角は微かに上がっていた。
身分を隠し、ただの美食家として夜を泳ぐ二人の最高権力者。
ヴラドと名乗るは、国王、ウラデュウス・フォン・バランタイン。
そして、ゼフと名乗るは、帝国の絶対君主、
ゼファーニア・ヴォル・ドミナンス。
彼らの平和で、あまりに下賎な夜は、心地よい喧騒の中に溶けていった。
去る、5/4東京文学フリマの会場にて、『異世界居酒屋「のぶ」』の蝉川夏哉先生とご挨拶をさせて頂きまして、光栄なことに名刺交換もさせて頂きました!
なんと、ツーショットの写真まで!!
……正直、手が、震えてました……。
「応援していますよ!」
という、温かなお言葉に、胸の奥がざわめき、
昨晩は眠れなくなってしまいました。




