429.ヨハンの嘘
ロートシュタイン出版の孤児たちが蒔いた「偏愛」という名の種は、予想を遥かに上回る速度で芽吹き、爆速で巨大なうねりへと成長を遂げていた。
去る夏、ロートシュタイン祭の片隅で産声を上げた同人誌即売会。その熱狂は、閉幕と同時に「次はいつだ?」「一年に一度では渇きを癒やせない!」という、切実なまでの飢餓感に満ちた嘆願となって各地から殺到した。
そのあまりの熱量に、ついに領主ラルフは「ああもう、めんどくせー!」と半ば投げやりな叫びを上げ、領主館の正面から真っ直ぐに伸びる目抜き通りを、まるごと開催地として開放するという暴挙――もとい、英断を下したのである。
普段は日用品や食料を商う活気に満ちた大通りは、今やその姿を一変させていた。並んでいるのは、それぞれの魂の欠片を綴った「同人誌」の屋台。それはさしずめ、紙とインクの香りに支配された、静かなる情熱のマルシェであった。
「……今回も、恐ろしいほどの人出だな」
ラルフは傍らに控える無表情なメイド、アンナを引き連れ、鋭い眼光を四方に走らせる。
空は雲一つない快晴。
降り注ぐ陽光の下で、出展者と来場者たちが互いの「好き」を語り合う、穏やかでいて濃密な時間が流れていた。
「これは、食用に適した魔物の生態図鑑だ。元々は新人冒険者の教則本として書き留めていたものだが……まさか、貴族の方々からこれほどまでに所望されるとはな」
冒険者ギルドマスターのヒューズが、その無骨な指先で繊細な写本のページをめくっている。そこには、彼の長年の経験に基づく実践的な知識がいかんなく詰め込まれていた。
「ふむ……実に合理的かつ写実的だ。挿絵の精度も高い。これは、うちの子供に与えても楽しんでくれるのでは? ……よし、一冊いただこう」
偶然通りかかった聖教国の司祭との間で、奇妙な取引が成立する。実用と知的好奇心が、身分や国境を越えて交差する瞬間だ。
「いらっしゃいませ! 僕が書いた『ロートシュタイン釣りマップ』だよ! 渓流の穴場から水上都市、さらには広大な海域まで完全網羅した一冊でーす。いかがですかー!」
釣り好きな貴族の少年が、大人顔負けの商売っ気で威勢のいい声を上げる。
「こちらは至高のカレーレシピ集よ! 私と宮廷料理長が、知恵を振り絞って書き上げた共同執筆なんだから。残念だけど、安くはないわよ!」
エリカはエリカで、その美貌の裏に潜む計算高さを隠そうともせず、懐を潤すことに余念がない。
そんな賑わいの中、ラルフの眼光だけは相変わらずギラついていた。
獲物を探す猛禽類のような視線で、周囲の屋台を執拗に捜索する。
「……どうだ、アンナ。カイリーの気配はあったか?」
「……旦那様。まだ、その執念を燃やし続けていらしたのですか」
アンナの氷のように冷ややかな問いかけが、ラルフの側頭部を射抜く。
「当たり前だろ! チッ、あいつがこの祭典を指をくわえて見てるはずがねぇ。だが、公式の出展者名簿にはどこにも『カイリー』の名前が載ってねぇんだよなぁ……」
ラルフは忌々しげに案内の紙を睨みつけた。
するとその時、人混みの向こうから弾けるような明るい声が響いた。
「あっ、ラルフさま! 視察にいらしてたんですね!」
声の主は、ロートシュタイン出版の若きリーダー、ヨハンだった。幼い身でありながら、この即売会という文化の苗床を管理する、実質的な主催者の一人である。
「よう、ヨハン。売れ行きはどうだ?」
「はい! 共和国から流れてきた人々の中に『写本師になりたい』と志願してくれた方が大勢いまして。今回は大幅な増産が可能になったんです!」
「へぇ、そいつは重畳だ。……ちなみに、今のトレンドは何なんだ?」
「やっぱり、コレですよ! 断トツです!」
ヨハンが誇らしげに掲げた一冊。そのタイトルを目にした瞬間、ラルフの眉が動いた。
『ジェームス・ストーンの海 〜芳醇なる墓標〜』
「……なるほどな」
ラルフは思わず感心の溜息を漏らした。
先日の幽霊船騒動。
幻のヴィンテージ・ワイン発見という輝かしい功績の裏にあった、最期まで操舵を離さず散ったジェームス・ストーン船長の悲劇。そして、時を越えた、子孫メリッサ・ストーンとの魂の邂逅。
そのドラマチックな実話は、人々の創作意欲に火をつける「最高の種」であった。
聖教国に残されていた彼の断片的な記録は、空白があるからこそ、人々の妄想という名の色彩で鮮やかに塗り潰されたのだ。
「メリッサも、これは買ったのか?」
「海賊公社の皆さんは、朝一番で押しかけてきて『全員分だ!』って買っていかれましたよ。お昼過ぎからは、メリッサ船長ご本人を招いてのサイン会も予定していますし……」
「へぇ、サイン会なんてのもあるのか。お前ら、商売のいろはをよく分かってるじゃないか」
感心するラルフだったが、本来の目的を忘れるわけにはいかなかった。
「ところで、ヨハン。……カイリーがどこに潜伏してるか、心当たりはないか?」
「……えっ。あ、そ、それは……いくらラルフさまのご質問といえども、僕の口からは……」
ヨハンの表情が目に見えて強張り、視線が泳ぐ。
「おいおい、ヨハンくん? 僕と君の仲じゃないか。隠しごとは良くないなぁ。知っていることを、そっと教えてほしいんだがねぇ……?」
ラルフはこれ以上ないほど醜悪で、下卑た笑みを浮かべて距離を詰めた。
「……旦那様。あまりにも、大人げなさすぎます」
アンナの蔑むような視線がラルフを刺す。しかし、その時。ラルフの脳裏に、この世の終わりを告げるような最悪の予感が閃いた。
「……待てよ、アンナ。もしかして、お前まであんな……あんな『いかがわしい』本に毒されているなんてことは、ないよな?」
「…………」
沈黙。
それは、この世で最も饒舌な肯定であった。
「否定しろよ! そこは即座に否定してくれよ! 黙り込むのは肯定と同じなんだよ!!」
頭を抱えて絶叫するラルフに対し、ヨハンは悲壮な決意を固めた表情で深々と頭を下げた。
「……すみません。ですが、カイリーが今、誰の目も届かない場所に身を潜めていることだけは間違いありません……」
絞り出すようなその声に、ラルフの肩から力が抜けた。
「……ふん、まあいい。僕もな、なにも本気でカイリーを牢にぶち込みたいわけじゃない。ただ、節度ってやつを教えたいだけなんだがな……」
少々悪ノリが過ぎたか、と反省の色を見せつつ、ラルフは気を取り直して周囲を見渡した。
「さて! せっかくの祭りだ。僕は冷えたビールでも飲もうかな。どれ、美味い屋台はどこだ?」
ルンルンとした足取りで歩き出そうとしたラルフに、二つの冷徹な声が重なった。
「「ありませんよ?」」
「……へ? え?」
ヨハンとアンナの完璧なユニゾンに、ラルフは間抜けな声を上げた。
「はい。本日に限り、目抜き通りでの飲食は一切禁止です。展示されている貴重な本を汚さないための、鉄の掟ですから」
ヨハンの宣告に、アンナが追い打ちをかける。
「旦那様……。よもや、この聖なる場を、あの野蛮で下賤な『酒飲み祭り』と混同されているのですか? ここは本という名の、静謐なる叡智を嗜むための聖域。酒の臭いを撒き散らしながら徘徊するなど、もはや無知を通り越して喜劇でございます。それでもなお、アルコールという毒を摂取したいと仰られるのであれば……」
「わかった! わかったから! もういい、僕が悪かった!」
ラルフは必死に手を振って彼女の言葉を遮った。放っておけば、小言のガトリング砲によって精神が微塵切りにされるのは火を見るより明らかだった。
「……しゃーない。美味い酒は、夜までお預けってことか」
「旦那様。……『休肝日』という言葉をご存じですか?」
アンナの追い打ちを背中で受け流しながら、ラルフは苦笑した。
たまには、こうして二人で、熱気に包まれた本の海を静かに歩くのも悪くない。
彼らが立ち去った後――。
屋台の番をしていたヨハンは、ようやく喉に溜まっていた息を大きく吐き出した。
「……カイリー、もう出てきていいよ」
その合図と共に、本を並べるための敷物の下から、小さな影が這い出してきた。
「……ふぅ、危なかったぁ。ありがとう、ヨハン。ごめんね! ラルフ様に嘘つかせちゃって」
そこには、ラルフが血眼になって探していたはずの、不敵な笑みを浮かべたカイリーの姿があった。
「ふぅ〜。もう、心臓バクバクだったよ〜。……それに、大丈夫だよ。嘘はついてないし……」
「……ん?」
と、カイリーは首を傾げる。
先程のヨハンの言葉、
"――誰の目も届かない場所に身を潜めていることだけは間違いありません……"
つまり、嘘は言っていない。
そして、その数日後のことである――。
『BL開放戦線』を名乗る、カイリーを筆頭とした謎の地下組織が結成された。彼らはラルフの張り巡らせた監視の網を鮮やかに潜り抜け、あろうことか「表現の自由」を訴える壮大な嘆願書を、クレア王妃の御手へと直接届けてしまったのである。
それは、ラルフの望まぬ形で、しかし必然として。
たった一人の少女の、深い叡智と、歪な偏愛と、底知れぬ欲望によって。
新しい時代の歯車が、重々しく、しかし確実に動き出した瞬間であった。




