428.逃走劇にうってつけの夜
居酒屋領主館。そこは、ロートシュタイン領の頂点に立つラルフ・ドーソン公爵が、エプロン姿でジョッキを磨き、領民たちの切実な陳情から酔客の管を巻く声までを等しく受け止める、王国で最も奇妙で熱気溢れる「謁見の間」である。
「はぁ? あんだって……? 騎士団の駐屯所に、ラーメン食堂を誘致したいだと?」
カウンターの向こう側では、ラルフが魔法を操り、宙に浮かぶ巨大な水球の中で大量のキュウリを躍らせるように洗っていた。透明な球体の中で、緑の果実が規則正しく回転する様は、一種の芸術品にも見える。
「そうなのだ! マスター、是非ともその類まれなる知恵を貸してほしいのだ!」
そう身を乗り出してきたのは、ミラ・カーライル。その美貌と武勲に似合わぬ食欲から、「腹ペコ女騎士」の二つ名をほしいままにする彼女は、真剣そのものの眼差しで突拍子もない提案を突きつけていた。
「いや……あのなぁ、ミラ。騎士団の運営費は王国議会が承認する国家予算だぞ? 初期の設備投資に仕入れ、なにより人件費はどうするつもりなんだ? まさか、騎士達に演習の時間に麺を打たせる気か?」
ラルフは手を休めることなく、指先一つで虚空から氷の塊を生成し、巨大なタライの中へと落とした。カラン、と涼やかな音が店内に響く。
「うーん、そうなのだ。そこが非常に難解で、事務的な手続きが私を苦しめている。だからこそ、こうして相談しているのではないか」
ミラはなぜか自信たっぷりに胸を張り、眩しいほどの笑顔を浮かべる。根拠のない、しかし揺るぎない「ラルフならなんとかしてくれる」という全幅の信頼。それは彼にとって、頼もしさを通り越して眩暈を誘う類のものだった。
「……まあ、妥当な線としては、騎士たちの給金から福利厚生費として天引きするか。あとは、駐屯所の一部を一般開放して収益を確保する。看板メニュー……そうだな、何か『名物』さえ生み出せれば、物珍しさで客は付くだろうし、運営も安定するはずだ」
「おおぉ! なるほど、流石はマスターだ!」
ミラは我が意を得たりとばかりにポンと手を打つ。
「あとは、宰相閣下か、グレン子爵にでも直談判してみろ。あの人たちのことだ、面白いと思えばポケットマネーをポンと出して、お忍びで通い詰めるかもしれんぞ……」
そんな冗談めかした提案を口にしていると、ミラの視線が手元に釘付けになった。
「……ところで。マスター、それは何を作っているのだ?」
「これか? 夏に向けた試作品、『冷やしきゅうりの一本漬け』だ。……一本いくか?」
「ぜひっ!」
ラルフは串に刺した瑞々しいキュウリに、軽く塩を振り、キンキンに冷えたそれを手渡す。ミラはそれを聖剣でも受け取るかのような神妙な面持ちで受け取ると、意気揚々と客席へ戻っていった。テーブルを囲む騎士団の同僚たちに、さも「勝利」を掴んだかのような報告をして盛り上がっているのが聞こえてくる。
すると、カウンターの片隅。静かに冷酒を傾けていた初老の紳士が、周囲の目を盗むようにして身を乗り出してきた。この国の頂点に君臨する国王、その人である。
「……ラルフ、実はな。儂は、とんでもない天才だったのかもしれぬのだ……」
「……何事ですか、ヴラドおじ」
ラルフはあからさまに訝しげな目を向けた。この御仁が何か思いついが最後、大抵の場合、ろくでもない事態が進行している。
「ふむ……。昨夜、離宮で寝入ろうとした時のことだ。小腹が空いてな。しかし、生憎と使用人は皆、夢の中であった……」
「はぁ……」
「そこでだ。儂は自ら厨房に立った。そして、有り合わせの食材で『ラーメン』を作ってみたのだ。そしたらお前……抜群に、震えるほど美味いモノができてしまったのだ!」
「……お、おぅ」
思わず不敬な生返事が漏れるが、この二人の腐れ縁においては日常茶景である。しかし、一国の王が夜食欲しさに自ら鍋を振るうとは。そんな王がどこにいるのか? いや、目の前にいた。
「実はな、そのラーメンを、儂も売ってみたいのだ。是非とも、市井の評価をこの目で、この耳で、確かめたいのだ! どうだろう、ラルフ。儂が屋台を引くことに、何か致命的な問題があると思うか?」
「大問題でしょうに! 何を考えてるんですか、このお転婆国王は?! まったく……」
ラルフの鋭いツッコミに、国王は「やはりか……」と残念そうに肩を落とす。しかし、ラルフは確信していた。この男は、絶対にやる。一度火がついた好奇心は、王権をもってしても消せはしない。近い将来、護衛を撒いて夜の街に消える国王の背中が、容易に想像できてしまった。
「ふむぅ……。本当に絶品なのだ。あのスープのコク、麺の喉越し。ああ、民たちにもこの感動を分けてやりたいのだが……」
溜息をつくその姿には、哀愁と、そして民と同じ視線で汗を流そうとする不思議な親しみやすさが同居していた。それが彼の持つ、天性の求心力なのだろう。とはいえ、公爵として「王の奔放」を推奨するわけにはいかない。
「……これ、試作品です。口直しにどうぞ。"ところ天の助"……あ、いや、ところ天です」
ラルフは涼やかな半透明の麺が泳ぐ小鉢を差し出した。
国王は不思議そうにそれを箸で持ち上げ、ツルツルと音を立てて味わう。
「ほう……! この爽やかな酸味と、抗えぬ喉越しの軽妙さ。酒の合間に、これほど心地よい箸休めがあろうか」
王の顔に柔らかな笑みが戻る。
重厚な米酒によって火照った身体に、冷涼な一陣の風が吹き抜けたようだった。
✢
夜半過ぎ、厨房を信頼置けるメイドたちに任せたラルフは、自らもビール片手に常連たちの輪へと溶け込んでいた。
そこへ、一団の影が近づいてくる。
本を愛する孤児たち……新たな、そして最も厄介な「相談者」たちだ。
「ふぇ〜? また、同人誌即売会をやりたいって……? まあ、場所を貸すくらいはいいが――ただしカイリー! テメェはダメだ!!」
ラルフは、少年の隣で控えめに、しかし不敵に微笑む少女、カイリーをビシッと指差した。
「え〜? なんでですかぁ、ラルフ様ぁ?」
「とぼけるな! お前の罪状はもはや明白だ。禁忌に触れる筆致で綴られた、あの夥しい数の背徳的著作……。それらを、闇ルートで流通させ、この王国の平穏な精神秩序を乱した罪は重いぞ!」
ラルフは、一人の少女に向けるにはあまりに苛烈な、紅蓮の怒りを燃え上がらせる。
「……はて? 何のことやら、私にはさっぱり」
カイリーは明後日の方向を見つめ、どこまでも無垢を装う。
「じゃあ! これは、なんだぁッ?!」
ラルフは懐のマジックバッグから、何冊もの「薄い本」を取り出し、テーブルに叩きつけた。
バアァァンッ!
「うっ……?!」
その衝撃に、近くの冒険者が、表紙のイラストを一目見るなり口元を押さえて立ち上がった。
『純情メリンコリィ』
『ロートシュタインの高貴なる獣たち』
『痛くしないで』
『大魔導士による恋の魔法の方程式』
『快楽の沙汰は公爵次第』
『ニャンと鳴いたらキスして撫でて』
それは、ラルフが厳命をもって執筆すら禁止していたはずの禁忌の領域――「BL」という名の呪物だった。
「というかだな! こんな裏でコソコソやってるくせに、なんでお前、堂々と『カイリー』って本名で執筆してるんだよ! 証拠を残しすぎだろ、間抜けすぎるわっ!」
ラルフが憤怒と共に一冊を掲げる。そこには確かに、美しい装飾文字で著者の名が刻まれていた。
すると、カイリーは、それまでの惚けた態度を一変させ、まるで革命の聖女のような清廉な瞳でラルフを見つめた。
「ラルフ様。私は、信じているのです。本という叡智は、何百年、あるいは何千年という時を超えて旅をし、まだ見ぬ未来の誰かの心に届くのだと。――ならば、そこに刻まれるべきは『私』自身の名でなければなりません。偽りの仮面に隠れ、安全な場所から言葉を投げる卑怯者にはなりたくない。私は、私自身の名において、現在という戦場に立ちたい。ただ、それだけなのです」
「……ううっわ……、カッコいい。なんて崇高な志……。ちょっと感動しちゃったじゃないか……。でも、ダメなもんはダメだぁぁ!」
ラルフは、自分と隣領の主ファウスティンが公序良俗に反する角度で絡み合う「魔導書」を床に叩きつけた。
「いいか。無知な大衆を煽動し、虚構の物語で現実を歪める……お前が犯した『知の犯罪』は、もはや見過ごせる段階を超えた。公序良俗毀損の現行犯として、今ここで連行する! そしてこの本はすべて燃やす!」
すると、真っ直ぐな視線を崩すことなく、カイリーは宣言する。
「たとえこの身が焼かれ、この命尽きようとも……。私は私の信じた言葉を紡ぐ。それが、いつか、この世界を動かすと信じて……」
「覚悟が悲壮すぎるわ! 別に大した罰則はない! こういうのを書くのをやめろって言ってんの! というか、僕とファウストさんを使うな! それだけなんだよっ!」
そう、彼女が執筆する"これら"のモデルが、明らかにラルフとファウスティン公爵をモデルにしたモノが多すぎるのだ。
それさえやめてくれれば、いいだけなのだが……。
その時。
ガシッ!
突如として、背後から猛烈な力がラルフの動きを封じた。
「カイリーさん! 今のうちよ、逃げてええぇぇ!」
「なっ、ミラ!? お前、何をしてる!」
非番で軽鎧を身につけていなかったミラの、驚くべき豊満な胸部の感触。それが背中に押し当てられ、ラルフは顔を赤らめて狼狽する。その隙を、カイリーは見逃さなかった。
「あはっ! ということで、今夜は、これにて!」
弾かれたように駆け出すカイリー。
「逃がすかよ! 《雷撃呪縛》!」
ラルフが自由な右手を振り、拘束魔法を放つ。
しかし、カイリーは客席の間をジグザグと、およそ人間離れした脚力で駆け抜ける。狙いが逸れた魔法は――。
「アバババババババ……ッ!」
「あッ!? 親父ィィィィィィッ!!」
運悪く、隅の席でハイボールを飲んでいた父ヴォルフガングを直撃。
白目を剥いて硬直する父を見て、ラルフは「……まあ、親父なら死にはしないか!」と一秒で思考を切り替えた。
「いよっ! おっと、ごめんなさーい!」
カイリーは軽やかにテーブルの上を跳び、まるでダンスを踊るように出口へと向かう。
「待てコラッ! 逃がすかよ!」
ラルフの怒号が響く。
だが、店内の空気が一変した。
「野郎ども……じゃないわ、"美しき文学"を愛する淑女諸君! かかれー!」
号令をかけたのは、海賊船長のメリッサ・ストーン。
「カイリーを助けるわよ!」
「ラルフ様、悪く思わないでっす!」
「早く! カイリー、今のうちに外へ!」
あろうことか、店内にいた女性陣が一斉に蜂起し、ラルフへと掴みかかったのだ。
圧倒的な数と熱気。
公爵、そして大魔導士たるラルフが、女性たちの「偏愛の団結」によって床に組み伏せられていく。
「お前らぁぁぁ! 自分が何をしているか分かってるのか! カイリーの逃走を幇助する気か、この共犯者どもがぁぁぁ!」
ラルフの絶叫が虚しく響く。
まさか、この領地にこれほどまで「腐った花々」が咲き誇っていたとは……。
すると、出口付近。
「はい。一名様、お帰りです。ありがとうございました」
最も信頼していたはずのメイド、アンナが、無表情に、しかしどこか慈しむような手つきでドアを開け、カイリーを外へと送り出していた。
「あ、アンナーーッ! カイリーを捕まえろ、命令だぞ!」
しかし、アンナは一顧だにしない。そのまま優雅に一礼し、すたすたと厨房へ消えていった。
床に押し付けられたラルフの視界に、ゆっくりと影が差す。
見上げれば、そこには一冊の「禁書」を手に、慈愛に満ちた(あるいは狂気に満ちた)微笑みを浮かべる母、ジャニス・ドーソンの姿があった。
「ラルフ……。これ、なかなか"良い"わよ。表現の深みが、魂に響くわね〜」
「は、は、母上、までも、が……ッ?!」
絶望。
ラルフの頬を、一筋の汗が伝い、床に小さな染みを作った。己が守ろうとした秩序が、身内から崩壊していく音を聞きながら。
この夜を境に。
大魔導士ラルフ・ドーソンの追撃を、その最強の魔法を鮮やかに躱して夜の街へと消えたカイリーは、人々から畏敬と親愛を込めて、こう呼ばれることになる。
――『逃げ上手のカイリー』と。
明日、いよいよ文学フリマ東京42にいきます!
楽しみ過ぎるー




