423.未来への曳航
翌朝、朝日を浴びて鈍く輝くアビエラ・グレイス号は、数隻の曳航船に引かれ、ジョン・ポール商会が総力を挙げて設営した仮設ドックへと収容された。
この「幻のヴィンテージ・ワイン発見」の報は、瞬く間に四カ国間に未曾有の激震を走らせた。またしても、稀代の大魔導士にして策士、ラルフ・ドーソンに"してやられた"形となった周辺諸国の重鎮たちは、地団駄を踏むかと思いきや、「まあ、あいつの仕業なら仕方ない」「むしろ、あいつ以外に誰があんな幽霊船を引っ張り出せるんだ」と、妙に納得の混じった諦めモードに包まれたという。
ロートシュタイン領と聖教国の間では即座に歴史的な取引が成立した。聖教国側には「投資」という名目で各国から莫大な金貨が集まり始め、来るべき大規模オークションの準備と会計処理に、大教会は文字通り上を下への大騒ぎとなった。
あまりの激務に高位司教たちが次々と過労で倒れる中、ラルフの元には「法外な値段でも構わない、至急、強制回復ポーションを!」という悲鳴のような注文が殺到し、ラルフとその友人・錬金薬師のアルフレッドは図らずも別の形でも莫大な富を築き始めていた。
そんな喧騒を余所に、ある日の午後。
メリッサ・ストーン船長は、ドックの巨大な梁の下、静かに横たわるアビエラ・グレイス号を見上げていた。
かつての呪わしい外装や寄生していた貝類はすべて剥ぎ取られ、船の心臓部とも言える逞しい竜骨があらわになっている。
ジョン・ポール商会の精鋭技術者や、酒と仕事に妥協のないドワーフの船大工たちが、図面を囲んであーだこーだと議論を戦わせながら、完全改修作業の槌音を響かせていた。
「よっ、メリッサ。どうした? ご先祖様の船を眺めて、感傷にでも浸ってるのか?」
背後からかけられた、聞き慣れた軽薄な声。振り返れば、そこにはいつものように不敵な笑みを浮かべたラルフが立っていた。
「……感傷? という言葉が相応しいかはわからない。ただ、こみ上げてくるものはありますね」
メリッサは自嘲気味に微笑み、再びその巨大な船体を見上げた。
ラルフの隣には、どこか超然とした雰囲気を纏った少女、スズも控えている。
「ジェームス・ストーン……。本当に、あなたのご先祖様だったの?」
スズの透徹した瞳が、メリッサを見つめる。
「ああ。共和国の歴史学者と、聖教国の物好き……いや、歴史に造詣の深い助祭が協力して、古い航海日誌や教会の戸籍を洗ってくれたよ。どうやら、間違いなさそうだ。あの手紙を書いた男は、紛れもなく私に繋がる血脈の起点だった」
メリッサの言葉を受け、ラルフは腕を組み、空を仰いだ。
「もしかしたら、あのアビエラ・グレイス号は、百年に及ぶ孤独な航海の果てに、自分を理解してくれる血族――つまり、君に見つけて欲しかったのかもな」
ラルフの仮説は少しばかり気障に聞こえたが、メリッサもスズも、それを否定して笑うことはしなかった。
その時、スズがふと、思考の深淵に触れるような表情で呟いた。
「ラルフ……。一つだけ、どうしても解せないことがある。なぜ、この船が単なる残骸に留まらず、ダンジョン化……つまり、変異を遂げたのか」
「ん? それは、あの謎の紫魔石が核になって、乗組員たちの無念や魔素を無理やり凝集させた結果じゃないのか?」
ラルフは至極当然の魔導法則を語るように答えたが、スズは首を横に振った。
「……確かに、それも一つの要因。けれど、ダンジョンとして成立するには、絶対的な条件が一つ足りない」
「条件? 何だよ、それ」
ラルフはスズの底知れない漆黒の瞳を見つめ返す。
「わからない……?」
彼女の視線の鋭さに、ラルフは息を呑んだ。
そうだ、目の前の少女は、
ダンジョンの支配者なのだ。
「――ダンジョン・マスターが、いなかった? そういうことか?」
「そう。意志なき魔石と怨念だけでは、あそこまで秩序立った『領域』は維持できない」
静かにそれを聞いていたメリッサが、不意に振り返った。
「それは……もしかしたら、アビエラ・グレイス号、そのものだったのではないか?」
「えっ?」
「はぁ?」
ラルフとスズが、同時に眉をひそめて奇妙な仮説を疑う。
「我々船乗りはな、長く苦楽を共にした船には魂が宿ると信じている。特にこの船は女神の名を冠し、至高の供物を運んでいた……。もしかしたら、女神アビエラの意志そのものが、あの船を動かしていたのかも。そう考えるのは、いささか、ロマンが過ぎるかな?」
「んんー……。それにしては、中身はとんでもなく凶悪な地獄絵図だったけどなぁ」
ラルフは、アンデッドの群れをなぎ倒したあの凄惨な光景を思い出し、身震いした。
「でも。確かにダンジョン化しなければ、この船はとっくに海の藻屑となっていたはず。嵐に打たれ、マストを折られたまま百年も漂流を続けるなんて、人知を超えた『何か』が護っていたとしか思えないわ」
スズのその言葉には、妙な説得力があった。
「まあ、今となっては真実は、闇の中。……あの謎の魔石の解析も、一筋縄ではいかないしな……」
ラルフが深いため息をつくと、メリッサがふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、あの魔石とこの船体は聖教国に引き渡さないのか? 向こうにとっては『聖なる遺物』だろう?」
「……あー、それな。一応打診はしたんだが、『ワインさえ無事なら、呪われた船も不気味な石もいらない』ってさ。返還途中にまた何か不吉なことが起きたら困るから、そちらで適切に処分してくれ、と丁寧にお断りされたよ」
ラルフは肩をすくめて白状した。
聖教国にとっても、あれは「手に負えない負の遺産」でしかないらしい。
「じゃあ、この船は正式にラルフのものになるの?」
スズの問いに、ラルフは、
「ん。ん〜……まあ、一応、そうなのかな?」
と、何故か歯切れの悪い反応を見せた。
「何よ? その、奥歯に巨大なカジキの骨が挟まったような物言いは……?」
スズの冷ややかな視線に耐えかね、ラルフは観念したように白状した。
「ハァ……。実は、この船を最高の魔導船に改造して、海賊公社の『新・旗艦』にしようかと思ってるんだ」
「え……。えぇ!? こ、この船を、私たちに、くれると言うのか!?」
メリッサが驚愕のあまり、アビエラ・グレイス号とラルフの顔を交互に凝視した。
「ああ。約束だったからな。お前たちにも、ウル・ヨルン号に負けない最高の船を贈るってさ。……それに、ジェームス・ストーンの意志を継ぐのは、他でもないメリッサ、君が一番相応しいと思ったんだ」
「え……! えぇぇッ! 覚えていてくれたのか、ラルフ様っ!!」
メリッサは歓喜のあまり、その場でぴょんぴょんと跳ね回った。
普段の勇ましさはどこへやら、新しい玩具を買ってもらった子供のように、顔を紅潮させている。
「ああ。海賊公社がロートシュタインの交易を担ってくれているんだ、これくらいの投資は安いもんだよ」
「ふぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」
メリッサは天に向かって奇声を発し、両手を突き上げた。海を愛する彼女にとって、これ以上の報酬はないだろう。
「落ち着けって! 落ち着け! 迷惑だろ! ……ハァ、もう昼か。……腹が減った。まあ、飯でも食いに行こうぜ?」
ラルフがたしなめるように提案すると、スズが即座に反応した。
「ラルフ。私、地下街に新しくオープンしたカツ丼屋さんがいい」
「ラルフ様の奢りだな!? 米だ、肉だ、祭りだ!!」
二人の食欲の嵐に、ラルフは今日何度目かわからない溜息をつき、
「わかったよ、あそこ、絶対に並ぶから早く行くぞ」
と歩き出した。
「楽しみー! 船も、カツ丼も!」
はしゃぐメリッサと、淡々と、
「あの船、空飛べるようにしましょう。絶対に、その方が良い!」
と無茶を吹っかけるスズの妄想を聞き流しながら、
ドックを去ろうとした、
その時。
ラルフの視界の端。
仮設マストの頂、黄金色の陽光に溶けそうな場所に、
白い召し物を纏った少女が座り、
こちらに向かって優しく手を振っているような――そんな幻影が見えた気がした。
ラルフは反射的に振り返る。
しかし。
そこには、誰の姿もなかった。
あるのは、職人たちの荒い息遣いと、木槌の音が規則正しく反響するドックの喧騒だけだ。
(……ん? あ、あれ? でも、確かに……)
まさか、
今のは、
この船、
アビエラ・グレイス号の……、
「ラルフ様ー! 何してんの? 置いていきますよー!」
「ラルフ、早く」
「……あ、ああ。すまん!」
ラルフは苦笑し、せっかちな彼女たちの背中を追って駆け出した。
✢
一週間後、ロートシュタインの港にて、ジェームス・ストーン船長の葬儀が国を挙げて執り行われた。
彼が遺した手紙に記された、あまりにも純粋な家族への愛と、職務を全うせんとした崇高な魂は、参列したすべての人々の涙を誘った。
唯一の血縁者であるメリッサが選んだのは、暗く狭い土の下に眠る「埋葬」ではなく、果てなき海への「散骨」であった。
「いいのか? それじゃあ、形として残る墓がないわけだが?」
ラルフが問いかけると、メリッサは朝日よりも眩しいほどの笑顔で答えた。
「……形なんて、必要ありません。……だって! 私が、今、ここに生きていますからっ!」
その凛とした答えに、ラルフは沈黙して頷いた。
ジェームス・ストーンは、最後の瞬間まで船乗りであり、家族を愛する父であった。
その最期は不遇であったかもしれないが、百年という時を超え、彼は確かにその「命」と「希望」を繋いだのだ。
それは何物にも代えがたい、一つの真実だった。
散骨が終わり、静寂が訪れた海上で。
メリッサは、あの白磁のボトルを取り出した。彼女が自らの報酬を削って買い取った、あの幻のヴィンテージ・ワインだ。
「――これが私からの、最高の手向けだ! アンタが命懸けで守り抜いたワイン、まずはアンタが味わってくれよな!」
宣言と共に、彼女は迷うことなく封を切り、深紅の液体を海へと注いだ。
その瞬間――。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁッ!! おい、やめろ、バカっ! お前、それ一本いくらすると思ってんだ! もったいないだろぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
ラルフの絶叫が、静かな追悼の空気を完膚なきまでに叩き潰した。
「ふふーん! 私が買ったボトルです! どのように使おうと、私の勝手ですよ! ラルフ様って、お金持ちのクセに、なんか、ケチくさいですよねー」
「ハァぁぁぁぁ?! 不敬だ! 不敬っ! そんな事を言うヤツには、船なんかやんないからなぁー!」
「ちょっとぉ! 約束を反故にする気ですか! 貴族様が、そういう民の信頼を損なうようなことをしてもいいと?!」
「うっせぇぇぇわ! バーカ、バーカ! ご先祖様がワイン好きか聞いたのか? ビールがいいって言うかもしれねーぞ!」
「はぁ〜? 知らないですよ! 聞けるわけないでしょ?! ふふふっ、ラルフ様こそバカなんですか?」
「あぁぁぁ! バカって言った! バカって言う奴が、バカなんだぁぁぁぉ!!」
厳かな空気に耐えかねていた参列者たちは、必死に喚き散らす領主と、豪快に笑い飛ばす女船長の姿を見て、とうとう我慢できずに、誰もが、盛大に大笑いしてしまった。
海は、今日も変わらず、どこまでも青く輝いていた。




