424.幻のワイン、百年の孤独
「――百年の孤独を耐え、なお王国の友であり続けた勇敢なる船乗りへ。愛しき者の元へ帰りたかったであろう、その切なる祈りに。今はただ、静かなる眠りがあらんことを。……献杯」
国王ウラデュウスの、地鳴りのように重厚で厳かな声が居酒屋領主館の店内に隅々にまで染み渡る。
その場にいたすべての者が、掲げたグラスを微動だにさせず、祈りを捧げるように言葉を重ねた。
「……献杯」
「献杯……」
静寂が店内を支配し、亡き英雄への追悼が完成されようとした、その時である。
国王はふと端正な眉を上げると、悪戯っぽく口角を吊り上げた。
「……ふむ。やはり、この店に湿っぽい空気は似合わんな! しんみりするのはここまでだ。仕切り直すとしよう……。幻のヴィンテージ・ワイン発見を祝して、盛大に――カンパーイッ!!」
「「「かんぱーーーーーーーいッ!!!」」」
刹那、割れんばかりの大歓声が爆発し、建物の木枠が震えるほどの熱狂が店を満たした。
(……結局、こうなるわけか)
カウンターの内側で、ラルフは苦笑を禁じ得なかった。これこそが、この店らしい「死者と生者の折り合いの付け方」なのだろう。
「うっへっへっへ……。ではでは、早速、テイスティングと洒落込みましょうかねぇ? マルシャさんや〜」
「フッフッフ……。お姉ちゃんも悪よのぅ。百年という時の重み、心して味わおうじゃない!」
カウンター席に並んで腰掛けた聖女姉妹は、まだ一滴も飲んでいないというのに、溢れんばかりの期待感で既に泥酔しているかのように上気していた。
「では、百年の歴史を!」
「いただきまーす!」
二人は同時に、透明なワイングラス注がれた深紅の液体をクイッと一口。
客席のあちこちからも、同様に「幻のヴィンテージ・ワイン」を口にした者たちの声が上がる。
「おおぉ……。これが、伝説の味……」
「ああ、今、私の胸の中で、歴史が、百年前の人々の営みが、見える。見えるぞぉ……」
「まさに……『神の血』。我が五臓六腑に染みわたる……」
感涙に咽ぶ者、天を仰ぐ者。
場内が神秘的な感動に包まれる中、肝心の聖女二人はといえば――なぜか、狐につままれたような顔で固まっていた。
ラルフは首を傾げ、カウンター越しに声をかける。
「どうした? 幻の美味に魂まで持っていかれたか?」
冗談めかして茶化してみるが、トーヴァは微かに眉を寄せた。
「……う、うーん。なんか、その。……思ってたのと、違うっていうか」
「そうね……。ちょっとトロッとしていて、シロップ? それに、なんだか『深い森』みたいな香りが強すぎて……」
マルシャも困惑気味にグラスを見つめている。
「はぁ? なんだ、お前ら。この崇高な価値が分からんのか? これだから、流行り物しか追わないミーハーは困るんだよな……」
ラルフは深いため息をつき、自らのグラスを手に取った。高貴なる公爵として、酒の真髄を説いてやろうというわけだ。
彼は、啄むように一口、その液体を舌に乗せた。
「…………うっ」
……確かに、思っていたのと、
なんか、違う……。
期待していた熟成された果実の清涼感など微塵もない。代わりに口内に広がったのは、湿った腐葉土と朽ち果てた大木が横たわる原生林に、無理やり放り込まれたような複雑すぎる風味。
刹那、鼻を抜けるのは、古びた羊皮紙が並ぶカビ臭い図書館の香りだ。
そして舌の上には、いつまでも消えない、少々エグみすら感じる執拗な甘ったるさが居座り続けている。
ゴクリ、と喉を鳴らした瞬間、ラルフは悟った。
「ラルフ様ー……。私、いつものレモンサワーください」
「あ、私はコークハイで……」
聖女二人の、あまりに潔い「お口直し」の要求。
しかし、ラルフは公爵という貴き身分の意地にかけて、この「歴史の重み(という名の癖)」を否定しきれなかった。
「……ふ、ふふふ。やはり、この高尚な味わいは、お前たちのような小娘には早すぎたようだな……」
背筋を伸ばし、余裕の笑みを浮かべてみせるが。
「んー。こういうのって、究極のところ好みですからねぇ」
「そうそう。まあ、こういう超高級ワインが『どんなもんか』を知れただけでも、教養の足しにはなりましたって」
聖女たちはさっさと見切りをつけ、現世の娯楽へと意識を切り替えている。
ラルフは彼女たちが目を逸らした隙に、コソコソと厨房の隅へ視線を送った。
「……え、エリカ。すまないが、僕に、ビールを一杯。キンキンに冷えたやつを頼む」
ドリンク係を務める金髪ツインテールの少女に小声で囁く。
ところが。
エリカは鋭く横目をラルフに向けると……。
「はいよーッ! ラルフ公爵様から生ビール一丁! オーダーいただきましたぁ! 喜んでぇーッ!!」
エリカはわざとらしく甲高い声を張り上げ、店内にその注文を響かせた。
「し、しぃぃぃぃ! ちょ、ちょっと! エリカぁぁぁ!? お前わざとだろっ?!!」
案の定、獲物を見つけた猛獣の如き速度で聖女たちが振り返る。
「ほらー! ラルフ様だって、本当は美味しいと思ってないんでしょー!」
「あー! やっぱり無理して格好つけてたんだぁぁぁ!」
指を差して笑いながら憤慨する聖女二人。
「うるさい、うるさい、うるさいッ! 公爵だってビールを飲みたくなる時はあるんだよッ!」
半ばヤケクソで叫ぶラルフ。
だが、不思議なことに、店内を見渡せば反応は千差万別だった。
「うぅぅぅ……。これだ、この土の香りこそが大地との対話……。儂はもう、いつ死んでも構わん……」
「分かっておらんなぁ。味ではないのだ。これは、百年前の風を噛み締める、哲学的な行為なのだよ」
「気に入った! 俺は明日のオークションでも、さらに数本競り落としてみせるぜ!」
その独特な風味に、大満足どころか人生の真理を見出したかのように感動している手合も確実に存在しているのだ。
(……まあ、嗜好品なんてのは、所詮は好き好きってことか)
ラルフは悟りを開いた境地で諦めた。しかし、目の前には封を開けてしまった白磁のボトルが寂しそうに残っている。
アビエラ・グレイス号から運び出されたこのワインは、なんと全部で――千八百本余り。
狂気的な希少性にはならなかったが、貴重であることに変わりはない。なので、
「おい、誰か飲みたい奴はいるか!? なんなら、グラス単位で売ってやるぞ!」
ラルフが提案すると、真っ先に手が挙がった。
「お、おおお! ラルフ様、俺も一口拝ませてくれ!」
セスの父親、ドッヂが意気揚々と名乗りを上げる。それを見た聖女トーヴァも、悪戯っぽい閃きを瞳に宿した。
「あ、それいいわね! ……ねえ、あんたたち! これ、ちょっと飲んでみる?」
彼女は近くのテーブル席にいた駆け出しの若手冒険者たちに、ボトルを掲げて見せる。
「えっ!? い、いいんですか、聖女様!?」
幻のワインなど、一生かかっても競り落とせないと諦めていた庶民たちが、一斉に色めき立った。
ボトル一本は家が買える値段でも、グラス一杯分なら、少し奮発すれば手の届く「夢」になる。
そうして、客席の各所で即席の「小売り」と「物々交換」が開始された。
ラルフは、その無秩序な自由取引をあえて黙認した。
ここは、多様な身分が交錯する居酒屋だ。特権階級も庶民も、同じ幻を分け合い、同じように顔を顰めたり、あるいは感銘を受けたりするのも、一興というものだろう。
「はいよ、お待ち!」
エリカがドン、とラルフの前に大ジョッキを置いた。
「おう。すまん。が! ……オメー、どういうつもりだ? ゴルァ……」
ラルフは低く唸り、金髪ツインテールを見下しメンチ切ってやるが、エリカはスススイー、と軽やかに逃げていった。
しかたなく、黄金色の液体を豪快に喉へと流し込んだ。
慣れ親しんだ、安価で暴力的な爽快感。
それが百年の重厚な渋みを一瞬で洗い流し、火照った喉を潤していく。
つくづく、自分の舌は庶民派なのだと痛感するが、そもそもここは「下賤な居酒屋」なのだ。何も恥じることはない。
開き直って客席を眺めれば、そこには百年前の遺産を巡る狂騒が広がっていた。
「えっ、これ……私、好きかも! 濃厚な蜂蜜みたいで、ワインの概念が変わっちゃいそう!」
頬を上気させる若い魔導士の女性。
「……ん? んんん……。なんか、実家の婆ちゃんの部屋の押し入れを思い出す匂いなんだが、これ?」
首を傾げる出稼ぎの大工の若者。
「……これ、もしかして濃厚なブルーチーズと合わせたら、化けるんじゃないかしら?」
早くもペアリングの最適解を模索し始めるリネア・デューゼンバーグ。
案の定、評価は真っ二つの賛否両論。
しかし――。
「でもさぁ……これ、百年前の人が飲もうとしてた味なんだよなー」
「保存を優先して、敢えて甘みを強くしたのかもね」
「去年の若いワインと、この熟成された重みをブレンドしたら、最高の一滴になるんじゃないか?」
そんな、議論が交わされはじめた。
ラルフは、いつものように、この喧騒を眺める。
今回の、この幽霊船騒動には、百年という時間を越えた血族の再会という、『種明かし』があった。
ならば、このワインにも、種がある。
――そう。尽きることのない、
話の種が――。
そんな落語のようなオチを思いついたラルフだが、それを口に出す野暮はせず、ただもう一口、ビールを喉に流し込んだ。
その時。
国王ヴラドおじさんが、周囲を気にするようにそそくさとラルフの前にやってきた。
「……ラルフ。すまんが、いつもの米酒を冷で一合くれ。……あと、このボトル。儂の分も、隣の連中にグラス売りして構わんぞ……」
小声で、顔を赤らめながらの、実にあっさりとした敗北宣言。
ラルフはトン、とジョッキを置き。
極めて、無表情。
どうやらこの国の最高権力者も、根っからの庶民的な味覚の持ち主だったらしい。
賑やかなテイスティングの夜は、まだ始まったばかりだった。




