422.百年の願いと、幽霊船
「よーし! 入っていいぞ〜」
ラルフの、どこか緊張の糸が切れたような素っ頓狂な声が船内に響き渡った。それを合図に、甲板で固唾を呑んで待機していた海賊公社やシャーク・ハンターズの面々が、どよめきと共に暗い船内へとなだれ込んでくる。
一方で、ラルフは静まり返った船室のテーブルの上、かつて「核」として禍々しい光を放っていた謎の宝石を見つめていた。先程までの狂気的な魔力は霧散し、今はただ、紫色の深みを湛えたごくありふれた装飾品として、埃を被った木箱の中に横たわっている。
「……ラルフ、それ、何だと思う?」
背後からスズが問いかけた。扉の敷居を跨がず、じっと宝石を見つめる彼女の瞳には、ダンジョン・マスターとしての冷徹な観察眼が宿っている。
「……さっぱりわからん。高純度の魔石、あるいは何らかの記憶媒体か。今の僕の目でも、その『正体』までは見通せないな」
ラルフは左目に真紅の魔力光を灯し、鑑定を試みたが、その深層までは見通せなかった。
「……けれど、それがこの船を変異させた『核』だったのは確か。今、この船はダンジョンとしての機能を完全に停止した。ただの、古い木造船に戻った」
スズの言葉には確信があった。主を失った迷宮が崩壊するように、船内を満たしていた不気味な気配は失われた。
「まあ、機会があれば解析してみよう。元は聖教国の持ち物だ、あっちに古い資料が残っているかもしれないしな」
ラルフはあえて、その宝石を手に取るのを控えた。この船舶の所有権は、彼が提案したスキームに従い、"国際的な取引き"が終わるまで、一旦は「棚上げ」されるべきものだ。ここで個人的な好奇心で動けば、せっかく築いた法的な優位性が揺らぎかねない。
その時、船底の暗がりから、やけに反響する歓喜の声が届いた。
「おーい! あったぞ! ラルフ様ぁ! 来てください! とんでもないですよー!」
メリッサ・ストーン船長の声だ。どうやら、この地獄を潜り抜けた先の「真の目的」に辿り着いたらしい。
ラルフとスズは顔を見合わせ、通路へと戻った。魔導ランタンの明かりが幾筋も、船の深淵へと向かって流れていく。
二人もその列に加わり、軋む階段を幾層も下りていった。
辿り着いた最下層の船倉。
そこには、想像を絶する光景が広がっていた。
広大な空間を埋め尽くすのは、整然と積み上げられた無数の木箱。
一つ一つは運搬を考慮した現実的なサイズだが、それが壁際から天井近くまで、見渡す限りに詰め込まれている。
その数は、一目では見当もつかない。千、あるいはそれ以上。
「え、えぇ……。まさか、これ全部、ワインなのか……?」
ラルフは思わず絶句した。
「そりゃあ、新王の即位祝賀だろ? 納得じゃねーか。めでたい場に酒はいくらあっても足りねぇ。国を挙げての祝いなら、これくらいの気合は入れるだろうさ」
ヒューズが豪快に笑いながら、木箱の山を叩く。
ラルフは呆れ半分、感心半分で苦笑いを漏らすしかなかった。
「早くー! 早くー、開けてみましょう!」
「賛成! 早く拝みたいわね!」
いつの間にかお揃いのバールを手にしている聖女姉妹。そのあまりの用意の良さと、これから行われる「略奪」に近い破壊への期待に満ちた表情に、ラルフは目を見開いた。
「うりゃ!」
「ふんがぁぁぁぁッ!!」
バキバキッ! バゴゴォッ! ――という景気のいい破壊音が響き、木蓋が強引に跳ね上げられる。
箱の中には、クッション代わりと思われる藁がぎっしりと詰められていた。
「ワインー♪ ワイン〜♪」
躊躇なくその中へ両手を突っ込んだのは、聖女トーヴァだ。
「どれどれー……あった! 見て、これよ!」
彼女が掲げたものを、全員のランタンが一斉に照らし出す。
「あら、ガラス瓶じゃないのね」
と、マルシャ。
「……陶器か。しかし、なんと見事な造形だ」
ファウスティン公爵が感嘆の声を漏らした。
それは、白磁のように滑らかな光沢を放つ陶器のボトルだった。表面には繊細な凹凸で、流麗な、しかし力のこもった筆致の文字が刻まれている。
「トーヴァ、それ読めるか?」
ラルフが聞くと。
「ん、んんん? クセが強すぎて……これ、聖教国の古い文体じゃないかしら」
「ちょっとお姉ちゃん、貸して! 私が読んであげるわ」
マルシャが引ったくるようにそれを受け取る。陶器の冷たい感触を指先で確かめながら、彼女は刻まれた一文を静かに読み上げた。
「えーっと……『流るる血をこの一滴に代えて。汝の治世に、永久の静寂を。』」
詩的で、どこか祈りにも似た一文。
それを聞いたラルフは、自嘲気味に口角を上げた。
「なるほど……。これを見たヴラドおじさんの顔が、今から楽しみだよ」
かつての聖教国の人々が、平和への切なる願いを込めて贈った「血の代わり」としての美酒。戦場で血を流す代わりに、この深紅のワインを酌み交わそうという、あまりにも崇高な理想。
だが皮肉なことに、先の大戦という悲劇は、現国王――ヴラドおじさんの治世で起きてしまった。
親愛なる国王に対する少しの悪戯心と、歴史が孕むやりきれない悲哀が、ラルフの胸中で奇妙に混ざり合う。
「ふむ……。口は分厚い蝋で厳重に封じられているようだな」
ファウスティンがボトルを確認し、頷く。
「……なら、中身は無事なはずだ。光の届かない船倉、そして皮肉にもあの冷たい魔力の霧が、最高級の天然セラーとして機能していたはずだ……。まるで、この船そのものが、このワインを守り抜こうとしていたみたいにね」
ラルフの言葉に、しばしの静寂が流れた。
しかし、これほどの物量。
一体どう運び出すべきかと思案した、その時。
階段を駆け下りてくる足音が、再び船倉の静寂を破った。
「ラルフ様! 来てください! 操舵室で、見てもらいたいものがあります!!」
息を切らした冒険者の報告を受け、ラルフは無言で頷くと踵を返した。
何人かの面々も、言いようのない予感に導かれるように彼の後を追う。
再び、軋む階段を上り、最上階の操舵室へ。
そして、扉を開けると、そこには崩れた舵輪の下、埃に埋もれるようにして横たわる、白骨化した遺体があった。
「……船長、か」
「はい。おそらく、最後の時まで、この舵を離さなかったのでしょう……」
ラルフは室内へ足を踏み入れた。割れた窓ガラスが靴の裏でチャリチャリと乾いた音を立てる。
彼は遺体の傍らに静かにしゃがみ込んだ。
積もった埃の中に、不自然に直線的な隆起があるのを見逃さなかった。
ある種の確信を持って指を差し入れ、そこから引き抜いたのは、古びた、幾度も折り畳まれた紙片だった。
ラルフは少しだけ、それを開くのを躊躇った。
それは紛れもなく、一個人の「手紙」だったからだ。しかし、この迷える御霊の身元を明かし、その魂をあるべき場所へ帰すための、唯一の手掛かりでもある。
彼は、壊れ物を扱うように、慈しむような手付きでその文面を広げた。
指先が微かに震える。
そして、彼はその行間から溢れ出す、百年前の「光」を追いかけてしまった。
『愛する僕の奥さん! そして、まだこの広い世界を知らない小さな息子ホルストへ。
元気にしているかい?
君の柔らかな温もりと、この腕の中で驚くほど小さかったホルストの重みが、今もこの手に残っているよ。
二人を置いて海に出るなんて、僕は本当に欲張りで、わがままな父親だね。許してくれ。
でもね、どうしても君たちに見せてあげたい未来があるんだ。
そうそう。僕がいま乗っているこの船を君にも見せたいよ。「アビエラ・グレイス号」というんだ。
陽の光を浴びて白く輝く姿は、まるで海を渡るお城のようだよ。
聖教国から王国へ、最高に特別な品を運ぶ大役を任されたんだ。
この航海が終われば、驚くような報酬がもらえるんだ!
だからさ、帰ったら湖のほとりに小さな家を買おう。
庭には君の好きな花をたくさん植えて、朝は鳥の声で起きるんだ。
そして、小さな舟も一艘買おう。
ホルストが大きくなったら、僕が釣りを教えてあげる。
三人で舟に揺られて、笑い合って、そんな風に歳をとっていきたい。きっと、楽しいからさ……。
それとね、海の青を見ていると、時々、君の瞳を思い出して寂しくなるけれど。そりゃあ、もう……本当の本当に、寂しくなるんだ……。まあ、だけど、大丈夫!
この特別な船――アビエラ・グレイス号が、僕たちを輝く未来へと運んでくれるさ。だって、女神さまの名を冠した船だからね! たからさ……。
あともう少しだけ、待っていておくれ。
次に会うときは、もう二度と、絶対に、離れないと約束しよう。
愛する君たちの、旦那より――』
ラルフはしゃがみ込んだまま、片手で目頭を強く押さえた。
涙が、
涙が……。
どうしても……。
しかし、鼻をすすって、耐える。
読んでしまったことを、
激しく、
激しく、
後悔した。
この人物が抱いていた、あまりに純真無垢で輝かしい希望。
それが、ある日突然、無慈悲に奪われてしまったこと。
百年前の見知らぬ男の、ありふれた、しかし代えがたい幸福への渇望が、この冷たい海に散ったのだ。
彼は手紙を裏返した。
そこには、署名があった。
それを見た瞬間、ラルフの心臓が大きく跳ねた。
これは、ただの偶然だろうか?
それとも……。
「……ラルフ様。大丈夫、……ですか?」
背後からメリッサが心配そうに声をかける。
「ラルフ、何が書いてあったの?」
振り返れば、いつの間にかスズやファウスティン、ミラ、そして聖女たちまでもが、ラルフの背中をじっと見つめていた。
ラルフは重い腰を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
その手には、まだ温もりを宿しているかのような手紙が握られていた。
「……なあ、メリッサ。この名前に、見覚えはないか?」
ラルフが手渡したのは、海賊公社の船長、メリッサ・ストーン。
「え? ……わ、私? な、何のこと……?」
戸惑いながらも、彼女は手紙を受け取った。
そして、そこに綴られた文字を追う。
宛名。
そして、最後に記された名前。
メリッサの瞳が大きく見開かれ、呼吸が止まる。
理解が追いつかない。だが、血筋という名の本能が、彼女の指先を激しく震わせた。
「まさか……そんな。……嘘でしょ」
「どうしたのよ? 何が書いてあるの?」
トーヴァが無邪気に問いかけるが、答えない。
「……ジェームス・ストーンから、妻マチルダ……そして、息子ホルストへ……」
「ストーン……だと? 待て、それは、まさか……いや、偶然、なのか?」
と、ファウスティン。
「わかりません……。でも、母から昔、聞いたことがあります。……私の曽祖父の名前は、"ホルスト・ストーン"……聖教国から来たと……」
彼女の声は、少し、震えていた。
操舵室の窓の外、水平線が白み始め、眩いばかりの朝日が海面を黄金色に染め上げていく。
百年の時を超えて届いた手紙は、今、ようやくその目的地へと辿り着こうとしていた。




