419.迷える幽霊船
「はいよ、お待ち。カジキの握りだ!」
「モグモグ……ラルフ様。これ、ただのカジキじゃありませんからね! 特A級の魔魚『トライデント・マーリン』ですから! モグモグ……」
「ラルフ様ー! 煮付けはまだぁ? ツマミが足りない!」
「うるせーな、もうちょい待て! 仕上げにこの青ネギを潜影蛇手させたら完成だ」
何故か、最新鋭魔導船『ウル・ヨルン号』の調理場に立ち、荒くれ者たちに腕を振るっているのは、この領土の主たるラルフ公爵その人であった。
またしても、一人で出し抜こうとしたことに対する、領民たちからの「ささやかな罰則」に、彼は観念したように包丁を握っている。
だが、その手つきは玄人さながらの鮮やかさで、素材の旨味を極限まで引き出していた。
「ムシャムシャ……それにしても、見つからないわねー、幽霊船」
海賊公社のメリッサ・ストーンも、今宵は毒気を抜かれたようにラルフの料理のご相伴に与っていた。
「マスター! このマーリンの握り、表面を軽く炙って貰えませんか! この脂は化ける! 私は確信する!」
戦場では無双を誇る女騎士ミラまでもが、この幽霊船騒動に首を突っ込み、頬を赤く染めてジョッキを呷っている。
しかし、これだけの精鋭が揃いながら、今日一日の捜索成果は皆無に等しかった。
日はとっくに沈み、港に係留されたウル・ヨルン号の食堂では、捜索の疲れを癒やす――という名目の、賑やかな宴が催されていた。
「ほらよ、煮付けの完成だ! 食え!」
ラルフが大皿をドスンとテーブルに置くと、食欲をそそる甘辛い香りが一気に広がった。
「うわぁ、いい匂い……! ラルフ様の料理は、やっぱり魂に響きますね!」
フィセが鼻をひくつかせ、目を輝かせる。
このトライデント・マーリンは、捜索の合間に『シャーク・ハンターズ』が連携して仕留めた、鋭い角を持つ巨大なカジキの魔獣だ。
「お姉ちゃん、この煮付け……重厚な赤ワインに合わせるべきかしら、それともキレのある米酒かしら?」
「どっちでもいいわよ! 美味いものに細かい理屈は野暮ってものよ。女神リュシアーナ様も、そう言うに違いないわ! キャッハッハッハ!」
聖女姉妹は、もはや聖職者の欠片もない様子で飲んだくれている。
「……お前ら、本気であの船を狙ってたのか?」
ラルフが呆れ果てたように問いかける。
「当然よ! もともと『アビエラ・グレイス号』は、私たち聖教国の資産なんですもの」
「そうそう! 呪われているっていうなら、私たちの浄化魔法が火を噴くわ。不浄な魂も、ついでにヴィンテージ・ワインの不純物も綺麗さっぱりね!」
胸を張る彼女たちだが、その本音が「幻のワインを飲みたい」という至極真っ当な、そして極めて世俗的な欲望であることは、今更指摘するまでもない。
「しかし。これだけ広範囲を捜索して尻尾も掴めないとなると……。潮の流れに乗って、もうどこか遠い海域へ流されちまったのかもな」
ラルフは冷えたビールを喉に流し込み、焦燥と諦念が混じった溜息を吐き出した。
「何か、特定の『条件』が揃わないと具現化しない……とか?」
聖女トーヴァが、不意に真面目な顔で仮説を口にした。
「条件、か……。おいメリッサ。お前があの日見た時、周囲はどういう状況だった?」
「ふむ……。天候は快晴、穏やかな昼間だったわ。だが、突如として身を切るような冷たい霧に包まれ、風が死んだ。真昼だというのに、その周囲だけが夜のような闇に塗り潰されたのよ」
「まさか……隠蔽魔法の類か? いや、百年間も自律稼働し続ける魔法なんて聞いたことがない。それに、一体誰が、何のために?」
魔導研究者としてのラルフの脳細胞が、高速で回転を始める。
すると、聖女マルシャが傍らに置いていた分厚い聖典を開き、興味深げに呟いた。
「『アビエラ・グレイス』。その名は聖書に記された、純潔を司る女神アビエラに由来するわ。そんな神聖な名を冠した船が、単なる呪い程度で幽霊船になるのかしらねぇ」
「……女神の名を借りようと、それは人が造り出した無機物に過ぎない。海に散った怨念と絶望、そして澱んだ魔素。それらが複雑に絡み合えば、神聖な器こそが最悪の『呪物』に成り果てるものだ」
食堂の隅で静かにビールを嗜んでいたファウスティン公爵が、重々しい声で付け加えた。隣領の主である彼までもが、この異常事態に居ても立ってもいられず駆けつけていたのだ。
「で、ラルフ様。今夜は領主館に戻られるんですか?」
フィセの問いに、ラルフは少し考えてから答えた。
「いや……んん。一度は心が折れたが、このために休暇をねじ込んだんだ。僕は明日も捜索に参加することにした。この船に一泊させてもらえるか?」
「なら、ロートシュタイン組としてしっかり連携しましょうぜ! また俺たちを出し抜こうなんて、二度と許しませんからね!」
シャーク・ハンターズの男たちが、半分本気で、半分は酔った勢いで気炎を上げる。
ラルフは苦笑し、「わかったわかった」と手を振った。
「すまんがフィセ、僕が泊まれる部屋は余っているか?」
「……一番奥の船倉でよろしいですか?」
「……も、物置き?」
一国の公爵であり、この地の絶対的な領主である自分を物置に押し込もうという、領民たちの相変わらずの不敬(あるいは親愛)っぷりに、ラルフは軽い頭痛を覚えた。
「まあ、そこでいいや。……頼むよ」
「ラルフさまー! 握り追加ぁ!」
「はぁ……。もう、誰か手伝ってくれよー!」
「モグモグ……ラルフさまのお寿司が一番美味しいんですもん!」
まるで、居酒屋領主館の喧騒を持ってきたかのような賑わいが続き。
そして――。
夜半過ぎ。
ラルフは船倉の中で、パチリと意識を覚醒させた。
彼が身を横たえているのは、船倉に不似合いなほどに豪奢な天蓋付きベッド。マジックバッグから自室の愛用品を丸ごと持ち出すという、彼の用意周到さと生活水準への妥協のなさに、フィセたちは呆れ果てていたのだが、本人は至って快適だった。
だが、その違和感は眠りの中にまで浸食してきた。
春先の海が冷えるのは承知の上だ。
しかし、この冷気は異常だ。
皮膚に針を突き立てるような、底冷えのする静寂。
コン、コン、コン!
激しくドアを叩く音。
「ラルフ様! ラルフ様、起きてください! 霧です! メリッサ船長が言っていた、あの霧が降りてきました!」
フィセの切迫した声。
ラルフは瞬時にベッドから跳ね起き、毛布を跳ね除けてドアを開けた。
「……嘘だろ。こんな、海岸のすぐ近くにか?」
「はい! メリッサ船長が叫んでいます。『あの日と、全く同じだ』って!」
「よし、行くぞ!」
二人は入り組んだ通路を駆け抜け、狭い階段を一気に駆け上がった。
甲板に出ると、そこには既に武装を整えた一同が集結し、濃密な白銀の壁の向こうに目を凝らしていた。
「ラルフ様ー! これです、あの日私が見た光景そのものです!」
隣に係留された海賊公社の船の甲板から、メリッサが悲鳴に近い声を上げる。
ラルフは見上げた。海賊船のメインマスト、その見張り台の上で、冷たい霞を浴びながら双眼鏡を覗く影があった。
「あ、ヒューズも来てたのか! おーい、何か見えるか!」
ラルフの呼びかけに、ヒューズの声が頭上から降ってくる。
「……ダメだ、霧が濃すぎる! だが、気配が……普通じゃねぇ。空気が、震えてやがる……!」
凄腕の冒険者としての勘が警鐘を鳴らす。
そこへ、浜の方から二人の冒険者が駆け寄ってきた。
「ラルフ様、ご報告が! 先刻まで焚き火を囲んで酒を呑んでいた地元の漁師たちが、この霧が出た瞬間に顔を真っ青にして逃げ出しました!」
「どういうことだ?」
「……『この霧が出たら、呪いがやってくる。外に出れば魂を啜られる』。そう、村の古い伝承にあるそうで……」
「民間伝承……。まさか、百年間ずっと、この海辺の民は『それ』を知っていたのか?」
その時。
暗闇と霧を切り裂く、ヒューズの絶叫が降り注いだ。
「――ラルフ様! 来るぞ! とてつもなく……デカい!!」
全員の視線が、ヒューズの指し示す方向へと吸い寄せられた。
霧の奥底から、音もなく、巨大な岩山のような影が這い出してきた。
「うっ……?!」
フィセが思わず口元を押さえ、一歩後ずさった。
漆黒の船体にびっしりと張り付いた、病的なまでに増殖したフナムシとフジツボの群れ。その視覚的な嫌悪感と、死臭にも似た潮の香りに、居合わせた誰もが身の毛をよだらせた。
ラルフは意を決し、左目に宿る『名もなき神霊の涙』に魔力を流し込んだ。
深紅の魔力光が夜の闇を射抜き、彼の視界が「真実」を捉える。
「……こ、これは……まさかっ!」
思わず叫びが漏れる。
すると、背後から音もなく歩み寄ってきたスズが、 淡々とした、しかし確信に満ちた声をかけた。
「ラルフ。わかったわよね……。あなたのその目なら、これが何に成り果てたのか」
「……なるほどな。なんでお前がこの件に首を突っ込んできたのか、ようやく合点がいったぜ。スズ、お前……この可能性を想定していたんだな?」
ラルフはたじろぎながらも、その口元をニヤリと歪めた。
ダンジョン・マスターであるこの少女が、ヴィンテージ・ワインに興味を持つはずがなかったのだ。
スズは力強く頷き、漆黒の亡霊――アビエラ・グレイス号を見上げた。
「そう……この船……『ダンジョン化』してる」
濃密な霧は、さらに温度を下げ、現世と冥府の境界を凍りつかせていった。




