418.見つからない幽霊船
その日、ラルフの執務室では物理法則を無視したような光景が繰り広げられていた。
山積みにされていたはずの行政関連の書類が、まるでシュレッダーに吸い込まれるような勢いで処理されていく。
午前中のうちにすべての業務を「爆速」で片付けた彼は、今、地上から数百メートルの「特等席」にいた。
「いくぜ、レッドフォード! 僕らが最初に幽霊船を見つけるぞっ!」
空と海が溶け合う境界線。
愛獣であるワイバーンのレッドフォードに跨り、ラルフは高度から海域を一望する空中捜索を開始していた。
この世界において、空を制する者は情報を制する。幽霊船という不確かな影を追う者たちが鈍重な船舶に頼らざるを得ない中、ラルフ一人が圧倒的な「制空権」を握っていた。
もし共和国の竜騎兵部隊が組織的に動員されれば厄介だったが、あいにく彼らは「公務員」という名の縦割り組織の住人だ。出動申請や予算承認に追われている彼らを尻目に、公爵でありながら究極の自由人であるラルフは、誰よりも早く「宝の地図」を埋める権利を有していた。
天気はこれ以上ないほどの快晴。絶好の宝探し日和である。
――だが。
見渡せど見渡せど、視界に飛び込んでくるのはゲシュタルト崩壊を起こしそうなほどに単調な「オーシャン・ブルー」の平原だけだった。
「……レッドフォード。もう少し北、海流の先を狙うぞ」
「グギャァァァ!」
頼もしい咆哮を返し、翼が風を切り裂く。
しかし、その威勢の良さが持続したのは、捜索開始から二時間が経過するまでだった。
――結論から言おう。ラルフは、
飽きた。
ラルフは極めて飽きっぽい男である。
レッドフォードを穏やかな遠洋の海面にプカプカと浮かべ、その広大な背中の上で胡坐をかき、彼はあらかじめ用意していた釣り竿を手に取った。この事態を予見していた己の危機管理能力(という名の逃避癖)を褒めてやりたい気分だった。
「サバこい、サバ〜! 脂の乗ったやつを味噌煮にして、久々に食いたいんだよ、僕は!」
もはや当初の目的は水平線の彼方へ消え去っている。
さらに、一時間が経過……。
「あー……釣れない。何これ。海ってこんなに広かったの? え? ヒマっ! 暇すぎて死ぬんだけど〜」
天を仰ぎ、絶海の中心で孤独に叫ぶが、返ってくるのは虚無的な波音だけ。
さらに、二時間が経過……。
ラルフの虚無感に中てられたのか、レッドフォードまで「グゥ、グゥ……」と重低音の寝息を立て始めた。水中にある鋭い牙の隙間から、無数の泡がプクプク立ち上る。
「あ〜、あぁ〜。幽霊船はどこ〜だ〜♪ サバが釣れないよ〜、お腹が空いたよ〜♪」
もはやメロディも歌詞も崩壊したデタラメな歌を口ずさむ始末。
周囲数百キロに人間などいない絶海。
羞恥心という枷から解き放たれたラルフの精神は、退屈という名の酸によって急速に乱心へと向かっていた。
前世であればスマートフォンという名の魔法の板で無限に時間を潰せたが、この世界にはそれがない。
さらに、三時間が経過……。
「テレレー! テレレー! テレレー! テレレー♪」
前世で聞き馴染んだ、あのハンバーガーチェーンのポテトが揚がった時のアラーム音を、口ずさみ(しかも完璧なピッチで)再現し始めたら、もう末期である。
さらに、四時間が経過…………。
水平線の彼方でクジラが悠然と潮を噴くのが見えた。
「……あー、あー。潜影蛇手……。ん、なんか違うなー。潜影蛇手ぅ〜……。おっ、今のはそれっぽかったかも!」
ラルフは前世のアニメキャラクターのモノマネ練習に没頭し始めていた。
喉の奥を巧みに絞り、特有の粘り気のある高音のダミ声を再現しようと、何度も試行錯誤を繰り返す。
「……潜影蛇手。ふふふ、サスケくん……あらやだぁ、完璧じゃなーい!」
その、渾身のモノマネが絶海に響き渡った、直後のことだった。
すぐ近く。
不自然なまでに波を立てずに揺蕩っていた潜水艇のハッチ。そこから顔を出したスズと目が合った。
ラルフは、無表情。
スズも、完璧なまでの無表情。
ただ、静謐な沈黙だけが、青い海と青い空の間に横たわっている。
すべてが、あまりにも青かった。
「……テメェッ! 今見た記憶をすべて消去しろやっ! こっち来い! 僕が魔法で忘れさせてやるっ!!」
ラルフが顔を真っ赤にして爆発した。
「ぐふっ……グフフ……。それ、モノマネのモノマネ? あのYouTuberの? 誰かに見せる予定でも……?」
スズは堪えきれないといった様子で口元を隠し、肩を震わせて問う。
「はァぁぁぁぁぁぁぁ! あの人を、あの偉大なクリエイターを悪く言うなよ! あの花江夏樹さんともコラボしてたんだぞ! クオリティ高いだろーがっ! おんっ?!」
まくしたてるラルフに対し、スズはハッチに肘を突き、冷めた眼差しを向けた。
「というか。ラルフ、またみんなを出し抜こうとしたのね? 本当に、性格が悪すぎるわ」
「けっ! 僕は、全員に利益が適切に分配される完璧なスキームを提案しただろう。そこまで言われる筋合いはないね」
「スキーム? ふん……便利な言葉ね。情報の非対称性を盾にして、無知な参加者から『納得感』という名の手数料を毟り取る……。そんな搾取モデルの構築に心血を注ぐ側の人間からしか、聞いたことがない言葉だわ」
「やめてやめてやめて! 痛い! 痛い!! 僕の心の奥底にわずかに残った良心を、ガトリング砲で蜂の巣にしないで……っ!」
ラルフはレッドフォードの背中の上で悶絶し、のたうち回った。
レッドフォードは片目を薄く開けると、「主人がまた馬鹿なことをしている」とでも言いたげに大きな欠伸を一つ。ザバァッ、と海水が大きく波打った。
すると、その時だった。
空気を震わせる重厚な汽笛の音が、水平線の彼方から響いてきた。
視線を向ければ、そこには巨大な、鋼の城を思わせる漆黒の船体。
――魔導船『ウル・ヨルン号』。
ロートシュタインが誇る海の猛者たちが、ラルフの足取りを追って(あるいはその性格を見抜いて)追いついてきたらしい。
「……あっらぁぁぁ。割に合わなくなってきたな。僕、もう帰ろうかなぁ……」
ラルフは天を仰ぎ、消え入りそうな声で呟いた。
幻のヴィンテージ・ワインに興味がないわけではない。
だが、それを手に入れるために、これ以上の文句や面倒事に付き合うのは、今の彼の精神衛生上、あまりに過酷すぎる。
何より、彼は一国の公爵であり、領主である。
この絶海でモノマネの練習をしている暇など、本来は一秒たりともないはずなのだから。
というか、めんどくせー。




