417.バンザーイ! 幽霊船
幻のヴィンテージ・ワインを満載している――かもしれない、不気味な幽霊船。
その怪談じみた報せは、瞬く間に「美酒の夢」という名の猛毒へと変質し、居酒屋領主館の平穏を無慈悲に引き裂いた。
「いいか! そもそも我が聖教国の船なのだから、その積荷の所有権は当然、我が国に帰属する!」
聖教国の司祭が、顔を真っ赤にして唾を飛ばす。言い終えるや否や、手元の黄金色のビールを喉を鳴らして呷った。
「領海ではなく公海を彷徨っているんだぞ! ならば『最初に見つけた者』が総取り。それが海の鉄則だろうが!」
共和国の議員が負けじと怒鳴り返し、凄まじい勢いで脂の乗ったヤキトリを口に放り込む。
「それは違うのではないか? そのワインは我が王国に献上されるはずの品だったのだ。ならば、実質的な所有権は受領者である我が王国にあると見るのが道理!」
ある種のロマンに心躍らせ、高価な米酒をグビグビと飲み干しているのは、この国の最高権力者である国王その人だ。
真夜中を過ぎても、喧騒は収まるどころか加熱の一途を辿っていた。
オーナーであるラルフは、既に厨房の指揮をメイドたちに任せ、自身はカウンターの隅でハイボールを啜っていた。
その表情は、嵐を眺める観測者のように無機質だ。
「……やれやれ。幽霊船で、戦争が起きそうだ」
呆れたように呟くラルフの横で、ロートシュタイン出版のヨハンが眠そうな目を擦りながら、山積みの古びた法律書の一冊を指先でなぞった。
「えーっと……これには、こうありますよ。『委託セラレタル献上品若クハ贈進物ヲ積載セル船舶ガ、其の目的地到達前ニ災厄ニ遭ヒテ亡失セシ場合、当該物件ノ所有権ハ未ダ受領者ニ移転セズ、依然トシテ差出人タル国ニ帰属スルモノト解釈ス。但シ、両国間ニ特段ノ盟約存スル時ハ、此の限りに非ズ』……ふぁ〜ぁ。……もう、目が限界です……」
ヨハンは大あくびをしながら、重い瞼を必死に持ち上げている。
「ヨハン、今日はもう泊まっていけ。二階の客間を好きに使っていいからな」
ラルフの提案に、ヨハンは力なく微笑んだ。
「ありがとうございます……。あぁ、でも気になるなぁ。書きたいことが溢れてくる……『幽霊船と欲望の葡萄酒』。いいタイトルになりそう、なんだ、けど、なぁ……」
まだ少年の面影を残す彼の瞳の奥に、眠気を超えた創作の炎が揺らめいている。
数年後、この幽霊船をモチーフにした小説がベストセラーとなり、ロートシュタインや王都の本屋に並ぶ未来を、ラルフは確信を以て予見した。
ヨハンはふらふらとした足取りで、愛おしそうに古書を抱えて階段を上がっていった。
「聞いたか! つまり、法的には我が聖教国の勝利だ!」
「はぁ?! 誰がそんな八十年も前のカビの生えた文言に、現代の正当性があるなんて認めるか!」
「秩序を蔑ろにする気か! 公文書の効力に時効などない!」
「待て、あの文言には『特段の盟約がある場合はこの限りではない』とあったはずだ!」
「その通りだ! つまり、王国・共和国・聖教国・帝国の四ヶ国連合が存在する今、これは一方的な処分ではなく、国際的な裁定の場へ持ち込むべきだということだろう!」
特権階級の酔っ払い共の「どうしようもない喧嘩」は、ラルフの予想に反して、皮肉にも法律という名の理性的な着地点を見つけようとしていた。
(まあ、血を見る事態にはならなそうだな)
ラルフは安堵の溜息をつき、カウンターの向こう側へグラスを差し出す。
「アンナ、ハイボールおかわり。濃いめで」
「旦那様、ほどほどに……。明日もお仕事ですよ」
「大丈夫、大丈夫よ。へっへっへ……」
冷ややかな眼差しを向ける筆頭メイド、アンナ。その手は渋々ながらも、棚から聖女特製の高級蒸留酒のボトルを取り出していた。
「おい、ラルフ! お前のその、悪知恵だけは無駄に働く頭脳で何か名案はないのか!?」
国王ウラデュウスが、威厳の欠片もない赤ら顔で身を乗り出してきた。ラルフは不服そうに目を細める。
「心外ですねー。誰が悪知恵の塊ですか? ヴラドおじ。僕がいつ、誰に対して悪巧みなんてしたって言うんです?」
ラルフが冗談めかして肩をすくめた、その瞬間だった。
ビシッッ!!!
店内にいた全客――冒険者、商売人、果ては各国の重鎮に至るまでが、寸分の狂いもなくラルフを指差した。
千のナイフが、冷たく胸に突き刺さったかのような、圧倒的な無言の圧力。
「ちょっとー! ねえアンナ、みんな酷くない!? 信頼関係って言葉を知らないのかよー! ここの客たちはぁー!」
唯一の理解者であるはずのアンナに泣きつこうと振り返るラルフ。
だが、アンナはハイボールのマドラーをカラカラと回しながら、グラスを握る右手の人差し指を――無表情のまま、まっすぐにラルフへ向けていた。
「……あ、……ぁぁ……」
ラルフは顔面蒼白になり、口をあんぐりと開けた。
信じていた女性の裏切りに、椅子から崩れ落ちそうになる。
まあ、そんな気は、ちょっと、していたのだが……。
なので、彼は即座に「商売人」の顔へと切り替わった。
またも、クルリと振り返ると、
「――いいでしょう! ならば、とっておきの提案です。これは単なる宝探しじゃない、『世紀のサルベージ・レース』ですよ! この不毛な奪い合いを終わらせるために、今この場で、誰が回収に成功しても適用される『鉄のルール』を確定させようじゃありませんか!」
「レ、レースだと……?」
国王が、ごくりと喉を鳴らした。この若き領主が「不敵な笑み」を浮かべた時は、必ず何かが起きる。そしてそれは、決まって恐ろしく、そして最高に面白いことなのだ。
「ルールは単純明快! 第一に、『回収者が全所有権を持つ』。 命を懸けて、あのアビエラ・グレイス号を港まで引き揚げてきた者に、まずは絶対的な権利を認めるんです。……第二に、元の持ち主である聖教国には『優先買戻権』を与える。これで国家の面子は立ちます。ただし、その価格は回収者の『言い値』だ。一歩も引く必要はありません。
そして、ここからが本題だ……」
ラルフが言葉を切ると、店内は水を打ったような静寂に包まれた。
「もし聖教国に、その法外な言い値を即座に支払う財力がなかった場合……国籍や身分を問わず、有志による『投資』を募ります。聖教国が支払うべき代金を、投資家たちが肩代わりする。いわば、幽霊船のワインを担保にした大規模な出資です」
「……投資? 聖教国の負債を、我々が背負うというのか?」
宰相の鋭い追求に、ラルフは不敵な頷きを返した。
「ええ。その代わり、買い戻されたワインは聖教国の主催で『公式オークション』に出品させる。落札額から投資分を配当として吐き出させれば、投資家は莫大な利益を得る。そしてオークションという形を取れば、ここにいる皆さんにだって、その『神の血』を正当に競り落とすチャンスが平等に巡ってくる……。どうです?」
店内の空気が、爆発的な熱量を帯びて膨れ上がった。
それは、まだ見ぬ幽霊船に眠る幻の葡萄酒を「金融商品」へと昇華させる、あまりにも現代的で悪魔的な提案。
「す……すげぇ……! スゲェって! 鳥肌立ったぜ。ラルフ様、あんたやっぱり天才だ! そんなの、乗るしかねえじゃねえか!」
「待て、つまり……先に回収した奴が、大金と名声とワイン、全部を手に入れるチャンスがあるってことか!?」
「ムフ……ムフフ……。誰が回収しようと、結局は我が聖教国の名の下にワインが戻るのだな? 良かろう、その案、乗った!」
「投資すれば、あのワインを口にできる確率が上がるのか? ならば、惜しくはない!」
争い合っていた欲望は、ラルフの提示した「合理的なゲーム」へと統合され、店内は瞬く間に情報の交換と戦略の練り上げに熱狂し始めた。
その時。
一人の少女が、決意を秘めた足取りで歩み寄ってきた。
その気迫に、誰もが言葉を失う。
金髪のツインテールを揺らしながら、彼女はテーブルの上にガシャリ、と金貨の詰まった革袋を叩きつけた。
「ふん……。あたしも乗るわ。その賭けに……」
不敵な笑みを浮かべたエリカだ。
ラルフはハイボールのグラスを鳴らし、半眼で彼女を見やった。
「……お前さ、そんな金があるなら、それで自分を買い戻して自由になる気はないのか?」
「あぁん? 何か言ったかしら? 奴隷だろうが王族だろうが、面白いことに首を突っ込むのが、ここの、ロートシュタインの流儀よね?!」
彼女はラルフの根本的な疑問を鼻で笑い飛ばすと、拳を天に突き上げた。
「さあ! 探し出すわよ、幽霊船! バンザーイ! 幽霊船!!」
「「「「バンザーイ! 幽霊船!!!」」」」
いつの間にか群衆心理を掌握する術を身につけたエリカに、ラルフは言いようのない不安を覚える。
「ラルフ、でかしたぞ! で、結局は我が王国が掻っ攫うんだよな? そうだよな!?」
国王がラルフの肩に腕を回し、上機嫌でダル絡みしてくる。
「お姉ちゃん、絶対に私たちが確保しよう! 聖なる酒は聖女である、私たちのものよ!」
「もちろん! 絶品ワインも金貨も、全部私たちのものよ〜! キャーハッハッハ!」
聖女姉妹も、もはや信仰心など欠片も感じられない咆哮を上げている。
「俺たちのウル・ヨルン号なら、確実に拿捕できる……!」
と意気込むシャーク・ハンターズ。
「ああ、もう! 呪いなんて知ったことか! 最初に見つけたのは私だ、意地でも捕まえてやるわ!」
と叫ぶ海賊公社のメリッサ。
貴族も、商人も、冒険者も。
かつてない狂乱の渦が、深夜の居酒屋を飲み込んでいく。
「「「「「おかわりだ! 酒を持ってこい!!」」」」」
一斉に上がる注文の嵐に、ラルフは「やれやれ」と肩をすくめて立ち上がった。
そうして。
厨房へ向かう。表情が、誰からも見えない角度になった、その瞬間。
ニタリッ……!!!
ラルフの口角が、耳元まで届きそうなほどに残忍かつ凶悪な曲線を描いた。
その表情をたった一人、目撃してしまったアンナは。
「…………ですよね。やっぱり、そうなんですね」
どこか諦めに似た納得を顔に浮かべた。




