416.ゴー! ゴー! 幽霊船
海賊公社の誇る快速船は、東大陸からの帰路、その「怪異」と邂逅した。
夜明けとともに東大陸の港を背にし、船出を告げる銅鑼の音が空に溶ける。
王国から運んできたロートシュタイン産の極上酒を詰め込んだ樽を卸し、束の間の休息を終えた船員たちは、代わって積み込んだ香辛料の刺激的な芳香と、滴るような瑞々しさを湛えた珍果の甘い香りに包まれていた。
太陽が天頂へと差し掛かり、海面が白銀に輝き始めた、その時である。
視界は唐突に、逃げ場のないほどに濃密な「白」に塗り潰された。
「……おかしいわね。この時節、海霧は珍しくないけれど。この肌を刺すような寒気、一体なんなの?」
女船長メリッサ・ストーンは、愛用の精密双眼鏡を握りしめ、レンズの向こう側を凝視した。その指先は、原因不明の冷気に微かに震えている。
静寂を切り裂くように、甲板を叩く慌ただしい足音が近づいてくる。
「メリッサ船長! 大変です、船足が止まりました! 風が……完全に凪いだようでっ!」
「なんですって? 何を馬鹿なことを。現にこうして、霧が流れているではない……ッ!」
言いかけて、彼女は言葉を失い見上げた。
帆は力なく垂れ下がり、風の恵みを一片も受けていない。
にもかかわらず、周囲を覆う霧だけは、まるで意志を持つ生き物のように、一定の速度で後方へと流れ去っていくのだ。
太陽の光は完全に遮断され、正午だというのに世界は深い夜の帳に包まれたような、不気味な闇へと沈み込んだ。
「船長……魔導航路士からの報告です。この海域の魔素が異常なまでに澱み、巨大な吹き溜まりを形成していると……」
二人は、その未知なる怪異を前に息を呑んだ。
海の厳しさを知り尽くしたプロフェッショナルであればこそ、この非日常的な静寂が、死神の気まぐれな鎌が振り上げられた瞬間であることを本能で理解してしまう。
「ちっ……ラルフ様が、あの『ウル・ヨルン号』のような魔導船を我々にも回してくれていれば! 風が死んだところで、自走できただろうに!」
官民半官の立場でありながら、主の怠慢――あるいは贅沢な偏愛――に歯ぎしりせずにはいられない。
彼女の脳裏には、最新鋭の装備を誇る海の冒険者クラン『シャーク・ハンターズ』の面々が、鼻持ちならない笑みを浮かべて荒波を征く姿がよぎった。
その時。
見張り塔の鐘が、悲鳴のような音を上げて打ち鳴らされた。
カーン! カーン! カーン!――と。
「衝突注意! 回避ぃッ! 面舵、回避いぃぃッ!」
メリッサは弾かれたように振り返る。
そこには、ただ濃密な霧と、底知れぬ闇が広がっているだけだ。
しかし、見張り担当の目には「それ」が映っている。彼女は迷うことなく部下を信じ、喉が裂けんばかりに叫んだ。
「面舵いっぱーいッ!」
推進力という魂を失った船体に、舵の効果が薄いことは百も承知だ。だが、何もしなければ死が確定する現場において、即断即決こそが唯一の生存戦略である。
ギシギシ……と、悲鳴のような音を立ててマストが軋む。
メリッサは無意識に足を踏ん張り、船べりを掴む手に力を込めた。
船首が向く、その闇の深淵に目を凝らす。
このような絶海で衝突の可能性があるとすれば、他国の密輸船か、あるいは巨大な流氷。最悪のケースは、深海に潜む伝説級の水棲魔獣だ。
船員たちが息を止める中、霧の向こうから「巨大な影」がその姿を現した。
それは、波音さえ立てず、滑るように現れた。
巨大な、漆黒の船体。
それがゆっくりと、あたかも儀式のような鈍重さで、自船の横をすり抜けていく。
「うっ……」
誰かが短く、嘔吐感を堪えるような声を漏らした。
漆黒に見えたのは塗装ではない。船体の隅々までを埋め尽くし、蠢いているのは、病的なまでに増殖したフジツボやフナムシの群れだった。
海を友とする者たちでさえ、根源的な嫌悪感を隠せないほどの光景。
そんな極限状態の中、メリッサの瞳は、その船の側面に刻まれた紋章を捉えた。
竪琴を模した気品あるレリーフ。そして、その下に刻まれた船名。
――"アビエラ・グレイス号"。
全員が言葉を忘れ、その亡霊のような影を目で追った。
それは衝突の航線を紙一重で掠め、去りゆく背中を見せると、再び不気味な霧の向こうへと溶けて消えていった。
気がつけば、霧は跡形もなく晴れ渡り、突き抜けるような青空が戻っていた。
上空では海鳥たちが呑気に鳴き交わし、帆は再び心地よい風を孕んで、ロートシュタインへと向かう推進力を取り戻す。
顔を見合わせ、安堵と困惑に揺れる船員たちの中で、言葉を発する者はまだ誰もいなかった。
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「はあ? 幽霊船だと?」
ラルフは眉間に深い皺を刻み、メリッサの言葉を鸚鵡返しにした。
「そ、そそそ、そうなんです! あ、あ、あ、あれは! ぜぜぜぜぜ、絶対に、そうですって!」
歯の根も合わない様子でガチガチと震えながら、彼女は必死に報告を続ける。
居酒屋 領主館のカウンター越しに漂っていた喧騒が、潮が引くように止んだ。
店内の客たちが一斉に、興味津々な眼差しでそのやり取りに耳を立てている。
「そんな怪談話があるわけ……。ん? いや、この世界ならあり得るのか」
ラルフは即座に否定しかけて、すぐさま方針を転換した。
何しろ、ここは前世の常識が通用しない転生先の世界だ。
魔法の源たる「魔素」が偏在し、そこから魔獣が生まれ、死してもなお動くアンデッドやスケルトンが実在するのだ。幽霊船の一隻や二隻、出てきてもおかしくはない。
「私は! 当分の間、海には出ませんからね! 呪われていたらどうするんですか! 絶対に嫌ですからねっ!」
メリッサが半ば逆ギレ気味にボイコットを宣言する。
ラルフは深いため息を漏らした。
海を越えた交易の要を担う、海賊公社の長からのまさかの職場放棄。これは領地の経済に関わる一大事だ。
「で? なんだっけ? 名前は。アビエラ……何とか号だっけか。所属はどこなんだ?」
呆れ顔で問いかけたラルフへの回答は、意外な場所から返ってきた。
「『アビエラ・グレイス号』……。聖定歴十八年、十六夜月の昼。聖教国より、当王国へ向けて出港。その後、魔の海域にて行方不明……。現在に至るまで、乗組員三十七名と当該船舶の所在は、一切不明とされている。だそうですよ!」
領主館の書庫から引っ張り出してきた、歴史の重みを感じさせる古びた書物を読み上げたのは、知の探究者たるヨハンだった。
カウンターで隣り合って座っていた、この国の最高権力者コンビ――国王と宰相が、酒杯を止めて顔を見合わせる。
「アビエラ・グレイス号? むむむ?! どこかで聞き覚えがある名だなー」
「陛下、私もおぼろげなのですが……確か、今から百年近くも前、陛下が即位されるよりずっと昔の話です。聖教国から当時の我が王国へ、新王即位の祝賀として『至高の献上品』を積んだまま消息を絶った、そんな船舶だと聞いた気が……」
すると、近くのテーブル席で既に顔を赤らめている聖女姉妹が、酔眼を細めながら口を挟んだ。
「うわー……幽霊船かぁ。やだねぇ、お姉ちゃん。気味が悪ーい!」
「ほんと。船って、乗る人たちの執念や愛着が乗り移りやすいから。海に沈んだ無念は、容易に消えない怨念の苗床になるのよねぇ〜。くわばらくわばら」
なぜか心底嫌そうに語る二人だが、ラルフにその詳細を聞き出す気力はない。彼女たちは既にビールジョッキを幾つも空け、今は赤ワインのボトルを一人一本ずつ片付けようという、廃人一歩手前の酔いどれモードに入っているからだ。
(あー、やっぱり。幽霊船って、この世界じゃ『よくある魔導現象』のひとつなわけね)
ラルフは一人納得し、調理台の上で立派なサーモンの柵を切り分けていた手を止め、水道の蛇口を捻った。
「んん……? なになに。……当時の記録によれば、主要な積み荷は……聖教国が誇る『神の血』と呼ばれた、当時の"超最高級葡萄酒"……?」
書物を読み進めていたヨハンの声が、静かな店内に響いた。いや、運悪くほんの一瞬の喧騒の隙間を、何故か穿いた。
すると、ラルフの手が止まる。
魔導ポンプで汲み上げられた水道から、ジャァァ……という流水の音が、無機質にラルフの指先を伝う。
ラルフは、静かに、そしてゆっくりと顔を上げた。
時を同じくして、店内の客たちの空気が一変した。
彼らの瞳には、先ほどまでの好奇心とは明らかに質の異なる、妖しげな光が宿っている。
それは、獲物を狙う猛禽のそれであり、美食という名の深淵に魅せられた狂信者の目だった。
互いに、謎の察しの良さと、敵対的なまでの視線の交錯。
そう。その場にいた全員の脳裏に、同じ「仮説」が、抗いようのない誘惑として浮かび上がったのだ。
(百年近く……幽霊船という『天然の魔導熟成庫』の中で、眠り続けていた"ヴィンテージ・ワイン"……だとっ?!!)
その空前絶後の美味への期待。
発見した際の所有権。
そして、それを口にしたいという剥き出しの欲望。
それらが鋭い視線の応酬となって、静まり返った居酒屋の空気をピリピリと震わせる。
厄介事など誰も望んでいないはずなのに、この『居酒屋領主館』に集う美食の徒たちは、"至高の一滴"のためならば、自ら厄介事の渦中へと飛び込むことを厭わないのである。




