415.大魔導士の自己顕示欲
居酒屋領主館。
そこは、喧騒という名の熱気が渦巻く、街一番の混沌とした聖域だ。
ジョッキがぶつかり合う音、冒険者たちの野太い笑い声、そして厨房から漂う食欲をそそる脂の香りが、建物の梁を震わせるほどに膨れ上がっていた。
そんな熱狂のピーク時、カウンターの端で、先日まで「商売の先行きが見えない」と死相を浮かべていた男が、夢見心地のような表情でぽつりと呟いた。
「なんか……あっという間に、なんとかなりそうです……」
その言葉を拾った店主のラルフが、ニカッと不敵な笑みを浮かべて返した。
「だろ? 案ずるより産むが易しだ。ほら、前祝いだ、カンパーイ!」
「は、はい。乾杯……っ!」
乾いた音を立てて、カウンター越しにグラスが打ち鳴らされる。
しかし、男の手にあるのは琥珀色のエールではない。漆黒に弾ける泡――ソフトドリンクのコーラだ。
なぜなら、彼にとっての「戦場」は、この居酒屋が店仕舞いを見据え始める時間帯から幕を開けるからである。
彼はラルフのアドバイスに従い、熾烈な昼の市場原理を避け、デリバリーという新機軸を打ち出した。それもただの配達ではない。彼は、リネア・デューゼンバーグが夜を統べる社交場、『スナック・リネア』と専属の仕出し契約を結んだのだ。
夜半過ぎ、あるいは東の空が白み始める頃――。
酒で火照った胃袋が、強烈に「背徳的な油と炭水化物」を欲する魔の時間。そこに届く熱々の「シメのラーメン」という禁断の果実。
このサービスは、開始からわずか数日で爆発的な人気を博していた。
「正直、俺は朝が極端に弱くてね。世間が寝静まる頃に本調子が出る……こいつを仕事に活かせる日が来るなんて、思ってもみなかったですよ!」
意気揚々と語る彼は、目の前のハンバーガーセットを秒速で平らげると、「商売、行ってきます!」と夜の闇へ、まるで獲物を見つけた夜行性動物のような軽やかさで消えていった。
ラルフはその背中を、言葉に頼らぬ静かな眼差しで見送る。
手元では、熟練の技巧で包丁が走り、大根の皮が芸術的な薄さで剥かれていく。
「さすがですね、旦那様。また一人、迷える子羊を救ってしまいましたか?」
隣で仕込みを手伝っていたアンナが、どこか面白がるような、それでいて深い信頼を感じさせる声音で問いかけた。
「……まあな。だが、デリバリーという業態の優位性は、まだ先行者利益に過ぎん。他店が追随し、飽和状態になった時にどう差別化するか。勝負はそこからだ」
ラルフは慢心することなく、論理的なリスクヘッジを思考の隅に置いていた。
しかし、そのストイックな空気を切り裂くように、勝手口が勢いよく跳ね上がった。
「ラルフさまー! ただいま戻りましたっ! 見てください、共和国まで生姜焼き弁当を届けてきましたよ! もう、チップをこんなに頂いちゃいました!」
現れたのは、共和国のエージェントという重責を担いながら、現在は領主館の「超速配達員」として覚醒したヨランダ・カームだ。
ラルフは手を止め、振り返った。
「おかえり。どうだった? ゲータースキンの乗り心地は」
「最高ですっ! 共和国までビューンですよ! 雲を追い越す時のあの速さ、街の人たちも開いた口が塞がらないって顔で見てました!」
空を駆ける配達の魅力に取り憑かれたエージェントは、頬を紅潮させて語る。
「よし、大戦果だな。今日はもう上がっていいぞ。ゆっくり休め」
ラルフの提案に対し、ヨランダは即座に首を横に振った。
「いえいえ! まだまだ働きますよ。フロアには私を待ってくれている常連さんがたくさんいるんですから!」
彼女は慣れた手つきでサロンエプロンを腰に巻くと、弾けるような笑顔で客席へと飛び出していった。
「おー! ヨランダちゃん! 今日はもう会えないかと思ったぜ!」
「お待たせしましたー! また会いに来てくれて嬉しいです! さて、今夜は何から始めます?」
「っ! ……この店で、一番高いボトルを持ってこい!」
「すごーい! カッコいい!! さすがですねっ!」
目をキラキラ(……というよりは、計算された輝きで)させて驚いてみせるヨランダ。
傍から見ればあまりに白々しいが、海運を担う商家の御曹司であるその客は、すっかり鼻の下を伸ばして上機嫌だ。
(……おいおい、大丈夫か? うちは健全な居酒屋だぞ? コンカフェじゃないんだからな!?)
ラルフは内心で盛大なツッコミを入れた。
色恋や媚びを売るような商売は、職人気質の彼としては少々複雑な心境だ。
だが、フロアを見渡せば、看板娘たちがそれぞれの「個性」を武器に、戦場のような客席を華麗に制圧していた。
「いらっしゃいませ、お疲れ様です!」
弾ける笑顔で癒やしを振りまくミンネ。
「居酒屋領主館へようこそ! 今夜も最高に楽しみましょう!」
元気いっぱいの発声で場を盛り上げるハル。
さらには、
「ふん。カレー。食べたい人、いる? ほら、アンタ食べなさいよ!」
と、傲岸不遜なスタイルが逆にある層に刺さっているエリカ。
そして極めつけは、
「貴方、今、私の胸部に接触を試みましたか? ……危なかったですね。コンマ数秒遅ければ、その腕は床に転がって、二度と繋がることはなかったでしょう」
無表情なアンナが、手元のペティナイフを美しく、そして冷酷に光らせる。
セクハラまがいの冒険者は、顔を引きつらせて石のように固まっていた。
しかし、恐ろしいことに客たちは、このバラエティに富んだ麗しき女性たちの一挙手一投足に、メロメロになっていた。
いかがわしい営業をしているつもりは毛頭ないが、この店の爆発的な集客力の一端が「彼女たちの魅力」に依存しているのは、認めざるを得ない厳然たる事実だった。
そこへ、新たな来店客が。
「キャー! ラルフさまだわ!」
「本当に、伝説の大魔導士さまが厨房に立ってる!」
現れたのは、若い女性魔導士のグループだった。
ラルフはすかさず、包丁を置き、前髪をさっとかき上げる。そして、彫刻のような端正な顔立ちに「キリッ」とした極上の微笑を浮かべた。
「やあ、レディたち。ここは伝説の大魔導士――そう、僕が営む至高の酒場だ。それを承知で僕に会いに来てくれたのかな?」
背後にバラの花が見えるかのような、キラリーん! という擬音が聞こえそうなほどの完璧なサービス・スマイル。
接客業として、自分も「商品」の一部であるというプロ意識と、少々の自己顕示欲を発揮したのだ。
……だが。
フロアの女性陣――アンナ、ヨランダ、ミンネ、ハル、エリカ。
彼女たちの視線は、マイナス百度を下回るほどの極寒の「ジトーッ」とした冷淡なものだった。
「…………なんだよ! なんで僕がやったらダメなんだよ!? お前らだって同じようなことやってるだろうが!!」
耐えきれなくなったラルフが即座に憤慨する。
どうやら、ビジネスにおける「ジェンダーによる需要と供給の法則」と「謎のダブルスタンダード」の壁は、大魔導士の魔法をもってしても容易には打ち破れないらしい。
居酒屋領主館の夜は、理屈と喧騒、そして少しの理不尽を孕んで、さらに深く加速していくのであった。




