411.慈愛と力
このシスター。241話に、ちょろっとだけ登場してます。
冒険者ギルドの依頼掲示板に、『ダンジョン深層に棲息するシェイプシフターの捕獲』という異例の依頼が乱舞し始めた頃のこと。破格の高額報酬に目が眩んだ荒くれ者たちのざわめきがロートシュタイン領の空気を震わせる中、領主ラルフのもとには、王都の教会から一つの接見打診が届けられていた。
――グビッグビッグビッ!
豪快極まりない音を立てて大ジョッキが空になり、ドン! と鈍い音を立ててカウンターに置かれる。
「プハァー! いやー、美味いねぇ。やはりロートシュタインで飲むビールは、格別! 一味も二味も違うじゃないか」
満足げに息を吐き、黄金色のフライドチキンを手掴みでムシャムシャと貪り食うその人物。
驚くべきことに、それは女神への信仰と慎ましさを象徴するはずの、年老いた修道女であった。
「あー……。あの、マザー・ヒルデガルドさん。まあ、別にいいんですけどね。ええ、まあ……いいんですけど……」
カウンターの内側で、ラルフは諦念という名の深淵に片足を突っ込んでいた。
この老シスターがいつ本題を切り出すのか。急ぎの用でないなら一向に構わないが、ここは厳格な執務室ではなく、喧騒渦巻く営業中の『居酒屋領主館』。わざわざこの場所、この時間を指定してきた時点で、彼女の意図は明白であった。
「ムシャムシャ……。かぁー! たまらないね〜! この溢れ出す脂を、こうして……ングング……」
今度は白ワインのボトルを掴むや否や、躊躇なくラッパ飲みを始める。
聖職者としての矜持をどこか別の次元へ置き忘れてきたような、御年七十を超えたシスター。
ゆったりとした修道服越しでも伝わるその屈強な骨格と、酒と脂を難なく処理する内臓の強靭さは、もはや超常の域に達しているようだった。
その時、カランコロンとドアベルが鳴り、新たな客が足を踏み入れる。いつものようにカウンターへ歩み寄ろうとしたその男は、先客の姿を視界に入れた瞬間、物理的に一歩後退った。
「げっ!? なんで、ヒルダの糞婆がこんな場所にいるんだよ!?」
思わず本音を漏らしたのは、お隣の領主にして公爵、ファウスティン・ド・ノアレイン。
ヒルデガルドは鶏の骨を無造作に放り投げると、冷徹なまでの眼光で彼を射抜いた。
「はん。誰かと思えば、ノアレイン家の若造じゃないか。……何度言えばその足りない頭に刻まれるんだい? 次、私を『クソババア』呼ばわりしてみな? あんたの全身の骨を粉砕して、火炙りの刑に処してやるよ」
放たれる言葉は、慈愛の欠片もない物騒極まりない宣告。
そんな修羅場の一歩手前の空気の中に、一人の少女が飛び込んできた。
「あ、あの! お待たせしました! フライドチキンの追加です!」
金髪のサイドテールを揺らし、てんこ盛りのチキンを運んできたシェリー。
だが、ヒルデガルドの前に皿を置いた瞬間、老シスターの目が細められた。
「ん……? んんんんん? お嬢ちゃん、あんた……『魔のモノ』の臭いがぷんぷんするねぇ? ここの節穴どもは騙せても、私の鼻は誤魔化せないよ。……どれ、今すぐ地獄へ強制送還してやろうか……」
ニヤリと、獲物を見つけた猛獣のような微笑を浮かべるヒルデガルド。
シェリーは顔を蒼白にし、金縛りにあったように目と口を見開いた。
シェイプシフターという正体を見透かされ、聖魔法の加護を帯びた威圧感に気圧されている。
更には、修道服の袖から覗く、鋼のように脈打つ逞しい腕が、死の予感を加速させる。
「あー! 待ってください、マザー・ヒルデガルド! 確かに彼女は魔物ですが、今はうちの大切な従業員なんです! だから、本当に大丈夫ですから! 本当にっ!!」
ラルフが慌てて割って入り、破滅の術式が発動するのを食い止める。
「あらっ!? そうなのかい? なんだ、てっきり……。なら、これをあげよう。さっき市場で見繕った飴だよ。……でもね、よくお聞き。もし悪さをしようなんて考えたら、『メッ!』ですからね? ――『滅っ!!』よ?」
「は、は、はいぃ……っ! 決して、決して悪さはしません……。私は、ヒトのお役に立って……生きていきますぅ……」
茫然自失といった体で言葉を紡ぐシェリーは、震える手で飴を受け取った。
その背中には、冷や汗が滝のように流れている。
無理もない。この王都教会の重鎮、マザー・ヒルデガルドは、古希を過ぎてなおファウスティンと同系統の、肉体言語を備えた、つまりフィジカル重視の、すなわち筋肉に物言わせる、現役バリバリの退魔師なのだ。
そんなファウスティンはといえば、端っこの席で気まずそうに気配を消している。深入りは禁物だと、本能が告げているのだろう。
「で? そろそろ本題を聞かせてもらえませんか、マザー。何か相談があるとか」
ラルフは一時的に店主の仮面を脱ぎ、領主としての理性で問いかけた。
「あぁ、そうだったね。実はね、ラルフ公爵。王都の孤児院で預かっている子たちの中に、今年十五になる子らがいるんだ。どうだろう? あんたの領地で、雇っちゃくれないかい?」
「……え? それは、願ってもない申し出ですが。本気ですか?」
深刻な人手不足に頭を抱えていたラルフにとって、それはまさに天からの贈り物だった。
「将来、自分の力で商売を始めたいという意気込みのある子を見繕ってきたよ。全員が、ロートシュタインの……いや、この『居酒屋領主館』での修行を熱望しているんだ」
それを聞いたラルフの顔に、弾けるような喜悦が浮かぶ。
「いよっしゃあ! その商談、成立です!」
歓喜に任せ、ラルフは差し出されたヒルデガルドの手をガシッ! と握りしめた。
だが。
(……ん、んん?)
握った老シスターの手は、温かな人間の手というより、地脈に根ざした巨大な大岩のようだった。微動だにしない。
そこでラルフの悪癖――ほんの少しの悪戯心と、負けず嫌いな意地が疼いた。
彼は瞬時に左目に深紅の魔力を宿し、全身に『身体強化』の魔法を巡らせる。魔導士としての全出力を右腕に凝縮し、ギリリと力を込めた。
しかし。
「……ふん? ……おやおやっ!」
ヒルデガルドは凶悪なまでの笑みを深めた。
ラルフの手の中で、老シスターの拳が逆に膨れ上がるような錯覚。
ギリ……ポキポキ……ギシギシッ!
という、生物の体から発せられてはならない不穏な軋み音が店内に響く。
堪らず、ラルフの顔が歪んだ。
「痛い! 痛い痛い痛い痛い! 折れる! 粉砕されるーっ!!」
必死で手を引こうとするが、万力のような力に囚われ、寸塵も動けない。
「『殲滅の魔導士』……なんて大層な二つ名で謳われているらしいけど、こんなもんかい? 喧嘩を売る相手は、慎重に選んだ方が長生きできるよ? 公爵、いや、大魔導士さまぁ……」
ヒルデガルドの瞳が、狩人のそれへと変質し、怪しく発光する。
「ヒィィィィィィィィィッ!?」
ラルフの情けない悲鳴が、後悔とともに店内に虚しく木霊した。
その時。
「あ、あの……! お兄ちゃんが凄く痛そうだから。その、それくらいに、してあげて欲しいです」
「そ、そうです! このお店の中では……喧嘩は禁止なんです!」
勇気を振り絞って声を上げたのは、カウンターの片隅で様子を窺っていたミンネとハルだった。
純粋な瞳で真っ直ぐに見つめられ、ヒルデガルドは憑き物が落ちたように目を細めた。
「……おやおや! なんと愛らしい天使たちだろうねぇ! ……いやいや、これは違うんだよ? 私とラルフ公爵は……そう、これは『遊び』なのさ! スキンシップというやつだねぇ」
先ほどまでの魔王のような覇気を消し去り、好々爺ならぬ好々婆の顔を作るヒルデガルド。
「あ! そうなんだ。ごめんなさい。お兄ちゃんが、本当に痛がっているように見えたから……」
「あぅ……ごめんなさい。私たちの早とちりでした……」
しょんぼりと肩を落とす二人に、老シスターは慌てて懐から別の飴を取り出した。
「あらあら、優しい子たちだねぇ。ほら、飴をあげるよ。……心配いらないよ、私とラルフ公爵は仲良しなんだから。ねぇ? ラルフ公爵!!」
背後に凄まじい威圧感を感じながら、カウンターの中で右手に密かな治癒魔法をかけていたラルフは、死んだ魚のような目で答えた。
「あー……はい。そうっすね、なかよしっすね。……ええ、もうマブダチですねー」
暴力的な力と、底知れぬ慈愛、そして尽きることのない欲望が同居する老シスター。
ラルフは、しびれる右手の感覚とともに、彼女が歩んできた激動の人生の重みを、嫌というほど思い知らされるのだった。




