406.白上の断絶
「ラルフ。マグロがあるって聞いた。"やまかけ"が食べたい」
迷宮の支配者――ダンジョン・マスターであるスズが、短く、しかし拒絶を許さぬ響きで注文を口にした。
その身を包むのは、彼女のトレードマークとも言える漆黒のセーラー服。どこか遠い世界の学舎を想起させるその衣装は、この異世界の酒場において異彩を放っている。
「よーしよし、いいぞ。それでいいんだ……」
居酒屋領主館のオーナー、ラルフは満足げに深く頷いた。
この少女、現れるたびに著作権という概念の境界線を全力で反復横跳びするようなコスプレと挙動を見せる。ツッコミ担当を自任するラルフも、内心では戦々恐々だ。客を飽きさせないためのツッコミには、鮮度とバリエーションが求められる。芸人ではないにせよ、ラルフにはそれなりのサービス精神と、居酒屋オーナーとしての矜持があった。
「作れるの? トロロなんて、この世界にあるわけ?」
「ああ、似たような粘り気の強い山芋がある。……しかし、自称・偏食のくせに、随分と渋いところを突いてくるじゃないか」
「あれは美味しい。私の中の『ご飯がすすむランキング』では、不動の第一位……」
「なるほど。……味噌汁はつけるか?」
「今日の具材は何?」
「豆腐だけだ。シンプルだが、それがいい」
「ふむ……貰おうかしら」
「あいよ」
ラルフは即座に調理へと移行した。
泥を落とした山芋の皮を剥き、おろし金でリズミカルにすりおろしていく。真っ白で粘り気のある山芋をあたり鉢へ移すと、そこへ新鮮な生卵を投入。円を描くように手早く、かつ丁寧にかき混ぜる。
さらに、特製の白だしを微量加え、質感に滑らかさと奥行きを与えていく。
そこで、ふと思い出したように、彼は重要な確認を投げかけた。
「スズ! トッピングに注文はあるか?」
「ネギはいらない。ワサビもいらない」
……だろうな。
確信に近い予感に苦笑しつつ、調理を続行する。
保冷庫から取り出したのは、特製のタレにじっくりと漬け込まれたマグロの赤身。一口大のサイコロ状にカットされたそれは、宝石のような光沢を放っている。
このまま小鉢に盛り、彩りにネギを散らせば洗練された酒の肴になるし、熱々の白飯に載せれば至高の丼となる。出せば出すだけ客の胃袋へと吸い込まれていく、人気メニューの一つだ。
ラルフは、その"漬けマグロ"をいくつか、大胆にあたり鉢へと投入した。
飾り気のない、しかし本能に訴えかけるその一鉢を、カウンター越しにスズの眼前に置く。
「ほらよ、好きなだけ食え。……飯は白飯と麦飯、どっちにする?」
「えっ、麦飯があるの? ……じゃあ、麦飯でお願い」
「がってん!」
手際よく麦飯を茶碗に盛り、湯気の立つ味噌汁を添える。少しだけ彩りが寂しいと感じたラルフは、瑞々しい胡瓜の浅漬けを小皿に添え、完璧な布陣で提供した。
「お待たせ。居酒屋領主館特製、やまかけ定食だ!」
「……たまんない。無限の米へ、いざゆかん。いただきます!」
スズは、あたり鉢の中身を熱々の麦飯の上へと豪快に、ドバァッとかけた。
そして、ズルズルと音を立てながら、まるで飲み込むかのようにやまかけ飯を貪り始める。その至福に満ちた表情は、周囲の視線を釘付けにするには十分すぎた。
案の定、その様子を興味深そうに観察していた客たちが、ざわつき始める。
「おい、あれはまた裏メニューか?」
「ああ、見たことねえな。得体の知れない白いドロドロを飯にかけてるが……あの嬢ちゃんの食い方、見てみろよ」
「あれは、食べているというより、飲んでる。……なんだか、美味そうだ」
「……試しに、俺たちも頼んでみるか?」
あちこちで潜められた声が波紋のように広がっていく。
だが、その穏やかな空気を切り裂くように、力強い宣言が響き渡った。
「ふんっ! 白飯に最も合うのは、カレーに決まっているわ!」
揺るぎないアイデンティティと共に、断固とした主張を放ったのは『スパイス・クイーン』の異名を持つエリカだ。彼女の宣言は、不毛にして最高に平和的な議論の導火線に火をつけた。
「私は、やはりこの『イエケー・ラーメン』の、脂の浮いた濃いめスープだ! これさえあれば、白飯が無限に食える! マスター、ライス大盛りおかわりだ!」
声を荒らげたのは、空腹の女騎士ミラ・カーライル。彼女の目の前には、濃厚なスープが残った丼が鎮座している。
「ご飯のお供なら、私は辛子明太子一択だな!」
厨房で包丁を握るオルティ・イルまでもが、参戦した。彼女が纏う、トウガラシの刺繍が施された桃色の作務衣が、その言葉に妙な説得力を与えている。
「いや、テリヤキだろう!」
「ハンバーグの肉汁こそが至高だ!」
「麻婆豆腐の破壊力を忘れるな!」
店内は瞬く間に、米を巡る熱狂的な議論の渦に飲み込まれた。
ラルフは、呆れたような、それでいてどこか楽しげな目でその喧騒を眺めていた。
前世の日本においても、これほどまでに熱く、終わりなき議論を呼ぶ話題はない。ネットの掲示板やメディアで、何度ランキングが作られてきたことか。
カレー、明太子、ハンバーグ。確かにどれも強豪だ。
しかし、米というバイプレーヤーは、あらゆるメインディッシュを優しく受け止める度量と、その魅力を何倍にも引き立てる懐の深さを持っている。
いや、日本的な感覚で言えば、米こそがメインであり、他はすべてその引き立て役に過ぎない――コンテクストの再定義。そんな大仰な思考がよぎるほど、この『米食文化』は、ここロートシュタインの『領主館』を震源地として、着実に世界を侵食し始めていた。
ラルフがふと溜息をつくと、エリカがツインテールを揺らしながら歩み寄ってきた。
「ねえラルフ。あんたはどうなの? 何が一番ご飯がすすむと思うわけ?」
「……うーん、そうだな。実は、密かに試作していたものがあってな。試しに、今ここで解禁してみるか」
ラルフは厨房の奥へと戻り、大切に保管されていた『それ』を取り出した。
現れたのは、質素な藁の包み。
そして、その禁断の食品が、ついにこの異世界の光の下へと晒された。
それは――納豆。
「うげっ! ちょ、ちょっと待て! なんだよそれ、腐って糸を引いてるぞ!」
近くにいた冒険者の男が、戦慄に顔をひきつらせて叫ぶ。
「ラルフ、あ、あんた……正気? まさか、それを食べるつもりなの……」
エリカも、生物学的本能が警鐘を鳴らしているのか、数歩後ずさってドン引きしている。
だが、ラルフは周囲の困惑をどこ吹く風と受け流し、納豆を器に移した。醤油、少量の辛子、そして刻みネギ。箸で力強くかき混ぜると、特有の芳香と粘り気が増していく。それを、熱々の白飯の上へとドロリと鎮座させた。
「ウブッ……! ちょ、ちょっと、見てるだけで食欲が死滅するんだけど……」
聖女トーヴァが口元を押さえ、悲劇のヒロインのような表情で目を背ける。
沈黙と驚愕が支配する店内で、ラルフはその塊を、迷うことなくパクりと口にした。
「う、うわああああ! 食った! あの男、本当に食いやがった!」
「いや、待て! あれはラルフ様が大魔導士で、強力な毒耐性を獲得しているから可能な芸当なんだ! 素人が真似したら死ぬぞ!」
「悪食にもほどがあるぜ……。あんな、魔物の体液みたいなものを……」
店内はもはや阿鼻叫喚の地獄絵図。
予想通りの反応に、ラルフは心の中で肩をすくめた。
日本食が世界へと羽ばたいた前世においても、納豆は常に異文化圏の人々にとっての最終試練、あるいは高い壁として君臨していた。そのハードルの高さは、身を以て理解している。
しかし、どの世界にも、常識の枠を超えた好奇心を持つ者は存在する。
「ん〜。オラ、ちょっと食べてみたいかも〜」
のんびりとした口調で名乗りを上げたのは、エルフのミュリエルだった。
その瞬間、カウンターでやまかけを啜っていたスズが、弾かれたように振り返った。その瞳には、かつてないほどの真剣な光が宿っている。
「やめなさい! あんなもの、ヒトの食べるものじゃない!」
凄まじい気迫と、理屈を超えた拒絶の叫び。
「……いや、そこまで言うか?」
日本人の中にも、一定数どうしても納豆を受け入れられない者がいるのも、また事実だ。
ラルフは苦笑いしながら、クルクルと器用に箸を回し、未だに空中で踊る粘りの糸を断ち切った。




