407.二人のエリカ①
酒精の微かな残滓が脳の奥底にこびりつき、鉛のように重い意識を引きずりながら、ラルフは階下へと降りた。窓から差し込む無慈悲なほどに鮮やかな朝の光が、網膜を刺して憂鬱を煽る。彼は漏れ出るままに欠伸を、濁った吐息とともに吐き出した。
一階の食堂では、すでに喧騒と呼ぶにふさわしい和やかな――あまりに和やかすぎる朝食の景色が繰り広げられていた。
「大旦那様、本日はパンになさいますか? それとも、ご飯でしょうか」
甲斐々々しく立ち働くオルティ・イルが、先代領主ヴォルフガングへと問いかける。
「あー……白飯が食いたい。それから海苔と、半熟卵を頼む」
当のヴォルフガングは、隠居という名のモラトリアムを全力で謳歌していた。息子であるラルフの執務を手伝う気配など微塵も見せず、騎士団での剣術指導や冒険者ギルドの外部顧問など、気の向くままに日々を浪費している。
「パパさま! どうぞ、私たち特製のお味噌汁も!」
「今日はネギと油揚げたっぷりでーす!」
「おー。そうか、美味そうだ。貰おう」
年少組のミンネとハルも、朝から眩しいほどの活気で調理に参加していた。
「あら、ハルちゃん。私にも一杯いただけるかしら?」
母ジャニス・ドーソンは、香ばしく焼き上がった厚切りトーストに、暴力的な量のバターを塗りたくりながら、和洋折衷を地で行く味噌汁を所望する。
「誰か、カレーの追加はいるー?」
カウンターの中から、凛とした、それでいてどこか尊大な声が響く。スパイス・クイーンことエリカだ。
「お、少し貰おうかな」
とヴォルフガングが応じ、
「あらまぁ、どうしましょう……また食べ過ぎちゃうわ」
とジャニスが頬を染める。
ラルフは寝ぼけ眼のまま、空いている席に腰を下ろした。
「あ、お兄ちゃん、おはよう! 何にする?」
「あー……白飯に、味噌汁をぶっかけて食いたい」
「はーい!」
「ちょっと、カレーにしないの!? カレーに!」
カウンターの向こうから、エリカの鋭いセールストークが飛んでくる。
「ラルフ・ドーソン! 昨日から仕込んでおいた胡瓜のキムチがある。これもどうだ!」
オルティの提案に、ラルフは「あー、貰うわ……」と力なく応じた。
ふと、彼は左隣に視線をやる。
「モグモグ……。ふーむ、今日のメンツは……ちと渋いわねぇ」
そこには、競馬新聞を広げ、一心不乱にカレーライスを貪る少女がいた。黄金の螺旋を描くドリルツインテールが、咀嚼に合わせて揺れている。
相変わらず騒がしい朝だ。
ラルフはそう結論づけようとして――決定的な、そして強烈な違和感に思考を停止させた。
「はい! お兄ちゃん、お待たせ!」
ハルが運んできてくれた御膳。ラルフは「ありがとうな」と、彼女の柔らかな髪を撫で、作法も何もなく味噌汁を白飯へと豪快に注ぎ込んだ。
その時だ。
「ほら、これがあたしの自信作。豚骨ベースのカレールゥよ。ご飯が進むわよ」
カウンターの中から現れたツインテールの少女、エリカが、小鉢をラルフの目の前に置いた。
ラルフはズルズルとそのズボラ飯をかき込みながら、再び左隣を見た。
「ムシャムシャ……。むー、ダート、左回り。……あー、この血統じゃあ脆いわ。最後に垂れるわね」
そこにも、金髪ドリルツインテール。
そして、カウンターから出てきたエリカを仰ぎ見る。
そこにも、金属性の光沢すら放つ金髪ドリルツインテール。
「……なによ、なんか文句ある?」
トレーを小脇に抱え、不遜な笑みを浮かべるエリカ。
ラルフは、自分の脳が昨晩の酒で修復不可能なダメージを受けたのか、あるいは悪質な幻覚魔法の中にいるのかと首を傾げた。
そして、茶碗を静かに置き、喉元まで出かかっていた、恐ろしい疑問を形にする。
「……なあ。なんで……なんで、"エリカが二人いるんだ?"」
その瞬間、食堂の時間が物理的に凍りついたかのように、全員が静止した。
「え?」
「……え?」
エリカとエリカが、間抜けな声を漏らして顔を見合わせる。
そして――。
「ハァァァァァァァ!? ちょっと、あんた誰よ! 何あたしの真似してんのよ!」
「あんたこそ誰よ!? あたしそのまんまじゃない!」
食堂に落雷が落ちたかのような絶叫が重なった。
ラルフは猛烈な頭痛に襲われ、額を押さえた。
またしても、厄介事の神様がこの領主館でダンスをおっ始めたことを確信したからだ。
「なんなのよ!? 誰の悪戯よ、これぇぇ!」
「変装してるのはあんたでしょ! この、このこのぅ!」
二人のエリカは、もはや鏡像のような動きで取っ組み合いを始める始末。
ただでさえ騒々しい「チンチクリンメスガキ」が、一夜明けて二倍に増殖したのだ。
その騒がしさは、折り紙付き。どころか、千羽鶴級の五月蝿さである。
「というかさ……。誰一人として、今の今まで気が付かなかったのかよ……」
ラルフが呆れ果てて周囲を見渡すと、父ヴォルフガングは、
「ん? まあ、そういうもんかなぁ、くらいにしか思わなかったぞ」
と、天然を極めたような顔で笑っている。
母に至っては、
「フフフ……なんだか、大家族みたいで。楽しいなぁ~って!」
平和主義が暴走したのか、あるいはすべてを理解した上でこのカオスを愛でていたのか、慈愛に満ちた笑みを浮かべている。
オルティはと言えば、
「あ? やはり……そうだったのか。私も不思議だとは思っていたのだが、皆様が平然とされていたので……もしかして、双子なのかなぁ〜と」
正常性バイアスという名の呪縛にかかっていたらしい。
ミンネとハルは、
「また、お兄ちゃんの魔法なのかなぁ、って……」
「うん。またなにか新しい遊びなのかな〜って」
と、大魔導士であるラルフの能力に過剰な信頼を寄せていた。
「おい、エリカ!」
「「なによ!?」」
「お前、まさか隠し子とか双子とか、そういうオチじゃないだろうな?」
「知らないわよ!」
「聞いたことないわよ!」
プリプリと怒りながら、驚異的なシンクロ率で金髪ドリルを振り回す二人。
「まあ、確かに。デューゼンバーグ伯爵やリネアさんから、そんな話は一度も……。だが念のため、確認はしとくか」
ラルフが思考を巡らせる間も、二人のエリカは、
「この! この! このっ!」
「えい、えい!」
とポコポコ殴り合っている。
その光景は、端から見れば奇妙なほどに微笑ましくもあるのだが。
「ほらぁ~。二人とも、喧嘩はダメよ……仲良くしなさいな」
ジャニスが、歌うような声音で二人をなだめる。
「偽物となんて仲良くなんてできるわけないでしょー!」
「そうよ! こいつが偽物よ!」
「《仲良く……ね!》」
「「は……はいっ!」」
魔女ジャニスの「言霊」が発動し、逆らえぬ絶対的な圧力が二人を屈服させた。
「とりあえず! 朝ごはんを食べましょう! みんなで仲良く。ね?」
有無を言わせぬ母の提案に、ラルフも「……まあ、そうだな」と頷くしかない。
腹が減ってはなんとやら……。
この不可解な魔導現象、あるいは超自然現象を解明するにも、まずはエネルギーが必要だ。
すると、ヴォルフガングが、
「くっくっくっ……。今夜の居酒屋は、一段と楽しくなりそうだな」
と、火に油を注ぐような愉快犯的発言を口にする。
ラルフは深い、あまりに深い溜息を吐き出した。
間違いなく、居酒屋領主館に集う酒好きたちが、この「エリカ二倍界王拳」とも呼ぶべき珍事を放っておくはずがない。今夜の喧騒が、すでに幻聴として耳に響くようだ。
ふと見ると、隣同士で座り、仲良く(?)カレーを頬張る二人のエリカの姿があった。
「ちょっと、あんた、そこのソース取りなさいよ」
「あたしに命令すんじゃないわよ! ……はいな」
「ふん! これがオススメの味変よ!」
「ふん! あたしにもちょうだいよ!」
意外にも波長が合っているらしいその光景を眺めながら、ラルフは薄っすらとした、しかし確かな恐怖を覚えた。
万が一、このまま二人のエリカが定着し、将来にわたってドーソン家で面倒を見ることになったら――。
その時は、この世界の終わりよりも、自分自身の胃に穴が空く方が先だろう。そう確信しながら、ラルフは二倍になったツインテールの輝きから目を逸らすように、ズボラ飯を再び口に運んだ。




