399.One more time
ラルフは、吸い寄せられるように外へと足を踏み出した。
眩い陽光に目を細め、どこか遠くを見つめるような仕草で、彼は静かに独りごちた。
「春か……」
午前中の山のような書類仕事を、一片のミスもなく完璧に片付けたという達成感。
アンナが丁寧に淹れてくれた芳醇な茶の余韻。肌を撫でる風は、冬の刺すような鋭さを失い、確かな季節の移ろい――すなわち「情緒」という名の贅沢をラルフに予感させていた。
だが、その繊細な情緒は、無慈悲な風切り音によって文字通り叩き潰されることとなる。
――ヒュゥゥゥゥゥッ!
空気を切り裂く高音に続き、大地を揺るがす轟音が鼓膜を打った。
――ドォォォォォォォン!
ラルフの鼻先、わずか数メートルの前庭に、それは横たわっていた。
巨躯を誇る水棲の暴君、モササウルスである。
ラルフは大きく目を見開き、溢れ出る冷や汗を拭うのも忘れ、静かな感動に震えていた。
(え、ええぇぇぇ……!? い、いるのかよ? この世界に!?)
図鑑の挿絵か、あるいは前世のスクリーンの中でしか拝めなかった伝説の恐竜が、今、目の前で砂埃を上げている。
観察に没頭しようとする彼の耳に、今度は「ペット」の勝ち誇ったような咆哮が届いた。
「グギャァァァァァァァ!」
愛すべきペット、ワイバーンのレッドフォードが、主人の驚きを「称賛」と勘違いしたのか、翼を広げてこれ以上ないほど得意げに喉を鳴らしている。
しかし、ラルフの心境は複雑極まりなかった。
憧れの恐竜を前にした興奮と、先ほどまで慈しんでいた「春の情緒」との間に、あまりにも修復不可能なレベルの解離が生じていたからだ。
(……これ、食えるのか? それ以前にどう捌くんだ?)
解体に関しては、冒険者ギルドのヒューズか、あるいは馴染みの肉屋アントニオに泣きつくしかないだろう。
ラルフは一度現実をシャットアウトするように目を閉じ、自分に言い聞かせるように再び呟いた。
「春、か……」
――ドォォォォォォォン!
二度目の衝撃。デジャヴにしては重すぎるその音の主は、灰色の肌を持つ別のワイバーンだった。
レッドフォードに負けじと、ゲータースキンが、その献上品をモササウルスの隣へ丁寧に(物理的には豪快に)並べたのである。
ラルフは今度こそ顔を青ざめさせ、その新種の死骸を覗き込んだ。
(な、なんだ、この生物は……生理的に受け付けないぞ……)
ヌメリを帯びた黄色の肌、凶悪な牙がはみ出した口元からは二本の触手が伸び、中央には巨大な単眼が据えられている。前世の知識を総動員しても分類不能な、魔導進化の悪意を煮詰めたような存在。
大気に満ちる魔素の影響とはいえ、この世界の多様性は少々やりすぎではないだろうか?
「……誰かに丸投げしよう。うん、そうしよう」
頭痛を覚え始めたラルフは、思考を放棄した。
もしこれが「食用可」と判定されれば、いずれ自分が営む『居酒屋領主館』の厨房に運び込まれることは火を見るより明らかだったが、彼は全力でその未来から逃避し、裏庭へと回った。
そこには、さらなるカオスが待ち受けていた。
「うーん、あったか~い……いい匂い……幸せ……」
芝生の上で悦びに浸っているのは、実母ジャニス・ドーソンであった。
彼女が顔を埋めているのは、ヴィヴィアンの従魔であるシャギーだ。
前世でいうところのサイベリアンのような、見事な毛並みを持つオオヤマネコの魔獣である。
ジャニスは至福の表情で「すーはー、すーはー」と、禁断の野生の香りを肺いっぱいに吸い込んでいる。
「ニャ、ニャオン……(た、助けてくれ……)」
シャギーが悲痛な眼差しで救いを求めてきたが、ラルフは無言で踵を返した。
見なかった。
今の光景は、春の陽光が見せた幻覚だ。
そうして迷走を続けた末、ラルフはある欠落に気づく。
日本人にとって、春の情緒を完成させるために不可欠なピース。
それは「桜」だ。
この世界ではまだお目にかかれていないが、彼には手札があった。
裏庭にそびえ立つ、願いと魔力を糧にする謎の巨木――『リグドラシル』である。
見上げれば、その枝には現在進行形で住民たちの欲望が実っていた。キュウリ、メロン、葡萄、茄子、そして何故か大根。もはや植物学の法則など木っ端微塵だ。
さらに樹上のツリーハウスからは、
「グゴガァァァァァァ、グゴ、スピー……ギシギシギシ……」
という、凄まじい「いびき」と「歯ぎしり」が降ってくる。
エルフのユロゥウェルが、また質の低い二日酔いの眠りに沈んでいるらしい。
「情緒もないが、……贅沢はいってらんないか……。そりゃあ! 謎の木に花を咲かせましょう〜♪ ってか!」
半分やけくそになったラルフがリグドラシルの幹に両手を添えると、彼の左目に爆発的な魔力光が宿った。
その瞬間。
――ポン! ポポポポポン!
軽快な破裂音と共に、枝という枝から淡いピンク色の花弁が溢れ出した。
刹那の間に満開となった桜が、異世界の庭を幻想的な色彩で塗り替えていく。
ラルフの脳裏に、かつて聞いた詩的なフレーズがよぎった。
(桜の花の落ちるスピード、秒速5センチメートル、なんだってよ……)
郷愁に胸を締め付けられたのも束の間、彼は「能書きより実益」とばかりに厨房へ駆け込んだ。
取り出したのは、鈍く輝く竜漆器の弁当箱。
調理を開始する。
珍しく、手の込んだ料理だ。
甘すぎず、かつ出汁の効いた黄金色の玉子焼。
切れ込みを入れたタコさんウインナー。
バターの香りが食欲をそそるほうれん草の炒め物。
小ぶりながら脂の乗った鮭の切り身。
そして、炊きたての白飯の中央には、一粒の梅干し。
黒胡麻のコントラストが美しい、渾身の「幕の内弁当」である。
再び裏庭へ。
ラルフは一人、桜の下に胡座をかいた。
「……いただきます」
静かに箸を運び、玉子焼を口にする。
絶妙な塩梅。
これこそが、彼が求めていた安らぎの味だ。
頭上では、魔導の桜がハラハラと舞い散っている。一枚の花弁がラルフの前髪にふわりと着地した。
それを指先で摘まみ上げ、彼は空を仰ぐ。
「グガッ、ガッ、ガッ……ピィィィィィィィ!」
上空から降り注ぐのは、情緒を根底から覆すエルフの豪快な寝息。
視線を横にやれば。
「スゥゥゥゥ、ムニャムニャ……モフモフ……」
巨大な山猫を抱きしめたまま、夢心地で微睡む母。
領主館の表からは、
「なんだこれぇ?! これ、今夜のサービスメニューかなぁ?」
「いや、待てよ! これ、変異種とかそういうことじゃねーだろ! 絶対に新種だろ?! 学者を呼べ!」
通りかかった冒険者達の絶叫が聞こえる。
ラルフは、少し冷めたタコさんウインナーを口に放り込み、咀嚼した。
満開の桜。
手の込んだ弁当。
うららかな春の午後。
条件は完璧に揃っているはずなのに、何かが、決定的に「違う」気がしてならない。
(……あれ!? なんか違うんだよなー! 僕が求めていた花見、これじゃない!)
静寂と混沌が同居する異世界の春。
独りよがりの情緒が、この地に渦巻く制御不能な欲望によって、かき乱されていく。
あまりにも、騒がしすぎる――。
その発端は、誰か?
まあ、考えるまでもないが。
ラルフは知ってか知らずか、目を背け続けることにした。
「まあ、これはこれで、美味いけどさ。ムシャムシャ……」




