398.ミンネとハルのお弁当
朝日が窓辺を白く染め上げる頃、ラルフは珍しく、意識の浮上と共にシーツを跳ね除けた。
昨夜、開店時間を大幅に前倒しした煽りを受け、店主である彼自身が真っ先に酒精の海へと沈没した結果である。
つまり、自業自得という名の早起きだ。
大きく伸びをしながら、まだ静寂の残る一階の厨房へと降りていくと、そこには柔らかな朝の光に包まれた二人の少女の姿があった。
「ご飯炊けたよー!」
「やっぱり、セスくんのところのお米は炊きたての匂いが最高だねぇ」
ミンネとハルが、鼻歌混じりに楽しげにお弁当の準備に勤しんでいる。
彼女たちの手元にあるのは、先日木工職人のヘンリーに発注した特注品。
芸術的な細工が施された、高級感溢れるお弁当箱だ。
これまでも簡易的な試作品はあった。だが、木材に汁気が染み込んだり、料理の熱で無惨に変形してしまったりと、実用には程遠い「使い捨て」の域を出ない代物だったのだ。
しかし、ここロートシュタインに、またしても魔導的革命が吹き荒れた。
その名も――"竜漆器"。
ラルフの元同級生である錬金薬学の研究者アルフレッドと、職人ヘンリーの共同研究によって産み落とされたそれは、ワイバーンの唾液と特殊な樹脂を配合することで、魔導反応による驚異的な速乾性と堅牢さを実現したという。
(ワイバーンの、唾液……)
ラルフの脳裏に、あの凶暴な飛竜の粘つく口内が過り、一瞬だけ食欲の減退を覚えたが、この世界の住人たちは謎に、全く意に介していない様子だった。
「あ! お兄ちゃん、おはよう!」
ミンネがぱっと顔を輝かせて振り返る。
「お兄ちゃんもお弁当、詰める? 一緒に作る?」
獣人特有の愛らしい猫耳をぴこぴこと揺らし、ハルが期待の眼差しを向けてきた。
「いや、僕は今日、特に出掛ける予定はないからね」
「えー、お部屋で食べる時も、お弁当箱にすればいいのに。楽しいよ?」
ミンネの無邪気な提案に、ラルフは思わず苦笑した。
どうやら彼女たちにとって、お弁当とは「出先で食べるもの」という固定観念ではなく、「特別な箱に詰める、ワクワクする食事」という認識らしい。
二人は宝物を扱うような手つきで、新品の竜漆器に向き合っている。
「何か手伝おうか?」と声をかけてみたが、「大丈夫! 今日は自分たちの力で完成させたいの!」と丁重に、かつ断固として断られてしまった。
まだ幼い二人だが、前世の日本にいた同年代の子供たちに比べれば、その自立心は驚くほど旺盛だ。
過酷な世界が彼女たちを早く大人にさせたのかもしれない。
(……それはそれで、もう少し甘えてくれてもいいのになぁ)
独り立ちしていく娘を見守る父親のような、ほんのりとした寂しさがラルフの胸を掠める。
二人の瞳は、これから孤児院の畑へ向かい、青空の下でお弁当を広げる瞬間への期待で、キラキラと輝いていた。
ラルフは堪らず、その制作過程を覗き込んだ。
「……で、どんなお弁当にしたんだ?」
彼の脳裏には、前世で親しんだ彩り豊かな光景が広がっていた。
タコさんウインナー、黄金色の玉子焼き、真っ赤なミニトマトに、彩りのブロッコリー。それらがパズルのように美しく配置された、愛らしい「キャラ弁」的な何かを。
だが、現実はラルフの想像を遥かに超越していた。
「私はね、これ!」
ミンネが自信満々に差し出した箱を見て、ラルフは絶句した。
そこには、隙間なく敷き詰められた真っ白な白飯の絨毯の上に、こんがりと焼き上げられた巨大な鮭の切り身が一枚、ドォォォォン! と鎮座していた。
「ミ、ミンネちゃんや……? こ、これは、その……」
「なんでも好きなものを詰めていいって言われたから! ご飯が一番進む、最高の組み合わせにしてみたの!」
満面の笑みで言い放つ彼女に、悪気は微塵もない。
(確かに……。これは米をいかに効率よく貪り尽くすかという、一点突破型の戦術……!)
「私はね、こっち!」
続いてハルが見せびらかしてきたのは、またしても洗練された一点突破弁当だった。
白飯の上に、二玉のベーコンエッグが重なり、その上から無造作に醤油がドバァー! と回し掛けられている。
「……お、おう」
ラルフは引き攣った笑顔を浮かべるのが精一杯だった。
よくよく考えれば当然だ。
前世の日本で何十年、何百年と培われてきた「お弁当文化」という様式美を、説明もなしに彼女たちが自力で発明しろという方が無理難題なのだ。
勝手に期待し、勝手に期待外れを感じている自分こそが悪いのだとラルフは自戒した。
自由に詰めろと言われれば、好きなものを、好きなだけ、ご飯の上に乗せる。
それはあまりにも純粋で、抗い難い生存本能の結果に他ならない。
(……まあ、茶色いものは美味いっていうのは、世界の真理だしな)
二人が作り上げた「茶色いポテンシャルの塊」を否定することなど、誰ができようか。
「う、うん! 二人とも、すごいぞ! これは美味そうだなっ!」
努めて明るい声で褒め、二人の頭を優しく撫でてやると、彼女たちは心底嬉しそうに顔を綻ばせた。
「本当っ! じゃあ、お兄ちゃん! 今日のお昼は、私たちが特別にお兄ちゃんの分も作ってあげるね!」
「…………ぇ」
凍りつくラルフを置き去りにして、ハルがぴょんぴょんと跳ねる。
「そうだね! いつも美味しいものを作ってくれるお兄ちゃんに、恩返しだよ! 任せて!」
ラルフは声にならない叫びを飲み込んだまま、笑顔で固まるしかなかった。
二人は再び、「あーでもない、こーでもない」と、ラルフ用の少し大きな竜漆器を囲んで、賑やかな作戦会議を始めてしまった。
――数時間後。
午前中の山積みの書類仕事を終え、疲労困憊のラルフが執務机に向かうと、そこには一つの重厚なお弁当箱が置かれていた。
「あら? ……美味しそうじゃありませんか」
背後に控えていたメイドのアンナが、無表情ながらも、どこか面白がるような声音で囁いた。
ラルフの頬を、一筋の冷や汗が伝う。
彼は極めて厳粛な面持ちで、孤児二人の最大級の善意と無邪気が凝縮された「結晶」を見つめた。
蓋を開けた瞬間、暴力的なまでの香りが鼻腔を突いた。
そこには、白飯の上に鎮座する、威風堂々としたオーク・ステーキがドォォォォン! と横たわっていた。
もはや、視覚より先に嗅覚が叫んでいる。
焦がしニンニク醤油という、全人類を屈服させるタレの暴威――。
「い、いただきます……」
ラルフは箸を手に取り、神に祈りを捧げるような敬虔な仕草で一口目を運んだ。
「私は……下で、賄いを頂いてまいりますね」
アンナはそれを見届けると、静かにドアを閉めて去っていった。
ラルフは、その暴力的なまでに分厚いオークステーキを箸で持ち上げ、豪快に齧り付いた。
そして、タレの染みた白飯を一口。
「ちくしょう、ちくしょう! ……うめぇ……、あー! 美味いよォォォォォォォォ……っ!」
猛然と飯をかき込む。
胃袋にガツンと響く脂の旨味と、ニンニクの刺激。
幼い二人の選択は、何一つ間違ってはいない。
そう、間違っていない。
決して、間違っていない!
絶対に、間違ってはいないのだ!!
美味しさこそが正義であるならば、これは間違いなく至高の正解なのだ。
――しかし。
でも、なんか違うんだよなぁぁぁぁぁ!
茶色の暴力に屈しガツガツと、ステーキ&白飯という、ハードコア弁当を貪り食いながらも、心の中に、「彩り」への未練を捨てきれないラルフであった。




