397.四角革命
緩やかに伸び始めた日の長さに、季節の確かな移ろいを感じる夕暮れ時。
ラルフは、暖簾を無造作に手に取ると、ガラガラと小気味よい音を立てて硝子戸を引き開けた。
そして、肺腑の底に溜まった澱を吐き出すかのような、重厚なため息を一つ。
「ハァぁぁぁ〜……」
その視線の先には、もはや恒例行事となった光景があった。
開店を今か今かと待ちわびる行列。
そこに並ぶ人々が見せる、静かでありながらも逃れようのない圧を孕んだ「満面の笑み」である。
「……今日は早めに開ける。もう、入っていいぞ」
ラルフが観念したように呟くや否や、静寂は爆喜した。
「ヒャッハー! 一番乗りぃぃ! 今夜の勝利の美酒は私のものだわ!」
銀光を散らす鎧も軽やかに、女騎士ミラ・カーライルが小躍りせんばかりの勢いで店内に滑り込む。
「流石はラルフ様、心得ていらっしゃる〜!」
「お姉ちゃん、早く早く! いつもの特等席、取られちゃう!」
賑やかな聖女姉妹も、ラルフの横を風のようにすり抜けていく。
「おいラルフ! 新作のツマミがあるなら出し惜しみは許さんぞ! 隠匿は万死に値する、いいな、極刑だぞ!」
さらには、この国の頂点に君臨する国王陛下――この場ではただの『ヴラドおじさん』――が、王者の威厳を台無しにするような食い意地を張って怒鳴り込んできた。
瞬く間に、居酒屋領主館の客席はいつもの喧騒と熱気で埋め尽くされる。
実のところ、ラルフが営むこの店に厳密な開店時間は存在しない。店主であるラルフの気まぐれ一つで、こうして「フライングオープン」が平然と行われるのも、今やロートシュタインの日常であった。
「いらっしゃいませーっ!」
「冒険者の皆さん、今日もいつものビールでいいですかー!?」
孤児院の子供たちが元気な声を響かせながら、戦場のような店内を縦横無尽に駆け回りオーダーを取る。
ラルフもまた、自身の聖域であるカウンターの内側に立ち、鋭い眼光で店内を一瞥した。
愛用の三徳包丁を取り出し、その刃先を親指の爪に軽く立てる。刃が滑らず、わずかに食い込む感触。切れ味に曇りはない。
これから厨房は間違いなく地獄と化す。
どいつもこいつも、店主の苦労など知ったことかとばかりに、お気に入りの一品――いや、二品、三品と、際限なく注文を叩きつけてくるのだ。
ふと、ラルフは背後に控える「新人たち」を振り返った。
「よーし、新入りのガキども。そう固くなるな。初日なんだから、まずは流れを見てるだけでいい。……まあ、できそうなことがありゃ、迷わず手伝え!」
「は、はいっ! よろしくお願いします!」
彼らは、あの荒野の難民キャンプから攫って……もとい、買い叩いて……いや失礼、誠心誠意スカウトしてきた少年少女たちだ。
十代前半という多感な時期の彼らは、突然放り込まれた異国の厨房の、その異常な熱気に身を固くしていた。
すると、金髪のツインテールを傲慢に揺らし、一人の少女が悠然と現れた。
「そんなに肩肘張らなくていいわよ。どうせここの客なんて、すぐに酔っ払ってグデングデンになるんだから。適当にあしらいなさい! テキトーに!」
エリカは先輩店員として、あまりに身も蓋もない、しかし核心を突いた真理を言い放った。
ラルフは何か言い返そうとしたが、目の前の光景を見る限り、否定も反論もできない自分に気づき、静かに溜息をつくしかなかった。
その時、ラルフの目の前のカウンター席に、一人の紳士が腰を下ろした。
「やあ、ラルフ様。何か、オススメの火酒はありますかな?」
「ああ、これは。いらっしゃいませ、ヘンリーさん」
そこにいたのは、吟遊詩人ソニアの父であり、腕利きの木工職人であるヘンリーだった。
職人特有の無骨さは影を潜め、鼻の下に整えられた髭が知的な印象を与える。どこか貴族的な気品さえ漂わせる、この店では希少な「静」を纏う男だ。
「今日は、ソニアは一緒じゃないんですか?」
「やれやれ、あの子は今夜もラジオの収録だそうだ。……演奏の腕は認めるが、あの子のあの壊滅的な口下手は、親として聞いていて顔から火が出るよ」
「ハッハッハー! わかるぅー! でも、謎にあれが評判で、絶大な人気らしいですよ!」
そんな和やかな会話を交わしながら、ラルフは聖女たちが精魂込めて(謎の踊りで)蒸留した酒を、完璧な比率の水割で差し出した。
「ラルフ様は、何か飲まれないのですかな?」
「んー、そうですね。少し早い気もしますが、まあ、景気づけに一杯くらいなら……いいか!」
手際よく自分用のハイボールを作り上げると、琥珀色の液体の中で氷が涼やかな音を立てる。
「では。新たな住民の門出と、今夜の喧騒に――乾杯!」
「乾杯!」
グラスが触れ合い、清冽な音が店内に響いた。
一杯目の酒が客たちの手に行き渡るにつれ、会話の温度はさらに上がっていく。
「いやぁ、これだけの労働力があれば、いよいよエストルンドへの進出も現実味を帯びてきたわね!」
「正直、もうアタイらだけじゃ無理だった⋯⋯」
「王都の二号店にも、有能なマネージャーを配置したいっすよね〜」
野心を隠さないポンコツ三人娘の鼻息は荒い。
「フッフッフ! これで私のスナックも開店準備完了ね。皆、ようこそロートシュタインへ! 今日は歓迎会よ! 遠慮はいらないわ、好きなだけ飲んで食べなさい!」
リネア・デューゼンバーグは、自ら引き連れてきた新入り従業員たちを前に、優雅に笑っていた。
「あ、あのぅ……。なんか、もの凄く高貴な雰囲気の方々がいらっしゃるみたいですが、本当に私たちのような者が入ってもいいお店なんですか……ここ?」
難民の女性が、恐縮しきった様子で店内をキョロキョロと見渡している。無理もない、一国の王と難民が同じ屋根の下で酒を呷っているのだ。
「大丈夫よ! この店のオーナーであるラルフ公爵曰く、ここは『選ばれし者たちの社交場』……ではなくて、『下賤な酒場』なんですって!」
「え、えぇ……」
話題の中心は、もっぱら亡国の難民という「新たな風」を受け入れた経営者たちの熱狂だ。
地続きの大陸、共通の言語、似通った文化的背景。
彼らがこの王国に馴染むのに、そう時間はかからないだろうとラルフは楽観していた。
しかし、そんな文化的背景など力技で飛び越えてしまうのが、食の魔力である。
「えっ!? う、美味ッ! え、何これ!? ギョーザ? パリッとしてるのに中がジュワッて……え、美味ァぁぁぁ!」
未知の料理との邂逅にパニックに陥り、狂喜乱舞する狩人の男。
「うがぁ〜! もう動けねぇ! く、苦しい……! 腹いっぱいになると、苦しくなるなんて、俺、知らなかったぞー!」
まるで妊婦のように膨らんだ腹を抱え、床に仰向けになる少年。
どうやらエリカ特製のカレーライスに魂を奪われ、一気に数皿を貪り食った末路らしい。
それを見たエリカは、「ふんっ」と勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
その時、トレーを小脇に抱えて店内を闊歩していたエリカに、小さな男の子がトコトコと駆け寄ってきた。
マリアンヌ・ホテルに雇用された女性の連れ子のようだ。
少年は顔を真っ赤に染め、もじもじと指を弄りながら、小さな手を差し出した。
「あ、あのぅ……エ、エリカさん。その……カレーパン、すっごく美味しかったです。これ、よかったら……」
差し出されたのは、道端で摘んできたばかりのような、可憐なライラックの花。
十歳にも満たないであろう少年からの、あまりに純粋な贈り物。エリカは一瞬だけ驚きに目を見開いた後、
「……ありがとう。綺麗ね、あたしの部屋に飾らせてもらうわ」
驚くほど柔らかく、まるで春の陽光が弾けたような笑みを浮かべた。
少年の顔が、爆発したようにさらに赤く染まる。
「は、はひっ! そ、そ、その、また、また来ますっ!」
脱兎のごとく去っていく少年。
母親の胸に顔を埋める彼を、同じテーブルのマリアンヌや貴婦人たちが、楽しげなからかいの声で包み込んでいた。
その一連の光景を眺めていたラルフは、言葉にできない複雑な表情を浮かべ、思わずエリカの横顔を凝視してしまった。
「ふんっ、あたしに惚れるなんて、将来有望な坊やじゃない。見る目があるわ!」
不遜に、しかしどこか満足げに呟くエリカ。
ラルフは堪らず口を開いた。
「……そんなに嬉しいか? あんな子供に⋯⋯?」
「あら? まさかラルフ、嫉妬してるわけ? はぁ、困ったものねー。あたしの美貌と才能が、もはや罪。こうして、男たちを惑わせてしまうのね……」
悦に入り、陶酔の表情を浮かべるエリカ。
ラルフは、
(何言ってんだ、コイツ……)
と、呆れるしかなかった。
しかし⋯⋯。
この金髪ドリルツインテールの、ラルフがいつも「チンチクリンなメスガキ」と評している少女。
実年齢より幼く見えるが、その顔立ちは驚くほど整っている。
さらに、あれだけ大食いであるにもかかわらず、そのシルエットは驚くほどスラリとしていて、しなやかだ。
勝ち気な瞳と、太陽のような笑顔。
そこには、認めざるを得ない鮮烈な愛嬌が宿っている。
ラルフは「奴隷と主人」という関係性、そのあまりに近すぎる距離を共に過ごしすぎた。
さらには、彼女のキャラの濃さ――カレー狂い、競馬依存、打楽器奏者という、属性の渋滞と生来の騒々しさ。
そのせいで、彼女の本質に厚いフィルターがかかってしまっていたのだ。
そう考えながら、ラルフは改めてエリカを観察した。
今更ながら、改めて思えば。⋯⋯そう。
――現実が、見えてきた――。
確かに、美少女と言って差し支えない容姿だ。
だが、その視線に気づいたエリカが即座に反応した。
「なによッ!?」
ラルフが何か失礼なことを思考の海で泳がせているのを察知したのか、彼女の額にピキリと青筋が浮かぶ。
(……だが、一人の女性として意識できるかっちゅうと、やっぱり何かが致命的に違うな!)
ラルフは清々しいまでの確信と共に、ハイボールを流し込んだ。
「だから! 何よその顔!? 絶対に今、失礼なこと考えてたでしょ! このクソ領主!」
納得がいかないエリカが、ツインテールを激しく揺らしてプリプリと怒り出す。
そんな騒ぎを、ヘンリーが慈愛に満ちた目で見守っていた。
「はっはっはっ! 相変わらず、楽しい場所ですなぁ。⋯⋯ああ、そうそう。忘れないうちに、これを渡しておきましょう」
ヘンリーは足元に置いていた丁寧な包みを、カウンター越しにラルフへ手渡した。
「ん? あ! おお……これは! 凄い、本当に作ってくれたんですか?」
「ああ。構造自体はシンプルだったからね。ウチに来てくれた見習いたちにとっても、良い訓練になったよ」
ヘンリーの工房でも、技術の継承を兼ねて数人の難民を受け入れていたのだ。
ラルフは包みを開き、その中身を確認すると、大きく声を張り上げた。
「おーい! ミンネ、ハル! ちょっとこっち来い!」
忙しく動き回っていた二人の孤児が、不思議そうに駆け寄ってくる。
「はーい!」
「お兄ちゃん、なぁに?」
まるで双子のような二人。猫耳をピクピクと動かすハルと、期待に目を輝かせるミンネ。
「これ、お前たちへのプレゼントだ!」
「えっ、なにこれ! 綺麗な箱……」
「すごーい。これ、何でできてるの? ツヤツヤしてて、ピカピカだよ!」
四角く、継ぎ目さえ見当たらないほど精密な組木細工。深みのある茶褐色の塗料が塗られ、工芸品のような気品を放つそれは――。
「ヘンリーさんが特注で作ってくれたんだ。……それはな、『弁当箱』っていうんだぞ!」
ラルフは、誇らしげに胸を張った。
「べ、べんとー……?」
「うん! よくわからないけど……また、とっても美味しそうな予感がするよ、お兄ちゃん!」
二人は戸惑いながらも、その「器」が持つ可能性に鋭い直感を働かせた。
それは、新たな食文化の幕開け。
このロートシュタインから空高く立ち昇る、未知なる美味の狼煙であった。




