357.真の最強戦力
不吉な重力に引かれ、英雄が天から堕ちる。
その悪夢のような光景を網膜に焼き付けたヴィヴィアン・カスターは、自らの銀色の瞳を限界まで見開き、喉を裂かんばかりの悲鳴を上げた。
「ラルフゥゥゥゥゥゥゥゥッ!」
最強と謳われた魔導士が、あろうことか負傷し、無慈悲な地表へと向かって加速していく。その絶望的な放物線を、戦場にいたすべての者が、息を止めて見守ることしかできなかった。
しかし、左目を鮮血に染め、宙に投げ出されたラルフの魂は、まだ折れてはいなかった。
「《低級治癒》……ッ!」
震える右手を潰れた左目にかざす。迸る緑の光。瞬時に止血は成されたが、すぐに地表が眼前に迫る。浮遊魔法を展開するだけの魔素の練り込みも、時間の猶予もない。ならば、彼に残された道はただ一つ——。
「《低級治癒》《低級治癒》《低級治癒》《低級治癒》《低級治癒》……ッ!」
狂気とも取れる連続詠唱。激突の衝撃と再生を同時に行うという、人理を超えた荒行。
凄まじい轟音と共にラルフの身体が草原を跳ね、転がる。骨が砕ける不快な音が響き、内臓が破裂し、致命的な損傷が刻まれるたびに、彼はそれを力技で「なかったこと」に書き換えていく。
「痛っ! クソっ! 《低級治癒》!」
やがて土煙が静まり、ラルフは大の字になって天を仰いだ。
「この、バカがぁぁぁぁぁぁ!」
戦場の上空、レッドフォードに吊るされた戦車の中で、エリカが咆哮した。その怒りは不意を突かれたラルフへの叱咤か、卑劣な一撃を見舞ったコール・ディッキンソンへの憎悪か。あるいは、ただ見守ることしかできなかった己の無力感への叫びか。
その激情に呼応するように、レッドフォードが咆哮を上げた。
「グギャァァァァァァァァァ!!」
主を傷つけられた従龍の逆鱗。巨大な顎に、星の煌めきにも似た超高密度のエネルギーが収束していく。
――"ドラゴン・ブレス"。
激怒の砲火が放たれる。だが、対峙する重装ワイバーン、ゲータースキンもまた、同等の熱線を吐き出した。
「ギィィィィィァァァァァァ!」
二つの太陽が衝突したかのような閃光が戦場を支配し、大気を爆ぜさせ、光の粒子を撒き散らす。
「うわっ! ちょっ、レッドフォード! 戻りなさい! ラルフが……ラルフが下に!」
爆風に煽られ、戦車にしがみつきながらエリカが叫ぶ。
レッドフォードは巨大な翼をしならせ、猛烈な勢いで反転。地上へと急降下した。
着陸の衝撃を待たず、エリカは戦車から飛び降りた。
そこには、ヴィヴィアンの膝に上半身を預け、介抱されるラルフの姿があった。周囲にはミラや国王、そして彼を慕う人々も多く集まっていた。
「ラルフ! 大丈夫なの!?」
人混みをかき分け、エリカがその顔を覗き込む。
「いやぁ……くそ……。昔のアイツなら、あんな不意打ちは……好まなかったはず、なんだけどな。完全に、僕の……油断だ……」
いつもの軽薄な笑みを浮かべようとしているが、その声には力がない。立ち上がることすら叶わぬその姿は、彼らがこれまで見てきた「無敵の大魔導士」とはかけ離れていた。
「ラルフ、目は……目は大丈夫なのか……!?」
ヴィヴィアンの声が震える。だが、ラルフがゆっくりと手を退けると、そこには無惨に切り裂かれ、光を失った左目があった。
「う……、うぅ……、ラルフ、お前は……。お前はぁぁぁぁ!!」
声を震わせ、ヴィヴィアンの双眸からは、とめどなく涙が溢れ出した。
大魔導士の治癒魔法をもってしても、再生の限界を超えた欠損。
「ハッハッハ……泣くなよ、ヴィヴィアン……。ちょうど、片目での生活に……慣れてきた、ところだったんだ……」
震える右手で彼女の濡れた頬を撫で、ラルフは微笑む。その痛々しいほどの強がりが、周囲の悲痛をいっそう深めた。
だが、戦場に感傷に浸る時間は与えられない。
「おい……あのバケモノ、また起き上がりやがったぞ!」
誰かの悲鳴が上がった。
立ち込める煙の向こう側。狂気の眼光を宿したゲータースキンが、その巨躯を震わせて立ち上がろうともがく。
すると、
「今よ! やっちゃって!」
突如、ゲータースキンの足元を蜘蛛型の装甲戦車が疾走した。
ダンジョン・マスター、スズが操る鋼鉄の脚が、無軌道な軌跡を描きながら粘着質の糸を吐き出す。魔鉱デグスの糸が、亜竜の四肢を雁字搦めに拘束した。
そこへ、レッドフォードの渾身のブレスが直撃する。
大気を震わせる爆音。大地がめくれ上がり、礫と土埃が視界を奪う。
勝負は決した——誰もがそう確信した。
だが。
「ギィィィィィァァァァァァ!」
「くっ、私の、新型さえ完成していれば、あんな奴!」
と、ゲータースキンの攻撃範囲から離脱しながら、スズは歯噛みした。
地を揺らす足音と共に、灰色の影が歩みを進める。爆煙を割って現れたゲータースキンは、その強固な装甲に傷一つ負っていなかった。
「……ちっ、やはりあの装甲が厄介すぎる! 魔法の火力が通らねぇ!」
ギルドマスターのヒューズが苦々しく吐き捨てる。
「ならば、叩き伏せるまでよ……」
聖剣:ユグドラシアを担ぎ、クランク・ハーディが前進した。
「騎士団っ! 儂に続けっ!」
「おうっ!」
カーライル騎士爵の号令と共に騎士団が盾を並べ、槍を構える。
「魔獣退治は冒険者の得意とするところだ。そうだろっ? お前ら!」
「おうっ!」
冒険者たちも、死を覚悟した眼光で得物を構える。
そこに漂うのは、あまりにも重苦しい悲壮感だ。
王国最強の盾と矛が崩れた今、自分たちが礎になるしかない。
恐らく、犠牲者は出る。
それは、自分かもしれない……。
誰もが、それを心に秘め、しかし。
愛すべきロートシュタインを、仲間たちを、奪われた日常を、奪い返すために。
誰もが一歩も引かぬ覚悟を決めた。
――その時だった。
街道をゆく〜♪
山脈を越えて〜♪
鳥たちは東〜へ〜♪
僕は街へぇぇぇぇ♪
戦場の喧騒を切り裂くように、風に乗って流れてきたのは、透明なガラス細工のような歌声だった。
古より歌い継がれる『旅人の歌』。
それは繊細でありながら、芯の通った強い意志を感じさせる調べ。
誰もが吟遊詩人のソニアを想起したが、この声には彼女よりもずっと幼く、同時に老成した不思議な響きがあった。
「誰だ……? ……あ、アレは……まさか!」
振り返り、国王が目を見開く。
街道の先から歩んでくる二人の人影。
ヒューズも振り返る。その喉が、歓喜と驚愕で鳴った。
「ヴォルフガング・ドーソン様ッ……!」
かつての領主にして、伝説の「剣聖」。彼が背負う大剣。その無骨なまでの実用美が伝説の威容を引き立てていた。
そして、その傍らで、ヒラリと箒に跨り、優雅に宙を舞った小柄な影。
「ヒラヒラと〜舞い落ちぃる〜♪ 花弁の影〜♪」
人々の頭上を、さやかに流れる水のように、歌声を響かせ、通り過ぎていく、魔導士。
彼女は流れるような魔導制御で、ラルフを囲む人集りの中心へと舞い降りた。
漆黒の髪、透き通るような白い肌、そして深淵を覗き込むかのような黒い瞳。少女のようにも、賢者のようにも見えるその人物は、横たわるラルフを一瞥し、盛大なため息を吐いた。
「はァ……ラルフったら。また無茶をしたのね? "お祭り"って聞いたけど。どうせまたはしゃぎ過ぎたんでしょう? もう、またそんな大怪我をして。本当に小さい頃から何も変わってないんだから……」
その呆れを含んだ慈愛の声。
エリカ、ヴィヴィアン、そして周囲の女性陣は、ある予感に突き動かされ、呆然と、目と口をパカーン! と開いた。
ラルフ以上の魔導制御技術。そして、
彼を、「小さい頃」から知る口ぶり。
「あ、あっら〜……。来ちゃったの? ハッハッハ……あー。母上、お久しぶりです……」
困り果てたように笑うラルフの言葉が、その予感を確定させた。
「若っ!? えええっ、ちょ、ちょ、ラルフのお母様!? えっ? ちょっ、何歳なのよ!?」
エリカがその場で足踏みをしてパニックに陥り、ミュリエルは、
「エルフなんかな? ん〜? いんやぁ、耳は長くねーみってだけど……」
興味津々で彼女の耳を確認しようとする。
「まさか、魔女様の不老不死の秘伝では?」
「よしっ! 後で私も魔法を習いに行こう!」
と、緊迫した戦場とは思えぬ囁きが女性陣の間で飛び交う。
「あら? 皆様お初にお目にかかります。私は、王国特級魔導士——称号は『魔女』。そしてラルフの母、ジャニス・ドーソンで〜す!」
茶目っ気たっぷりにピースサインを作ってみせる彼女の姿に、ラルフをよく知る面々は一様に天を仰いだ。
(あー……やっぱり親子だわ……)
という納得と、どこか清々しいまでの諦めが戦場に広がっていく。
そこへ、悠然と歩み寄ったヴォルフガングが、愛用の大剣を地面に突き立てた。
彼は、咆哮するゲータースキンを不敵な笑みで品定めするように見据える。
「ほう、久しぶりに楽しめそうな獲物じゃないか! なんだラルフ、"祭り"とは聞いていたが、俺の為にこんな景気のいい催しを用意して待っていたのか? なかなか親孝行ではないか。感心感心……」
その「最強の夫婦」が並び立つ光景を見つめ、国王は凶悪な笑みを浮かべた。背筋を伝う冷たい汗は、もはや恐怖ではなく、これから始まる圧倒的な蹂躙への予感だった。
「フッ……フフフ。まさかの……剣聖と魔女の帰還だ。この王国の、いや、……"人類最強の番"が、この祭りに参加したぞ……!」
戦場の空気は一変した。
絶望は霧散し、伝説という名の嵐が吹き荒れようとしていた。




