358.最強の夫婦
剣聖ヴォルフガング・ドーソンの背中は、見る者に絶対的なまでの「静寂」を感じさせた。
身の丈ほどもある無骨な大剣を、事も無げに片手で持ち上げ、肩に預ける。
彼は一歩、また一歩と、死の舞踏を踊るかのような足取りで歩を進める。
対峙するのは、巨躯を誇るワイバーンの変異種――ゲータースキン。
カドス兵の手によって施された禍々しい鋼鉄の装甲が、陽光を撥ね返して鈍く光る。その姿はまさに移動要塞であった。
「ギィィィィィァァァァァァ!」
鼓膜を震わせるほどの大咆哮。
ゲータースキンにとって、目の前の人間はあまりに矮小だった。
羽虫を叩き潰すような、そんな些末な殺戮で終わるはずだった。
だが、ヴォルフガングは止まらない。
不敵な笑みを深く刻み、獲物を前にした子供のような無邪気な瞳で、さらに距離を詰める。
「さーて。こんだけ観客がいるんだ。一瞬で終わらせちゃあ、興を削ぐってもんだよな……」
独り言のように紡がれたその言葉は、戦場を支配する冷徹な宣告だった。
ゲータースキンの野生が、初めて警鐘を鳴らした。
目の前の男から放たれる圧倒的なプレッシャー。それは「強者」という枠を超え、生命そのものの格の違いを示していた。
だが、野生の掟は単純だ。「巨躯こそが強さ」。
自分を噛み砕けるほどの牙を持つ者はいない。
自分を貫けるほどの力を持つ者はいない。
その確信とともに、ゲータースキンは地を蹴った。
巻き上がる土煙。
巨大な顎が開き、ヴォルフガングの五体を容易く粉砕せんと食らいつく!
――ガキィィィィィィィン!
鼓膜が悲鳴を上げるほどの硬質な金属音が、草原に響き渡った。
ゲータースキンが食らいついたのは、ヴォルフガングが盾のように掲げた大剣の腹だった。
比率で言えば、人間が爪楊枝を咥えているようなもの。本来ならそのまま押し潰されるはずの光景。
しかし。
「……おっと、こら重てぇな」
ヴォルフガングがわずかに膝を沈めた瞬間、信じられない光景が広がった。
ゲータースキンの巨大な脚が、宙に浮いたのだ。
「なっ……!?」
観衆の息が止まる。
気がつけば、ゲータースキンの視界では、天地が反転していた。
数トンはある巨躯が、投げ技を食らったかのように美しく円を描き、背中から地面へと叩きつけられる。
ドォォォォン!!
地響きと共に土埃が舞い上がる。ヴォルフガングは乱れた髪をかき上げ、相変わらずの余裕を崩さない。
「なんだお前、そんなに腹が減ってるのか? すまんが、俺は食い合わせが悪いぞ。……まあ、俺がお前を食うことはあってもな」
切っ先を突きつけ、楽しげに喉を鳴らす。
その光景を呆然と眺めていたクランク・ハーディは、震える声で呟いた。
「な、なんだあれは……!? 剣の理屈じゃない……何をしたんだ!?」
同じ道を歩む剣士として、その一端でも盗み取ろうと目を凝らしていたが、理解の範疇を超えすぎていた。
すると、ヴィヴィアンに支えられて上半身を起こしたラルフが、力なく笑った。
「ハッハッハ……。わけわかんないよね〜、アレ。身体強化でも魔力付与でもない。……親父いわく、『相手の力を借りて地面に返すコツ』があるらしいよ。まあ、説明されても一生できる気がしないけど」
「そんな……『コツ』で片付く次元ではないだろう……?!」
クランクが戦慄する中、地面に叩きつけられたゲータースキンが、本能的な恐怖から逃走を図った。
翼を大きく広げ、空へと逃げ延びようとする。
空こそが自分の領域。地上という不利な土俵を捨てようとした、その刹那。
「――《ダメよ。良い子にしてなさい……》」
鈴の音のように凛として、それでいて抗いがたい強制力を持った「声」が、戦場を支配した。
それは魔女、ジャニス・ドーソンの、魔力を極限まで乗せた「言霊」だった。
その瞬間、ゲータースキンの翼から力が消えた。
脳が「飛べ」と命じているのに、細胞一つ一つがそれを拒絶する。根源的な生存本能が、彼女の言葉に屈服したのだ。
ドーン! と、再び墜落する巨躯。
「なっ! 詠唱も無しに……魔素の練り上げすら見えなかったぞ!? 何をしたんだっ?!」
ヴィヴィアンは目を見開いた。
王国で唯一「魔女」の称号を冠するラルフの母。
その真価は、既存の魔導理論を嘲笑うかのような「未知」にあった。
「あ~、母上はねぇ、"言霊の魔女"なんだ」
ラルフが誇らしげに、しかしどこか呆れたように語る。
「言葉が届くすべての事象、すべての理に、強制的に命じることができる。……あれはちょっと、規格外だよね〜」
すると、ジャニスが頬を膨らませて振り返った。
「もう、ラルフったら! "母上"だなんて……。いつからそんなに堅苦しくなったの? 前みたいに『お母さん』って呼んでくれてもいいじゃない!」
「はぁ……。親父は『父上』と呼べと言うし、母上は『お母さん』と呼べと言うし……めんどくせー……」
思わずこぼしたラルフの本音。
「――《ダメよ! そんな『めんどくせー』なんて、口が悪いですよ~!》」
「はいっ! ごめんなさい! お母さん!!」
脊髄反射で絶叫するラルフ。
それを見ていた周囲の人々は、一様に、
(うわぁ……、子供の躾に便利そうな魔法……なのに、なんでラルフはこう育ったんだ……?)
と、ドーソン家の深すぎる謎に首を傾げるのだった。
「ギィィィィィァァァァァァ!」
三度、ゲータースキンが咆哮を上げる。もはやそれは威嚇ではなく、窮鼠の叫びだった。
ヴォルフガングに牙を剥き、最後の突進。
対する剣聖は、わずかに半歩、横にずれただけだった。
ただそれだけで、猛牛のような突進を紙一重で回避し、すれ違いざまに大剣を「置く」ように振るう。
――ガランガランッ!
あれほどにロートシュタイン勢を苦しめた装甲が、まるで薄い紙のように両断され、無造作に地面へ転がる。
バランスを崩し、無防備な肉体を晒したまま、ゲータースキンが地面を滑っていった。
「カーライル騎士爵……貴方には、今の剣閃が見えましたか?」
冷や汗を拭いながらヒューズが問う。
「……いや、儂の目にも、ただ避けて、ただ振ったようにしか見えなかった。……だが、それこそが奴なのだ」
カーライル騎士爵の瞳には、恐れと共に、抑えきれない闘志が宿っていた。
「ヴォルフガングめぇ、放蕩していた間に、さらに剣技に磨きをかけおったかァァァッ?!」
かつて、何度も模擬戦で煮え湯を飲まされたライバル。
その背中に、騎士爵の血が沸き立つ。
すると、すぐ背後から、草を踏む音。
ヒューズがふと隣を見ると、一人の女性が歩み出てきた。
「さすがは"師匠"! あの頃より、さらにお強くなってらっしゃる……! 一番弟子の私としては、誇らしい限りですわッ!!」
そこにいたのは、王妃クレアであった。
その瞳は、国の母としての慈愛ではなく、憧れの背中を追う「恋する少女」のような熱を帯びている。
「おっ? クレアかっ?! お前も久しぶりだな! ……あ、今は王妃陛下って呼ばなきゃいけないんだっけか。……めんどくせーな」
大剣を肩に担ぎ直し、ヴォルフガングが気さくに笑う。
「「「「師匠ぉぉぉぉぉ!?」」」」
周囲の絶叫が重なる。
だが、考えてみれば納得しか無かった。
王国一の女傑と謳われるクレア王妃。その剣の源流が、この「剣聖」にあるのなら、すべてに辻褄が合う。
「あー。なんか、飽きてきたな。全然強くねーし……。おーいラルフ、もう終わらせてもいいか?」
ヴォルフガングが心底つまらなそうに欠伸をする。
その侮辱に、ゲータースキンの理性が弾けた。
身体を独楽のように回転させ、鋼鉄をも砕く鞭のような尾を、死角から叩きつける!
「……遅ぇって」
ヴォルフガングは、本当に出そうになった欠伸を噛み殺しながら、剣を「持ち上げた」。
ただ、それだけに見えた。
ズシャァッ!!
鮮血が霧となって舞い、ゲータースキンの誇る灰色の尾が、空中で円を描いて飛んでいく。
「ギィァァァァ! ギィァァァァ!! ギィィ! ギィィァァァァァァ!!」
遅れてやってきた凄絶な激痛に、のたうち回る巨躯。
そして、ヴォルフガングが、一歩、また一歩と近寄る。
その瞳には、もはや敵に対する敬意も怒りも無い。あるのは、食材を見定めているかのような、底冷えのする冷酷さだった。
「ハァ……せっかくの催しなのに……期待外れだぜ。……そんじゃあ、ここからは『ワイバーンの解体ショー』ってことで、いいよな?」
その瞬間、ゲータースキンは生まれて初めて、真の「死」を理解した。
この小さな生き物に、自分は、狩られる。
翼も持たず、ブレスも吐けない、自分より何倍も小さな存在が、自分を「食材」として見ている。
(なんだこの小さきモノは……?! なぜ、自分はここに、……こんなところに、いるのだ……?)
五日間、暗闇に閉ざされ、飢えに苦しみ、無理やり鉄の拘束具を着けさせられ、ここに連れてこられた。
ただ、生きたかっただけなのに。
絶望が渦巻く中、ゲータースキンはガチガチと牙を鳴らした。それは威嚇ではなく、震えだった。
殺される……。
食われる……。
この人間の瞳に映る自分には、もう、
魔導生物としての尊厳など、――無い。
しかし。その時……。
「ヴォルフガング・ドーソン様! ここからは、私に! どうか、私に任せてはくれませんか?!」
凛とした声が、死の宣告を遮った。
銀髪のテイマー、ヴィヴィアンが、剣聖の前に毅然と立ち塞がる。
「ほう。ラルフの嫁さん候補の一人……。どうする気だ?」
「あっ、い、いえっ! 嫁というわけでは……っ! ――コホン。……御子息、ラルフの此度の志は、一人の犠牲者も出さないこと。ならば、私は"この子"も救うべきだと考えます!」
ヴォルフガングは、彼女の強い意志が宿る銀色の瞳をじっと見つめ、やがて肩の力を抜いた。
「……ふむ……。まあ、いい。ここはもう、"お前たちの街"だ。来賓の俺がしゃしゃり出る幕じゃねぇな。……任せるぞ」
大剣を地面に突き刺し、ヴォルフガングは一歩退いた。
ヴィヴィアンは振り返り、怯えて子犬のように伏せをするゲータースキンと対峙した。
彼女はテイマーとして、空中に淡く輝く光の魔法陣を展開する。
それは魔獣と魂を通わせ、記憶を共有するための、彼女だけの聖域。
「……なるほど。……生息域から無理に、連れてこられたのだな? 凶暴性を引き出すために、ずっと餌ももらえず……」
魔法を通じて流れ込んでくる、ゲータースキンの孤独と恐怖。
だが、亜竜の心には深い疑念が渦巻いていた。
人間は嘘をつく。
自分を苦しめる存在だ。
その拒絶反応により、魔力同調が乱れ始める。
「くっ……! お願い、信じてくれ……!」
ヴィヴィアンが歯を食いしばったその時。
ゲータースキンは、自分を見守る「同族」の存在に気づいた。
ヴィヴィアンの背後に控える、
深紅のワイバーン――レッドフォード。
その穏やかで、慈愛に満ちた瞳。
レッドフォードは、ヴィヴィアンの魔法を中継するように、優しく心の声を届けた。
(ここにいればいいよ。……ご主人様と一緒だと、とっても『楽しい』よ!)
(たの、しい?)
ゲータースキンの知識にはない概念だった。
獲物を殺し、喰らうこと。
外敵を排除し、生き延びること。それだけが世界のすべてだった。
だが、レッドフォードから伝わってくるのは、春の陽だまりのような温かさ。
それは「幸せ」という、未知の、しかし抗いがたいほど心地よい感情だった。
「……ギ、ギィ……?」
ゲータースキンは、ゆっくりと頭を垂れた。
それは屈服ではなく、新しい世界への信頼の証だった。
類稀なる凶暴性を秘めた亜竜を、魂の交流だけで繋ぎとめる。テイマーとしての最高難度の仕事を成し遂げ、ヴィヴィアンはその場に膝をついた。
「ほう……これほどの魔導生物を支配下におくか! ……なるほど、ドーソン家の嫁としては、合格だな!」
ヴォルフガングが豪快に笑う。
ヴィヴィアンは言いたいことが山ほどあったが、そのあまりに規格外な笑顔に、憎たらしい「誰か」の面影を見て、毒気を抜かれてしまった。
(やはり……血は争えない。ということか……)
すると、いつの間にか、彼女の隣にやって来た、ジャニス・ドーソンが。
「えぇ~?! 私、もう"おばあちゃん"って呼ばれることになるのかしら〜?」
と、なんだか飛躍した妄想で、ちょっと嬉しそうにしてるのが、謎過ぎるが……。
(血が、争わな過ぎるぞ……この家族……)
と、なんかもう、ヴィヴィアンは、さすがに、
疲れた……。




