351.Don't Look Back in Anger
「いやぁ、この時期に行商へ出るのは骨が折れるからね。本当に助かるわ」
「本当よ! こんなに良い働き口ができるなんて、ラルフ様様だわ!」
かつては潮騒と海鳥の鳴き声しか聞こえなかった寂れた漁村。その一角に構えられた"ラルフの酒場"は、今や弾けるような活気に満ち、喧騒は飽和状態に達していた。
配膳に駆け回るのは、村の漁師の女房たちだ。海風に鍛えられた彼女たちの肝っ玉は据わっており、荒くれの冒険者や気位の高い貴族を相手にしても微塵も物怖じしない。その快活な立ち振る舞いが、かえって客たちの居心地を良くしているようだった。
「まったく! ウチのバカ亭主もラルフ君を見習って、少しは稼いできて欲しいもんよ!」
女房の一人が威勢よく言い放つ。その視線の先では、テーブル席でビールを呷っていた亭主の漁師が、
「げふっ……!」
と、場外からのクリティカルヒットに派手なむせ方を見せていた。
「あーら、いらっしゃい! 勇ましい冒険者様方、五名様ね?」
「外のテラスでは網焼きもやってますよ! 獲れたての香ばしいうちに召し上がれ!」
押し寄せる客の波を、彼女たちは驚くほど手際よく捌いていく。
客層の混沌ぶりも凄まじい。
「ぷはぁ~! うめぇ……! やはりこのフレーバービールは格別だ。ロートシュタインまで行くより近いし、これなら足繁く通えるな!」
聖教国の司祭が、聖職者とは思えぬほど顔を赤らめて上機嫌に騒げば、その隣では、
「ほう、村長殿。宿屋を新設すると? よろしい!
ならば私が個人的に出資しようではないか」
共和国の参事会議員が、鼻眼鏡を揺らしながら村長と鼻を突き合わせ、儲け話に花を咲かせている。
「ここに釣り道具屋の支店を建てたい。海に近い一等地を空けておけ。いいな?」
ヴラドと呼ばれる威厳ある老紳士は、村長の息子を相手に、隠しきれない覇気で強引な土地交渉を持ちかけていた。
そして、この狂乱の宴の中心にいる主――ラルフはと言えば。
「あーらよっと! 見よ! 奥義!」
酔狂な叫びと共に彼が指を振れば、数多の酒瓶が重力を無視して宙に舞い、彼の周囲を虹色の残像を残して旋回し始める。
「おおおおおおぉっ!」
見たこともない緻密な魔導制御技術の無駄遣いに、客たちは割れんばかりの喝采を送った。
「そして……仕上げだ! スペシャル・カクテル、いっくぞぉぉぉ!!!!」
ラルフがジョッキを高く掲げると、空中で回転するボトルたちが呼吸を合わせるように次々と傾く。琥珀色、真紅、翡翠色――色とりどりの美酒が、放物線を描いて一点のジョッキへと吸い込まれていった。
「そんじゃあ……野郎ども、かんぱーい!!」
「「「「かんぱーい!!!!」」」」
地響きのような唱和が、夜の帳を揺らす。
ラルフは勢いよくその特製カクテルを呷り――。
「んぐ、んぐ……。ぶえぇぇぇぇぇぇ! まっずっ!!!」
盛大に噴き出した。
最高級の酒を闇雲に混ぜれば美味くなるはずがない。冷静に考えれば子供でもわかる道理だが、今の彼にそんな理性は微塵も残っていないようだった。
その光景を、カウンターの隅から暗澹たる表情で眺める一団があった。
エリカ、ヴィヴィアン、そしてミラ。ラルフと共に歩んできた三人の乙女たちだ。
「まったく……ラルフの奴、本気でロートシュタインを見捨てて、ここで隠居するつもりかしらっ?! もぐもぐ……!」
エリカは金髪のツインテールを激しく揺らし、憤りをぶつけるようにカレーピラフを口に運ぶ。
「我ら騎士団も、今度は王命ではなく、マスターの号令一下で剣を振るう覚悟でいたのだ。なのに……マスターはいつまで、こんな馬鹿げた茶番を続けるつもりなのだ!」
ミラは騎士としての矜持と、主への揺るぎない忠誠心の間で激しく葛藤していた。その苛立ちを鎮めるように、梅酒をストレートで呷る。
しかし、ヴィヴィアンだけは、露を纏ったハイボールのグラスを、細い指先で静かになぞりながら沈黙を守っていた。
「……私は、ラルフの気持ちが、少しだけわかる気がする」
「ふんっ! あんたはラルフと同級生で付き合いも長いものね。でも、それがあのバカが故郷を敵に明け渡す理由になるっていうの!?」
エリカが食ってかかる。しかし、ヴィヴィアンの瞳に宿る陰りは、言葉以上の重みを持っていた。
「……ラルフは、もう、自分の魔法で人を殺めたくないのだ。それほどに、私たちは見てしまった。あの戦場で……あまりにも凄惨な景色を」
独白のようなその言葉に、二人は言葉を失った。
エリカは喉元まで出かかった反論を飲み込み、苦い表情で再びカレーピラフを咀嚼した。
「……あたしだって、知ってるわよ。『殲滅の魔導士』……ラルフの過去くらい……」
夜が深まり、喧騒が引いていく。
強かな酔いに足元を覚束なくさせる者、呆れ顔の奥方に耳を引っ張られながら帰路につく者、明日の仕事に備えて名残惜しそうに暖簾をくぐる者。
やがて、店内には潮騒だけが入り込む、静寂の刻が訪れた。
ラルフは一人、酔い潰れ、カウンターに突っ伏して眠っていた。
彼の閉じた瞼の裏では、古い記憶の断片が、呪いのように明滅していた。
『えー! ロートシュタインの貴族様なんですかぁ!? 私、この村から出たことがないから、いつか行ってみたいなぁ』
あの時、桃を売っていた少女。
次に彼女を見たのは、血と泥に塗れ、物言わぬ骸となった姿だった。
その小さな手には、泥を噛んだ干からびた桃が、握りしめられたままだった。
夢の中のラルフが、その手に向かって必死に腕を伸ばす。
(魔法があれば……僕の、この魔法さえあれば、何でもできると思っていた。なのに……なのに……)
「はっ……!?」
ラルフは飛び起きた。
静まり返った店内。月明かりが床に青白い影を落としている。
肩には、アンナかミンネが掛けてくれたのだろう、使い込まれた毛布が重みを持っていた。
溢れ出る涙を、手の甲で乱暴に拭う。
上手く酔えない夜は、決まってあの地獄の光景が夢に這い寄ってくる。
その時。
ギィィィィィ、と。
潮風に錆びた扉の蝶番が、夜の静寂を切り裂いて鳴った。
足音を聞くより先に、鼻腔をくすぐる香りがあった。
古びた鉄錆と、どこか懐かしい花の香り。
ラルフの全身に鳥肌が立ち、心臓が跳ねた。それが誰であるか、魂が理解してしまったからだ。
見開いた目を、ゆっくりと入り口へと向ける。
そこに立っていたのは、不敵な笑みを浮かべた男だった。
「よう……ラルフ。貴族としての責務を放り出し、泥酔して眠りこけるとは。随分と気楽な身分になったもんだな?」
「おっ……お、親父っ……!?!?!?!」
椅子を蹴立てて立ち上がるラルフ。
しかし、目の前の男――ヴォルフガング・ドーソンは、ズカズカと大股で歩み寄るなり、ラルフの頭を万力のような力で掴み上げた。
「だからっ! 貴族なら貴族らしく、父上と呼べと言っているだろうがっ!」
「痛っ、痛いっ! 痛いってば親父!!」
暴れるラルフを見て、かつてのロートシュタイン領主は、ふっと手の力を緩めた。
その瞳に宿る厳格さが、一瞬だけ和らぐ。
「……久しぶりだな。ちゃんと、飯は食っていたか?」
不器用な、あまりにも不器用な父の言葉。
「おや……あ、ち、父上……」
鼻の奥がツンと熱くなり、ラルフは危うく涙をこぼしそうになった。
「はぁ。もういい。何度言っても直らんな。"親父"で構わん。……ところで、ここは酒場なのだろう?
何か酒を出してくれ」
「あ……ああ、うん。聖教国の聖女たちが造った良い酒があるんだ。これを『ハイボール』っていう飲み方にするのがオススメだよ」
「では、それを頼む」
ラルフはカウンターの内側に立ち、魔法で透明な氷を生成した。
「……相変わらず、魔法の腕だけは鮮やかなものだ。一体、誰に似たんだか」
ヴォルフガングが呆れたように、しかし誇らしげに笑う。
「そりゃあ、母上でしょ!」
「まあ、そうだな。お前は剣の方はからっきしだ。俺の血を分けた息子だというのにな」
「"剣聖"である親父に敵うわけないだろ!」
「はっ! そりゃあそうだ!」
二人の笑い声が、夜の酒場に溶けていく。
一頻り笑った後、ラルフはグラスを差し出しながら、恐る恐る尋ねた。
「親父……もしかして、怒ってる?」
「何がだ?」
「僕が、ロートシュタインを明け渡したこと……」
ヴォルフガングは運ばれたハイボールを一口飲み、あっけらかんと言った。
「いや、別に。そりゃあ先祖代々の土地だ、上手くやってくれるに越したことはない。だがな、一つの血族が何百年も同じ土地を治めるなんてのも、そうそうある話じゃないからな」
「えっ……? じゃあ、何しに来たのさ」
「何って、お前の顔を見に来たのさ。ついでに酒を飲みに、な」
「えぇぇ……飲みに……?」
乾杯のグラスが、澄んだ音を立てる。
「そういえば、お前と酒を飲むのは、これが初めてか?」
「あ……そういえば、そうだね」
「何に乾杯する?」
「じゃあ……親子の再会に」
「クックック……キザだな。誰に似たんだか」
「そこは、親父だよ!」
それは、静かで奇妙な、しかし愛おしい語らいの時間だった。
それから、ラルフは堰を切ったように語った。
領主を継いでから、「居酒屋領主館」をオープンさせたこと。
そこに集う、変人と云わんばかりの客たちのこと。
ついには国王までが常連になり、勝手に居座り始めたこと。
爆裂魔法を土木工事に転用して水上都市を造り上げ、王都と繋ぐ堅牢な街道を整備したこと。
――そして、騒がしくて、間抜けで、けれど……かけがえのない仲間たちとの出会いの話。
腹が捩れるような失敗談を、ラルフは身振り手振りを交えて披露した。
二人は、何杯も、何杯も酒をあけた。
ラルフは、これまでの日々を思い出すたびに、笑いが止まらず、そして視界が滲んだ。
ヴォルフガングは、息子の馬鹿話を、豪快に笑い飛ばしながら、騒がしくも確かに聞き入っていた。
やがて、窓の外の海面が白み始めた頃。
「……つい長居しちまったな、ラルフ」
「うん……楽しかったよ」
再びの別れの予感。
ヴォルフガングは立ち上がり、扉へと向かう足を止めて振り返った。
「だが……気に食わねぇことが、二つある」
「えっ? な、何さ?」
父の表情が、一転して峻烈なものに変わる。
「……過去を振り返るな。とは言わん。……お前があの大戦で殺めた多くの命……それを悔いるのはお前の優しさであり、責務でもあろう。……しかしな、振り返ってばかりいるな! この時代の間で、……お前がこれから歩む先で、お前の魔法を必要としている人が、どれほどいると思っている……?」
そうして、言葉を切り、再び、息子への願片を吐き出す。
「……お前が、かつて奪った命、そして、お前がこれから救うであろう命。その両方を、……等しく背負っていけ! ただ、……もし、もしも、それが辛くなったら、酒でも飲め! 飲んで忘れろ!! それから、また歩き出せばいいんだ。生きるってのは、そんなことの繰り返しでいいんだ。……多分な!」
その力強く、しかしなんとも語尾が薄らいでいくが、そんな父の照れくささを感じてしまい。なんだか、笑えてくる。
ラルフは、霧が晴れるかのように、偉大なる父の背中を、確かに眼に収めた。
「……そう。……ありがとう。父上」
「"親父"でいい、と言っただろうが?」
「あざーっすっ! 親父! んで、……もう一つは?」
「ん? ……ああ。その目だ! その目が、俺は、心底気に食わん!!」
そして、
語らいを終え、ヴォルフガング・ドーソンは明け方の静かな港町に立った。
そこには、一人のメイドが静かに控えていた。
「大旦那様。お久しぶりです」
「アンナか。すまなかったな、あのバカ息子を任せてしまって。苦労しただろう?」
「いいえ……色々ありました。そのすべてが、とても、楽しかったですよ。とても……」
無表情なアンナの口角が、ほんの僅かに、慈しむように上がった。
その後ろには、三人の女性たちが並んでいた。
「お初にお目にかかります、ヴォルフガング様」
エリカが深々と頭を下げる。
「はじめまして。私はラルフと同じ部隊にいた者です。どうか……どうか、ラルフを助けてはいただけませんか!?」
ヴィヴィアンが悲痛な面持ちで懇願する。
「剣聖殿……お噂はかねがね。どうか、我らがロートシュタインを取り戻すために、お力を貸してください!」
ミラもまた、騎士としての矜持を捨てて頭を垂れた。
ヴォルフガングは彼女たちをじろじろと眺め、不敵に笑った。
「ふっ、クックック。……お前たちが、ラルフの言っていた『愉快な仲間たち』か。……で、誰が"嫁候補"なんだ?」
三人は一瞬で顔を赤らめ、互いに顔を見合わせた。
「大旦那様。……お戯れは、程々に」
アンナの冷ややかな声が飛ぶ。
「あー、すまん。冗談だ。まあ、心配するな! ……俺が、一番よく知っている。……アイツの"あの目"を見て確信したよ。……あーあぁ、可哀想にな! カドスの連中。奴らはもう――"詰んでる"ぜ」
「えっ!? な、どういうこと?! ラルフが、この状況を巻き返すっていうの?」
エリカが叫ぶように問い返す。ヴォルフガングは、昇る朝日に目を細めた。
「ああ、そうだ。……アイツが"折れた"だと? ハッ、笑わせる。今もアイツの……ラルフの"あの目"は、新しい魔法を見つけては悪戯を企み、叱られても懲りずに次の一手を練っていた……あの頃のクソガキの眼差し、そのままだぞ?」
不敵に笑う、ラルフの父の顔。
その笑顔を見た三人は、呆気にとられた。
(うわぁ……笑顔がそっくり……)
湧き上がってきたのは、妙な安心感と、どこか脱力するような感覚だった。
――ちょっと、心配して損したかもしれない。
と。
更に、ヴォルフガング・ドーソンは、誰に向けてともなく、その肩に背負うローブを海風にはためかせ、呟く。
「アイツに、"安っぽい絶望"なんざ、似合わねーんだよ……」
三人の胸を占めていた暗雲は、いつの間にか、水平線から昇る朝日に溶けて消えていく。




