352.踏み躙られる尊厳
新生カドス国の王を自称し、王国領ロートシュタインを武力で蹂躙した男、コール・ディッキンソン。
彼の率いる軍勢は今、勝利の余韻に浸る間もなく、極めて現実的な泥沼の中にいた。
かつての領主ラルフ・ドーソンを追放し、王国騎士団を撤退させたまでは良かった。
自由な身分である冒険者や商人の流出は想定内であり、この地に根を張る民から税を絞れば、国家運営など容易い――そう楽観視していたのだ。
しかし、現実は非情だった。
占領下のロートシュタインを襲ったのは、剣では斬り伏せられぬ「飢え」という名の怪物だった。
「……なあ、アントニオよ。我らカドスに対し、肉の対価として法外な値を要求したというのは、真か?」
半壊した領主館の円卓。
コールは努めて冷静を装い、目の前に座る筋骨隆々な男――街一番の肉屋、アントニオへ問いかけた。その眼光には、隠しきれない威圧が籠もっている。
対するアントニオは、鼻で笑って応じた。
「はぁ? 法外だと? 冗談じゃねえ、適正価格だ。あんたらの言う、この『カドス金貨』だったか。こんなクズ、何枚積まれても商売にならねえんだよ。見てみろ、金貨とは名ばかりの、ただの小汚い銅貨じゃねーか」
アントニオが指先で弾いた数枚の硬貨が、円卓の上で安っぽい音を立てて転がった。
コールの顔が屈辱に歪む。彼は激昂を押し殺すように息を整え、アントニオを睨み据えた。
「これからは、それがこの国の正貨だ。……王国金貨と同じ価値で換算してもらわねば、貴様自身が困ることになるぞ。これは警告だ」
「ふん、話にならねえな。このクズ鉄で、俺の腹が膨れるか? これ一枚でパンがいくつ買えるのか言ってみろ。……答えられねえだろ?」
「き、貴様……っ! カドス金貨を、あろうことかクズ鉄と呼ぶか!」
激昂するコールを宥めるように、円卓の隅で冷や汗を拭っていた女性が口を開いた。ロートシュタイン銀行の会頭であり、かつて孤児院を切り盛りしていたシスター、エヴリンである。
「僭越ながら……カドス金貨には、貨幣としての『信用』が不足しております。商人たちが求めているのは、確かな価値の保証……つまり、王国金貨なのです」
「黙れ! 信用だと!? この俺が、この新生カドスが信用ならんと言うのか!」
「い、いえ! そういう意味では……! 信用とは個人の感情ではなく、市場の需給と交易の天秤がもたらす相対的なものでして。たとえここがカドス国だとしても、これを使う人々が担保する裏付けがなければ……」
「黙れ、黙れ! ここはカドスだ! わけのわからぬ理屈ばかり並べるな!」
コールの拳が円卓を叩き、凄まじい衝撃音が響く。
その狂気じみた形相に、一同が沈黙する中、水上都市でマスの養殖を営む漁民の男が、静かに、しかし重く口を開いた。
「コール殿……そこまでに。カドスの誇りに、恥じぬ振る舞いを……」
「黙れ! 貴様も元は同胞、カドスの血を引く者だろう! 我が兵に魚を売ることを拒んだ裏切り者が、誇りなどと抜かすな!」
漁民はコールの罵倒を受け流し、遠くを見つめるような瞳で呟いた。
「俺は王国に忠誠を誓っているわけじゃない。ただ、ラルフ様を慕っているだけだ。すべてを失った俺に、新しい生きる術を与えてくれた、あのお方をな……」
「ほう……俺の前で、あの男の名を出すか。いい度胸だ。……生きて帰れると思うなよ?」
コールが腰の剣に手をかけた、その時だった。
グルメギルドという、一見ふざけた商工組織を束ねる男、バルドルが天井を仰いで溜息をついた。
「コール陛下……我ら商人は、利益がなければ呼吸も止まる生き物なのです。我らも人間だ。その金で、飯を食い、薪を買い、服を纏う。それ相応の対価を払わなければ、それら一つとして手に入らない」
「だから! 金は払うと言っているだろうが!」
「では、これ一枚で肉を買ってみてください。……どれほど買えますか? ……価値とはね、王が決めるものではないのですよ。もっと巨大で、貴方の目には見えていない『経済の原理』が決めるものなのですよ」
「貴様もか……! ここでは、俺が王だ! 価値も信用も、俺という存在そのものだ!」
「……ならば、貴方は一生、ラルフ・ドーソンには勝てませんなぁ〜。ハァ……俺は貴方に、あの男を越える器を期待していたのだが。やれやれ、とんだ期待外れだったようだ」
バルドルの言葉は、冷や水のようにコールの自尊心を凍りつかせた。
殺気が部屋を満たし、この場に集まった有力者たちの処刑が決定的なものになろうとした、その瞬間――。
「クックック……! はぁ、愉快愉快! 人間族とは、本当に滑稽な生き物だなぁ。……あ、誰か。紅茶のおかわりをくれんか?」
空気を読まぬ、あまりに呑気な声。
偉大なるエルフ、ユロゥウェル。
彼女はこの修羅場の最中、ずっと読書に耽っていた。
コールは震える拳を押さえ込み、屈辱に耐えながら、永きを生きる亜人の知恵に縋った。
「……正義は、我らカドスにあります。偉大なるエルフ殿、その悠久の知恵を以て、奇譚なき意見を賜りたい」
ユロゥウェルは本から目を離すことすらなく、吐き捨てた。
「お前、腹が減って気が立っているだけだろう? 裏庭のリグドラシルにバナナを実らせておいた。せいぜいそれを食って落ち着け」
「我らカドスの悲哀を、貴女様なら理解してくださると信じて……!」
「いや、さっぱりわからん! お前ら人間は長くても百年そこらしか生きぬ。その短時間で名を残そうとする欲望など、理解の範疇を超えている。……誰もがいつかは消える。それが世界の理だ。ならば、美味い飯と酒を喰らって、綺麗さっぱり生きるのが上等だろう? ――あの男、ラルフのようになぁ」
結局、会合は何の解決も見出さぬまま、コールの苛立ちだけを燃料に閉会した。
元領主館の二階。コールは獣のような咆哮を上げ、壁を剣で切り裂いた。
「ふざけるな! あの森人風情が……! どいつもこいつも、俺を侮りおって! 俺こそがカドスの王、俺こそが理だ!」
狂気に駆られる王を前に、老齢の魔導士がおずおずと進み出た。
「陛下……現実を。もう食糧は、あのバナナしか残っておりません!」
「もう食い飽きたわあああああああ!!!」
魂からの絶叫が、虚しく豪華な部屋に響き渡った。
兵たちの士気も限界に近い。
せめて、肉と麦がなければ、新生カドスという幻想は、胃袋の空腹と共に崩壊する。
「くっ、……バカ共が。……わかった。……あの『クソ野郎ども』に文を出せ。王国金貨か、共和国金貨をさらに送れとな。……他でもない、ロートシュタインを欲しがったのは、あの"議員"どもだ。ならば、……対価を払わせるまでよ」
それはもはや野心ではなく、泥舟を漕ぎ続ける執念だった。
✢
時を同じくして。
遠く離れたエストルンドの村。
建て替えられた、豪奢な酒場の奥屋敷。
そこには、もはや酔いどれ店主の面影を消し去った、ラルフ・ドーソンの姿があった。
大魔導士の装束を纏い、精悍な瞳を宿した彼は、卓上に鎮座する。
一羽の、ミミズクを見つめる。
その魔獣に向かい、
「――こちら"チェックメイト・キングツー"。こちら"チェックメイト・キングツー"。……あー、聞こえますか? "ホワイトクイーン"。応答願います、どうぞ」
一瞬の静寂の後、ミミズクの瞳に魔力が宿り、凛として艶やかな声が溢れ出した。
『あら? "チェックメイト・キングツー"。……ふふ、ようやく“お目覚め”かしら?』
それは、王都の深奥にいるはずの、クレア王妃の声であった。
「まあ、その通りっす。僕としては、……もう少しこの潮風に吹かれてバカンスを謳歌したかったんすけどね〜。ミンネたちが働きすぎなもんで」
『フッフッフ。それは深刻ね? ……でも、貴方はダメよ! これは連合国の平穏のため。貴方にはもう少し、働いて貰う手筈なんだから』
ラルフは肩をすくめ、窓越しに闇の海を見下ろした。
「ハァ……それにしても、クレア様も、共和国のお偉い様方も、人が悪い。……いつから僕は、居酒屋の店主じゃなく、国家規模の『掃除屋』になったんすか?」
『あら? 料理屋の一番の仕事は、店を清潔に保つことでしょう? ……それに、共和国が直接手を下せない事情は、貴方が一番分かっているはずよ』
「……でしょうねー。……自ら吸収合併した民族を、自国の手で浄化すれば外聞が悪すぎる。まあ……これも、ゼーレのシナリオ通りってわけですかい? 王妃様?」
『はっ? ぜ、ゼーレが何のことかは分からないけれど……。そうね……貴族はいつだって体裁という毒を飲んで生きているのよ? 面倒くさいこと、この上ないわ。貴方もね?』
ラルフは自嘲気味に鼻を鳴らし、世俗的な本題を切り出した。
「で。今回の"汚れ仕事"の報酬は、いかほどで?」
『あの"女スパイ"の報告によると、ロートシュタインには今、例の共和国の不届きな議員どもから、軍資金として金貨八万枚が運び込まれたらしいわ……。帳簿に記載できない、"足の付かない"金貨よ! ……ふふ、此度のお駄賃として、それ全部貴方にあげるわ! どう? 老後の資金としては、不足かしらね?』
「は、八万……っ!?」
ラルフの瞳に、俗物的な輝きが灯る。
一国の軍隊を動かすに足る巨額。それを「お駄賃」と呼び、敵の懐から掠め取れと言ってのける。この女はやはり、本物の化け物だ。
『期待しているわよ。……ああ、それから。こちらで預かっている貴方の「狼たち」だけれど……なんだか寂しそうよ。さっさと終わらせて、迎えに来てあげなさい』
そして、通信が切れる。
薄暗い部屋で、ラルフは一人、頭を抱えた。
(あー! もう!! 面倒くさかったー!!! なんで僕のロートシュタインが、不穏分子を集める「ゴキブリホイホイ」に使われてんだよ?! 後でMの奴に思いっきり文句言ってやる! ……まあ、でも金貨八万かぁ〜。ムフフ、割のいい仕事よね〜……)
かつての、あの邪な領主の貌を取り戻し、不敵に笑うラルフ。
しかし、その時……背後に漂う凄まじい「殺気」に、彼は硬直した。
「ハッ!? 」
恐る恐る、首が軋みながら振り返ると、
「……あ、アンナ?! エリカ、ヴィヴィアン! え、なんでミラまで!?」
そこには、修羅の如き形相で立ち並ぶ女性陣の姿があった。
なので、ラルフは、精一杯、努めて不敵な笑みのまま……。
「ふっ、フッフッフ……。ハーハッハッハっ!! ……な?」
「『なっ?』じゃないわよ?! 『なっ?』じゃ?! この嘘つき領主がぁっ!!!」
エリカの怒号と共に、凄まじい足蹴が、ゲシゲシと、ラルフを見舞った。
「マスター! 私が、どれほど……どれほど心を病んだと思っているんですか?! 私の純情を返してください! このぉ! この! このぉ!!」
「ま、待て! 本当にクレア様からの口止めだったんだってば! 痛い! 踏まないでっ!」
「ラルフ・ドーソン……見損なったぞ! お前、人の心が分からんのか! お前なんか、こうしてやる! こうしてやるぅ!!!」
ヴィヴィアンの冷徹な追撃。
床を転げ回りながら、ラルフは懸命に言い訳を吐き出すが、炎に油を注ぐ結果にしかならない。
「旦那様。何故、これほどに悠長な真似をしたのですか?」
アンナの無表情な問いかけが、一番心臓に突き刺さる。
「え? ああ。……あの、魔導兵器を無力化するのに、"時間が必要だった"んだよー。……あと、その……まあ、ちょっと、単純に、休暇が欲しかった。というか……」
その瞬間、
再び怒りの連撃が、ゲシゲシと始まった。
「本当に、ちゃんとやるから! ちゃんと仕事するからあああああ!」
ラルフの悲痛な叫びが、月夜に吸い込まれていく。
その時、夜道をゆく一人の男――大剣を背負ったヴォルフガング・ドーソンが、盛大にくしゃみをした。
「ぶえっくしょんっ! ズズズッ、ああ……冷えるな。……まあ、ラルフ。男ってのはなぁ、女の尻に敷かれているくらいが、案外ちょうどいいんだぜ」
星空を見上げ、彼は何処か遠い目をして、深い溜息を吐いた。




