350.繁盛と没落
エストルンドの港は、つい先日まで寂れた漁村だったはずだった。
灰色に乾いた網が転がり、潮風だけが吹き抜ける、時が止まったような場所。
それなのに……。
「よーし! 積み荷を降ろせ!」
「そっちの聖教国からの積み荷は酒だ! ボトルを割るなよ、慎重にな!」
響き渡るのは、耳を劈くような活気と怒号。
冒険者、無骨なドワーフの職人、静謐な佇まいのエルフ、さらには共和国からやってきた抜け目のない行商人。多種多様な種族が入り乱れる光景は、さながら大陸随一の交易地のような熱を帯びて渦巻いていた。
新設された桟橋には大小の船が絶え間なく接岸し、その腹からは見たこともない異国の至宝と、希望に燃える人々が次々と下りてくる。
その様を磯辺から眺めていたティナの隣では、焚き火の爆ぜる音と共に震える声が上がっていた。
「うー、寒い……」
「こんな冷たい海に潜れるなんて。人間族のメス、たくましすぎる……」
身を縮めて火に当たっているのは、三人のリザードマンの戦士たちだ。
「あ……いえ。あなた達も、じゅうぶん凄いと思いますよ?」
ティナは心からの称賛を送った。
彼女の傍らの網には、到底一人では抱えきれない「海の恵み」――大ぶりの貝やエビ、丸々と太った根魚が大量に入っている。水辺を好むリザードマンにとって、泳ぎは生存本能に等しいスキルだった。人間とは比較にならない潜水時間と、濁った水中さえ見通す視力。彼らの協力こそが、この大漁の立役者だった。
「俺たち、寒いの苦手……。でも、貝美味い。ラルフさまのメシ、潜る価値ある……」
一人のリザードマンが、獲れたての海鮮を思い浮かべたのか、だらしなく涎を垂らした。
するとそこへ、一人の男が歩み寄ってきた。
「おー! お前たち。大漁ではないか! どうだ? それを儂に売らんか?」
やけに豪華な召し物を纏い、整った口髭を蓄えた御仁。その圧倒的な立ち振る舞いに、ティナは本能的に身を固くする。
(この人、絶対に貴族様だ……)
警戒するティナを余所に、リザードマン達は気さくに答えた。
「国王さま、これ、ラルフ様の店に持ってく分……」
「そうそう。これは今夜の、メインディッシュ? とかいうやつ」
ティナの思考が、その一言で凍りつく。
国王様?
いや、まさか。こんな場所に一国の主がいるはずがない。何かの冗談だろうと自分に言い聞かせたが、胸に宿った不安の種は、容易には消えそうになかった。
日が暮れ、ティナは納品のためにラルフの店を訪れた。
しかし、昨日まで「掘っ立て小屋」同然だったその店は、もはや別世界のように石造りの広々とした建築へと様変わりしていた。
「二番テーブルに『お通し』持っていきなさい! こっちでビールはやっとくわよ!」
金髪ツインテールの少女・エリカが鋭い指示を飛ばす。
「旦那様。刺し身の盛り合わせ七、唐揚げ五、餃子六……。あと、よくわかんなくなったので、フライドポテトをとにかく大量に……」
無表情なアンナが、どこか投げやりなオーダーを厨房へ通す。
「ひぃぃぃぃぃぃい! 」
厨房の主、ラルフは、てんてこ舞いになりながら悲鳴を上げていた。
「いらっしゃいませー!」
「お待たせしました! 最高級蒸留酒の、"聖女の舞い"でーす!」
さらに、昨日までいなかったはずの子供達がホールを元気に駆け回り、客たちのグラスを満たしていく。
(……なんか、また店員が増えてる?)
ティナはもう驚くのをやめた。
この数日、ラルフと名乗る謎の店主に関わってきて、いちいち驚いていたら身が持たないことを悟っていたのだ。
「ラルフ様……。これ、納品です」
「あ、ああ! ティナか。すまん! 今手が離せない。後ろの保冷庫にぶち込んでおいてくれるか!」
見れば、魔法で空中に浮かせた野菜を、不可視の刃が神速で切り刻んでいた。
(魔導士っていうの、本当だったんだ……)
呆然としながらも、ティナはどこか納得してしまった。彼が貴族だという噂も、あながち嘘ではないのかもしれない。
「あの……もしよろしければ、お手伝いしましょうか?」
「えっ?! 本当か!」
「はい。その……魚を捌くのは、得意なので……」
「よっしゃ! 従業員ゲットだぜ!! さあ入って入って、給金は弾むからさ! 包丁はそこにあるの、自由に使ってくれ!」
ティナは手を洗い、腕をまくる。
漁村で育った彼女にとって、魚を扱うのは生きる術そのもの。包丁を握る手つきには迷いがなかった。
すると、新たな客が訪れた。
「いらっしゃいませ! あっ、ヴラドさん!!」
店員のミンネが招き入れたのは、先ほど磯でティナに声をかけてきた、あの御仁だった。
「うっわ……。来るとは思ってたけど……。やっぱり来ちゃったか……」
その姿を認めたラルフが、心底面倒くさそうに呟く。
「ふんっ! 貴様が不甲斐ないせいで、あれから色々と骨を折ったわい! ……まあ、言いたいことは山ほどあるが……まずはオススメの米酒と、刺し身だ!!」
「はいよー」
不遜な注文に、ラルフは投げやりに応じる。
「ラルフ様。私が作ってみても? 切り方は、先ほど見ていて分かりましたから……」
「おっ?! そうか! なら頼む。この偏屈オジに、とっておきを見繕ってやってくれ」
「誰が偏屈だ! 極刑に処してやろうか?!」
物騒な台詞が飛び交うが、そこには妙な親愛の情が滲んでいた。
(本当に国王様だったら、あんな口は利けないわよね……)
やはりリザードマン達の冗談だったのだと、ティナは自分を納得させた。
店内は信じられないような光景が広がっていた。
「ラルフ様〜! 聖教国のボトルを仕入れたんでしょ? 知ってますよー。なので! この店で一番高いボトルを下さーい!」
「アッハッハっハッハッハ! やっぱ、海鮮も良いねっかて〜! って、何コレ? ……ウニ? ナマコ? ホヤ? ……うん……。美味ぇ!!!」
聖教国の高価な酒を注文する者、溢れんばかりの料理を囲んで笑う者。
「お待たせしました」
恐る恐る、ティナが捌いた刺し身を差し出すと、ヴラドは一口運び、そして破顔した。
「フッフッフ……。ラルフよ! お前より、そこの娘の方が腕が良いようだな! これは格別だぞ!」
「ハァ……。気分ですよ、気分。そんなに差が出るわけないでしょ?」
呆れるラルフを無視して、ヴラドはティナに身を乗り出した。
「ふむ、そこの娘。店を持たんか? なんなら儂が出資してやろう」
「怪しい誘いはヤメて下さい! ティナが怖がってるでしょうが!」
店内には、明らかに身分の高そうな者達が、テーブルを囲んで密談に耽る姿もあった。
「なるほど、エストルンドに目をつけるとは……。王国と聖教国の中間であり、東大陸との船便も……。つまり、交易中継地として、うってつけか?」
「やれやれ、これはまた投資のしがいがあるなぁ。また……稼げそうだ!」
その囁きと経済的思惑は、ティナの理解を超えている。
「ほれ、ティナとやら。チップだ! 取っておきなさい」
ヴラドが立ち上がり、ティナの手の中に一枚の硬貨を置いた。
「あ、あの。その……」
戸惑う彼女に、ラルフは「貰っておけ」とウインクを飛ばす。
「あ、ありがとうございます……」
受け取った硬貨の重みに、ティナは息を呑んだ。
銀貨だと思ったそれは、鈍い輝きを放つ「白金貨」だった。それ一枚で、一体何年暮らせるというのか。
「どうして……こうなっちゃったの……?」
呆然とした彼女の呟きは、酒場の喧騒に紛れ、誰にも届くことはなかった。
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一方その頃、新生カドス国を名乗るロートシュタイン領主館では。
「この間抜けがっ!! 酒を飲んで酔い潰れていただとっ!!」
コールの怒声と共に、強かに頬を打たれた兵士が床に転がった。
「も、申し訳ございません! しかし、怪しい子供に何かを盛られたようで……」
「言い訳は聞きたくない!!」
コールは、兵士の顔面を、さらに容赦なく蹴りつけた。
謎の技術で建造され、抑留していたはずの魔導船『ウル・ヨルン号』。
鹵獲した戦力を何者かに奪還されるという醜態に、彼の怒りは頂点に達していた。
「もういい! 出ていけ!」
ここはかつて「居酒屋領主館」と呼ばれた場所。今や見る影もなく破壊され、崩落を免れるための支柱が痛々しく立ち並んでいる。
「コール陛下……。この地の民が、次々に脱出しております。このままでは税収が破綻します」
「ふんっ! ならば通過税を上げろ。平民程度では払えぬ額まで引き上げろ!」
「そ、それは……」
「口答えは許さん!」
「は……。しかし。もう一つ、その……問題が……」
「なんだ?! 次から次へと……」
「あ、あの……その、食糧が、もうありません……」
「……は?」
理解不能な報告に、コールは間抜けな声を漏らした。
肥沃な土地を奪い、自らの正義の元に統治を始めたはずだった。
なのに、なぜ……?
カドス民族の栄光を取り戻すという「正義」の道程に、出口の見えない暗雲が立ち込め始めていた。




