349.落日の暁
月明かりすら拒絶するかのような、重苦しい静寂が港を包んでいた。
かつて王国の至宝と謳われた「美食の街」ロートシュタインは、コール・ディッキンソンの電撃的な武力蜂起により、一夜にして「新生カドス国」の軍靴に踏みにじられた。
領内に点在する魔導兵器、あるいはその転用が可能な遺物は、今やことごとくカドス軍の監視下に置かれている。
かつて、海の魔獣を屠るために造られた黒鉄の巨躯――超弩級漁船『ウル・ヨルン号』も、その例外ではなかった。
海の冒険者クラン「シャーク・ハンターズ」の面々は、愛船の徴発命令に対し、当初は抜き身の殺気を隠そうともしなかった。しかし、彼らは踏みとどまった。ここで火花を散らせば、街に残る力なき民にまで戦火が及ぶ。それは、あの敬愛すべき領主ラルフ・ドーソンが、侵略者に対し屈辱を飲み込んで頭を下げた――その「守るための決断」を無下にすることに他ならない。
一部の市民は、抵抗せず退いたラルフを「不甲斐ない」と罵り、怒りの矛先を向けた。だが、彼を深く知る冒険者や、一度でもその不思議な熱にあてられた者たちの胸中には、一抹の、しかし消えぬ期待が灯っていた。
(あのラルフ・ドーソンが、ただで奪われるはずがない。きっと、何かを仕掛けているはずだ)と。
潮騒が響く桟橋。
冷たい鉄鎖に繋がれ、沈黙を強いられているウル・ヨルン号の傍らを、影よりもなお昏い何かが、足音もなく駆け抜けた。
甲板で見張りに立つ二人のカドス兵。手にした槍の穂先は月光を弾いているが、その態度は弛緩しきっていた。一人が大きく、退屈を噛み殺すような欠伸を漏らす。
「……退屈、だな」
「ああ、全くだ。こんな薄気味悪い鉄の塊、沈めてしまえばいいものを」
「馬鹿を言え。コール陛下は、この船をカドス海軍の主戦力に転用するおつもりだぞ」
「動かし方も分からんというのにか? 明日も魔導技師が総出で解析するらしいが……俺には一生かかっても理解できそうにないな」
「ちげーねー。お前にゃあ、無理だな!」
彼らが軽口を叩き、鼻で笑ったその瞬間だった。
「おやおや、お疲れ様です。お兄さん方、こんな夜更けにご苦労さまですねぇ」
虚を突かれた兵士たちが跳ね上がる。
「なっ、何奴だ!? 怪しい奴め、止まれ!」
闇の中から進み出たのは、驚くほど小柄な人影だった。
しかし、その装いはこの世界の常識から逸脱していた。漆黒の仕立ての良い上着、同色の帽子。そして何より異様なのは、その瞳を完全に覆い隠す、真っ黒な硝子の眼鏡である。
「おっと、失礼。決して怪しい者ではございませんよ。見ての通りの通りすがりのスパ……いえ、行商人です。誇り高きカドスの戦士の皆様に、ささやかながら差し入れをと」
「差し入れだと……? むっ! それはまさか、酒か?」
「左様でございます! この地の肥沃な大地が育んだ葡萄から造られた、至高のボトル。これからお得意様となる皆様に、まずは御近づきの印として……」
「ほう、美味そうじゃないか……」
「おい、任務中だぞ!」
「堅いことを言うな、少しくらいなら。なっ!」
退屈という毒に侵されていた兵士たちは、差し出された酒精の誘惑に、易々と食いついた。
「さあさあ、どうぞ! 最高のオツマミ、干物も用意してございますよ」
小柄な商人の甲高い声が、夜の港に不気味なほど朗らかに響く。
数十分後……。
「ぐがぁ~!」
「フゴっ! スピ〜……」
そこにあったのは、無残に転がった槍と、幸せそうな寝息を立てる二つの塊だった。
「……練度が低いねぇ。この程度の混入物、微かな匂いと味で一年目の新人でも見抜くよ? ……それにしても。やれやれ、……なんでこの私が、今更こんな現場仕事に? ……まあ、これも祖国の為か。トホホ……」
ハーフリングの亜人族、通称『M』。超一流の諜報員としての矜持と、中間管理職のような哀愁を吐き出しながら、彼はウル・ヨルン号の深部へと潜り込んだ。
操舵室に足を踏み入れると、そこには異形の光景が広がっていた。
巨大な舵の周囲を埋め尽くすのは、既存の魔導工学をあざ笑うかのような未知の計器類。
「なるほど。こりゃあ凄まじいな! カドスの連中に扱いきれるはずがないわけだ」
開発者ラルフ・ドーソンの、底の見えない頭脳の深淵に、Mは背筋に冷たいものを感じた。
「さて……魔導炉の核は抜かれているようだけど、本当にこれで動くのか? まあ、ラルフ殿を信じるしかあるまい」
Mが懐から取り出したのは、一見すると無機質な長方形の箱のような魔道具――『インストーラー・デバイス』。
「ええっと? 接続先は……おっと、ここだね!」
操舵席の足元に隠された拡張用スロットに、それを一息に挿入した。
――ガシャリ。
次の瞬間、船底から世界を震わせるような重低音が響き渡った。
「おおぉ! 動いた! さすがだね!」
だが、歓喜は一瞬で戦慄に変わる。
計器類が狂ったように明滅し、操舵室が警告を告げる不気味な紅色の光に塗りつぶされたのだ。
「……ん? んんんん? あれ……何だか嫌な予感がするん、だけど?」
狼狽えるMの目の前で、魔導ビジョン(メインモニター)に見たこともない言語の羅列が高速で走り抜ける。
> STATUS: LIMITER DISCONNECTED.
> ETHER FLOW: CRITICAL OVERLOAD.
> SAFETY PROTOCOL: BYPASSED.
> CHASSIS INTEGRITY: DROPPING.
> ENGINE OUTPUT: 120... 150... 180%...
> FINAL PHASE: IGNITION.
「ラ、ラルフ殿……! あ、貴方は、い、いったい、何を造り上げたんだ!!?」
そして、更に表示された、無慈悲な一文。
"返品不可:この出力による損壊は保証対象外です"
「えっ?! ちょ、ちょっと待って! コレ壊したら私が弁償するの?! この船、いくらするのさっ?!!」
Mが絶叫する中、船尾の装甲が複雑な機構で展開し、そこから地獄の業火を凝縮したような白熱の光が溢れ出した。逃げ場のないGが体を圧迫し、視界が白む。
モニターに最後の一言が浮かぶ。
"GODSPEED――良い旅を!"
「ギャアアアアアアアアアアアァ!!!!」
それは航海などという優雅なものではなかった。
自らが隕石となったかのような衝撃。
ウル・ヨルン号は、自身を繋ぎ止めていた巨大な鎖を蜘蛛の糸のように引き千切り、海面を割り、音すらもを置き去りにして、夜の闇を切り裂く一筋の閃光となった。
その夜、海上戦力の主力を一瞬で喪失した新生カドス国は、文字通り未曾有の大混乱に陥ったのである。
✢
翌朝。
カドスから遠く離れた王国と聖教国の境界、エストルンドの静かな港町。
そこには、あまりにも現実離れした光景に、思考を放棄した村人たちが立ち尽くしていた。
「おーい! こっちの足場はもう解体しろ!」
「おい、水平が狂ってるぞ?! どこのどいつだ、こんな雑な仕事をしたのは!」
どこからともなく現れた筋骨隆々のドワーフたちが、野太い声を張り上げている。
数日前まで、ラルフが営む簡素な掘っ立て小屋だった「酒場」は、今や石造りの、どこか貴族の別荘を思わせる優美な邸宅へと、魔法のような速度で変貌を遂げていた。
「あ、あの……ラルフ様? その、これは一体、どういう状況なのでしょうか……」
村の娘ティナは、戦々恐々として店主の背中に声をかけた。
「ん〜? ああ、騒がしくしてごめんね! ティナ。……ちょっと友人たちが、僕を追いかけて来ちゃったみたいなんだ」
資材の上に腰掛け、のんびりと建築現場を眺めるラルフ。そのあまりに無防備な横顔に、ティナは何度目か分からない眩暈を覚えた。
(この人は……本当に、何者なんだろう?)
この辺境の村に現れ、酒場を開いたかと思えば、次々と現れる絶世の美女たち。
そして今、別の熱狂が渦巻いている。
「特製シーフードカレーはいらんかねぇ〜! 絶品だよ、絶品のシーフードカレーだよ〜」
金髪ツインテールの少女が、手際よく屋台を切り盛りしている。
具材にはティナが今朝獲ってきたばかりの魚介が使われているのだが、それを口にした村長の息子が「とんでもない……世界が変わるぞ!」と涙を流して叫んでいた。
ティナも後で食べようと心に誓った。
何より、この店主も、あの少女も、驚くほど気前が良い。ティナの懐には、これまで見たこともない額の金貨が収まっているのだ。
ふと視線を海に向ければ、比較的水深がある海岸線に、巨大な桟橋が爆速で建設されていた。
この小さな村には分不相応な、軍艦すら停泊できそうなほどの威容。
そこへ、道の向こうから軽快な駆動音が響いてきた。
「えっ、何あれ!?」
「カッコいい!! 魔法の馬!?」
村の子供たちが歓声を上げながら駆け寄る。
砂煙を上げて現れたのは、二輪の魔導機械に跨った女性、マーサだった。彼女は颯爽とマシンを降りると、子供たちに「少し待っててね」とウィンクを投げ、ラルフのもとへ。
「ラルフ様! 王城より『超特急便』のお届けです!」
受け取った書簡を一読し、ラルフはあからさまに顔を顰めた。
「……『開港拓殖令』、だってさ。やれやれ、ヴラドおじ……ここを第二のロートシュタインにでもするつもりか? メンドクセーって……」
その、謎の嘆きが村人の耳に届くよりも早く。
「お、おい……あ、あれを見ろ!!」
一人の漁師が、水平線の彼方を指さして絶叫した。
燦々と降り注ぐ陽光を浴びて、海原を割って進んでくる巨大な影。
「ぐ、軍艦だ……! なんでこんな場所に、何処の国だ!?」
「いや、デカすぎるだろ?! 逃げろ! 襲撃だ!!」
パニックに陥る村人たちをよそに、ラルフだけがひょいと手を挙げた。
「あ~、皆、大丈夫だよ! あれは『ウル・ヨルン号』。僕んとこの船だから! ……あ、やっぱりちょっと出力出しすぎたかな? ……Mのやつ、無茶しやがって……」
ティナは、流れる冷や汗を拭うことも忘れ、呆然と巨大な黒鉄の船を見上げた。
あの桟橋が何のために造られたのか、ようやく理解した。だが、理解したところで、事態の異常さは何一つ変わらない。
この、何もないはずの漁村に、一体、「何」がやってきてしまったのか……。




