第二十九話 過去
とは言ったものの、具体的にどうするのか。「用は済んだ」と言わんばかりに颯爽と去っていった指揮官。歓迎するとは言われたが、その直後に姿を暗ますとは厚遇とは正反対のようだった。
指揮官が剥いたリンゴは彼自身、結局一つも口にせず放置されたまま。仕方ないので実璃は頬張りながら物思いに耽る。
―――関兵になります、とは宣言したけど詳しい説明はされなかったな。
実璃はそこで自分の手を覗き込む。傷一つない真っ白な肌。ここに来て握手した隊員の多くに手のひらのずっしりとした肉感が感じられた。まともな戦闘経験のない実璃にはしょうがないとも言える事実だが、実璃にはそれが酷く情けなく感じた。
弱く脆い己。そんな自分が関兵になって本当に奏が助けられるか。 覚悟があっても度胸がない、そう思えても仕方がなかった。
奏に会うまでは人生に絶望しか感じられなかったけれど、彼女と出会い充実感が支配した。そんな幸運を実璃自身、投げ捨てるなど不可能だった。
「考え事?」
こちらに寄り添うような一声。思わず目を向ければ、見知った顔がそこにあった。
「田澤さん」
「久しぶりね」
第一資料室以来だった。老いているのに、歳を感じさせない若さが滲み出ている。前会った時同様、メガネと修道技を身につけた田澤さんには僅かに疲労が捉えられた。恐らく奏が自らを犠牲に敵を収めた任務が原因となってくるのだろう。
医療総監という言葉が嘘でなければ、あれから二日経っても後処理に追われている事が予想できる。
「私から話しておかなきゃいけないことがあるわ」
「…話?」
奇妙な目線を向ける実璃に田澤さんもまた、実璃の瞳を覗き込む。
「何気にこうして二人で話すのは初めてね」
「そういえば」
「貴方、奏の友達と伺っているけど…奏のことは、どこまで知っているの?」
「……どこまでって、奏は私の幼い頃の友人で、昔は如月響絆っていう名前でよく遊んでて…それから、」
「そうじゃなくて」
そう言って実璃の言葉を静止する田澤さん。表情は固く引き締まっていた。
「私が聞いているのは、響絆のことじゃない。無冬奏、彼女のことを聞いているわ」
「奏と響絆は同一人物です!」
「知っているわよ。でも、既に如月響絆は人として死んでいるの」
「そんな言い方―」
思わずベッドから立ち上がった。
言っている意味は理解できるが、何故そうやって奏を突き放すのか。怒りを覚え感情そのまま拳に力が入ったところで…、田澤さんの顔つきが何かを訴えかける真意を宿しているのを感じた。
―――田澤さんも、それを分かった上で質問をしている。
顔を俯かせ、再度ベッドに座り込んだ。そうして、奏との日々を振り返る。
「……私は、よく知らないです。奏と別れる前、奏が何か言っていました。確か、635実験の関兵唯一の成功例……とか」
そこで実璃はハッとする。第一資料室で見た紙切れ。あそこにも似たような事が書いてなかったか。
「詳しい説明をしましょうか」
表情の移り変わりが激しい実璃を察してか田澤さんが場を仕切り直す。悠然に息を吐いて、ただ淡々と実正を口にして。
「エネミーと人類。最初の計画では、数年単位で決着つけようとしたの。けど、当時の人間はお世辞にも戦闘に優れていたとは言えなかった。敵の存在を舐めていたと言えばそれまでなんだけど、平和な世だったから、戦の概念が人々から欠落したのも原因の一つ」
当時を振り返るように田澤さんは言い表す。
「ずるずると伸びていく戦争に焦りが生まれたわ。当時は歯が立たなくて領土が侵略されていくまま。時間が経過するごとに各政府はますます焦り、そして………、手に出してはいけないものを利用した。
それが、635実験。通称・強制エネミー化計画。人類が635回に及ぶ兵器実験で生み出した狂気の計画だったの」
奏が自身を封印する直前に言っていた事柄、それに結びつく。人間を特異体質にしてエネミーの特殊個体と戦闘できる人間兵器、奏はそう話していた。
「何百回に及ぶ実験で成功したのはたった一件。実験と称し、戦場に投下された成功者は数十体のエネミーの殲滅に成功した」
「!」
「それから暫くして連中は関兵の対象である子供にも行ったの。当時まだ来て間もない無冬奏も当然その対象だった」
それは、エネミーと渡り合える関兵に実験を施すことで、更なる特性を兼ね備えようとした当時の大人による浅ましい判断だった。
実璃が息づく間もなく、田澤さんは冷静に説き伏せる。
「実験による死者は三桁にも及んだわ。最高指揮官交代によって実験が終わり、子供に中で唯一の生還者だった彼女の名前は、如月響絆」
「響絆が…」
「ええ。やがて実験の存在は隠され、彼女の名前も無冬奏というものに変わったわ。髪色が白く透けて冬のように寂しく、何もない自分を見て、奏自ら付けた苗字だった。音を響かせるのではなく、奏でるという名前もそう。彼女はここに来て、全てを捨てたの」
「……」
呆然…とまでいかなくとも僅かに納得していた。奏が最後に見せた切ない表情。そこに奏の全ての軌道が詰まっていたのだろう。
「私は、奏の専属の医療サポートを任されていた。幸いなことに肉体的な損害はなかったけど、精神面がとても酷かった。実験終了から暫くは食事も拒否していたくらいには。生きる希望を見つけられない、そんな様子だったわ」
だから、だからこそ、田澤さんと話していた奏はとても幸せそうに見えたのだろう。田澤さんという存在が奏を沼から引き摺り上げた人物であるから。
「実璃。お願い、どうか奏を助けてあげて」
力強い目で見つめられると同時に、手をがっちりと握られる。柔らかい、されど熱に帯びた感覚がそこにある。
「奏が昔の話をするときは、決まってあなたの話だった。あなたと会って昔のように遊びたいと元気になってからは、毎日のように言っていたの。もう、それができて満足かもしれない。友達の実璃さんを巻き込みたくないと、思っているかもしれない。でも、お願い。私はあの子に、最後まで笑ってほしい。大切な人と過ごす時間はどんなに幸せか、もう一度知ってほしいの」
とても重く、強い意志がそこにあった。田澤さんの瞳から涙が薄く垂れてくる。奏にただ生きてほしい、という純粋な気持ち、ただそれだけが押し寄せてきた。
「もちろんです」
「…!」
「だって私は、奏の一番の親友だから!」
如月響絆か、無冬奏かそんなことはどうでもいい。冬のように寂しいというのなら暖かく満たしてあげればいい、何もなくなんてない、少なくとも実璃はここに来て大切な感情を手に取る事ができたのだから。




