第十六話 現実
腐敗した空気が一面浸透する。江東区の海岸沿いには夥しい量の血液が、ひび割れたアスファルトを濡らしていた。
嫌に鼻につく高密度な血臭。その原因は、重なり絶命する数多くのエネミーの死体だ。それらが酷く吐き気をもよおす悍ましい匂いの根源である。此処に人の死体は無い。あるのは絶対にエネミーの死体だけだ。
「さて、残るは君一体だね」
優美に、それでいて独善と言い放たれた声色は子供とは思えない厳烈さが潜んでいた。
少女が瞳に映すのはたった一体のエネミー。このエネミー以外、全て滅されてしまった。遠方で様子を伺っていた現存する最後のエネミーは、この人間の存在を見誤ったわけではない。
攻撃を仕掛ける隙すら与えてもらえず一方的に嬲り殺された、それほど少女―無冬奏の存在は圧倒的だった。
「ギギ…」
勝敗は既に決している。それゆえにエネミーが食い下がらないのは、それをしたら蹂躙を受けるだけと本能で看取しているからか。
奏は相対した態度で目つきを尖らせる。
「特殊個体は本部で分析される、君も全身が解析されるだろうね」
そう言って同情の視線を向けながら再度問いかける。
「一年前の梅雨頃だったかな。それまでは普通に任務をこなしていた関兵や部隊に緊急の知らせが入ってね、東京湾から百体近くのエネミーが出現したんだ。海にエネミーが潜んでいるという情報は掴んでいたけれど、大量発生…それも同時期に起こるなんて誰も想定していなかった。まさに前代未聞だったよ」
シュン、と言う風切音がした。エネミーの足から紫色の血が弾け飛び、風体はガクンと下がり肉体が損害を訴える。
「多くの犠牲の中、私達人間は勝利をかろうじて掲げることができた。でも油断はできない。敵の中には想像できなかったエネミーの特殊個体が多くいたからね」
奏が刀を使っている動作はない。握られているのに振るわない、なのにエネミーは確かに攻撃を仕掛けられている。
「今回の事態だってそう。こんな事、一年前まで前例はなかった。君たちが人類の予想を覆したのは、これで二度目なんだよ」
エネミーは立ち上がれない。奏が喋っている間にも着実にダメージは積み重なっている。
「ねえ、どうして人間を殺すの? 君たちは一体どこから来たの?」
返事はない。当然だ、どれだけ必死に答えを誘うように追い詰めたとて、エネミーは人間ではない。突如現れた原因不明の生物が、たとえ高度な知能を有していてもそれが人間に伝わることはない。
「ギギァ…」
命が消える寸前、限界までダメージを募らせた最後のエネミー。憎らしく浅ましい表情を浮かべ……自身の身体、腹の部分に目をやる。
「?」
不思議そうに首を傾げる奏に対して、エネミーはじっと彼女に視線をぶつける。
そして、数刻したのち息を引き取った。
「少しやりすぎたかな。あとで、見てもらわないと」
自身の体を見下ろす奏。それと同時に、現状にどこか暗雲が立ち込める気がした。
―――胸の辺りが騒がしい。
…
「ひとまず、おっ疲れーっす!」
「ええ、本当に」
疲れた装いで、息を吐く智彩と日影。行きと同様のヘリコプターで任務を終えた帰路に着く中、二人の声はよく響き渡る。
部隊を襲撃したエネミーの討伐が済み、彼女達関兵ができることが一通り終わった。
負傷した隊員全員の応急処置を施し、関兵第二、四部隊と後衛隊の安否確認がされたのち、部隊は帰還のヘリに乗り込んだ。エネミーを倒し終わって一時間程度で連絡が来たので迅速な対応が行われたのだろう。正直とっとと帰りたかったので全員にとって有り難かった。
「日影、怪我大丈夫なの?」
不安げな声を発する実璃は、そう言って日影の負傷具合を心配する。右腕につり包帯が巻かれ、指先にはテーピングが使用されている。両足は氷水で冷やされ布で固定されていた。
智彩は多少腰が痛むのか、湿布が貼ってあるだけで奏も大事に至るような負傷はないこと。だがその分日影だけ、負傷が酷い見える気がした。
「大丈夫……ではないけれど、問題はないわ。多分、一週間ちょっとで治るわよ」
「一週間!?」
愕然とした事実に度肝を抜いた実璃だったが、「大袈裟ね」と言ってあしらうように話を続ける。
「腕は脱臼しただけだし、足は久々の戦闘でちょっと打撲しただけよ。これくらい、関兵は日常茶飯事よ」
強がる素振りをカケラも見せない日影に、奏が付け加えるように言う。
「本部には政府勅令の医療施設があるからね。身体がなくなったりしない限り、なんとかなるよ。みのりんだって、今日医療班の人たちと見てたでしょ」
「……」
実璃が今日体験したこと、それは色んな面で実璃の常識を大きく覆すものだった。
救護隊のリーダー田澤さんに連れて来られたのは、関兵部隊専属の医療班の場所。当然、第二部隊は出払っていたので、他の部隊の備品を整理していたのだが…。
―――初めて見る道具や医療品……知ってるものが何一つなかった……。
初心者でも扱える治療器具のレクチャーを受け、使い方の分からない道具を次から活用できるよう知識を蓄えた。関兵は最前線で戦闘をするため、一番怪我する可能性が高いが大掛かりな処置は時間を取るためなるべく避けたい。
そのため、応急処置で如何に速く戦地で戦えるように送り出すことが要となる。日影が受けている処置だって、戦闘が終わっているから包帯が使用されている。
あの場所には包帯より痛み止めと先進安定剤の方が多かった。それはつまり、体より心が壊れるのを現場が何よりも恐れているのだろう。
部屋には小さな手術室のようなものもあり、最悪の場合そこで治療を行うらしい。まだ実璃は完全に明かされてはいないが、関兵の死亡率は全ての部隊で一番少ないのは、人智を凌駕する治療法が確立されているという噂もある。
―――人類の戦況は、意外とマズいのかも…
「はぁ…、別に怪我なんてどうでもいいのよ。死ぬわけじゃないし」
実璃の心配をよそに、日影は呆れた様子でため息をつく。
「まあ別にそのことはいいわ。私としては、一年ぶりの戦闘の方が中々堪えたから。智彩が来なかったら命が危うかったし」
「へへ、アタシに感謝するっすね」
得意げに鼻の下を擦る智彩だったが、「あんたは大丈夫だったの?」と日影に言われ頭を掻いてしまう。
「余裕はあったっすけど、結構激しく技を使ったんで、体力の方がきつかったすね。また鍛えないときついっす」
「あんた攻撃力あるんだから一気にやっつけなくてもよくない?」
「えー、それだと面白みがないっすよ」
「戦いに面白み求めてんの、多分あんただけよ」
呆れた物言いで左手を頭に当てる日影、二人の談笑は暫く続きそうだった。
そこで疑問が湧いた実璃は、奏に視線を合わせる。
「ねえ」
「何かな、みのりん?」
智彩と日影の声で若干掻き消されているが、構わず質問する 。
「日影と智彩って、長らく休養してたの?」
「? どうして?」
「だって、一年間ぶりの戦闘って言ってたから」
ハッとした表情をしてすぐ、ゆっくりと閉ざされる瞳。
「一年前、大きな戦いがあってみんなその時疲れちゃったの。私は参加してなかったんだけどね。……二人は肉体的にも精神的にもダメージを負っちゃったから、今日の任務までは戦闘以外の調査分野を任されてたんだ」
同情するような声色に、実璃は聞くべきではなかったと少し後悔した。奏の言葉から察するに、恐らく大切な何かを失ったのだろう。
―――何があったのかな……
住んでいた場所から離れ、全く異なる生活が始まってまだ一日。無知な実璃もいずれ知ることになるのだろう。
彼らが関兵に所属している理由、本当の意味で関兵とは何なのか。
「あ、ていうか奏あんたどこ行ってたの?」
「どこって…?」
「所用がある、とか言って結局分からずじまいなのよ。そもそもあなたがいれば、私達戦う必要なかったじゃない」
「別に遊んでたわけじゃないよ。智彩と日影が状況を改善したなら、私は事態を解決したって感じかな?」
「言ってる意味が分からな–––」
「特殊個体」
「「!」」
何かを認知したように、考え込む二人に奏は胸の内を打ち明ける。
「考えてみれば妙なの。エネミーが突然姿を現すなんて普通なら起こり得ない状況だよ。智彩が教えてくれた集団疎通する特殊個体が一体、でもそいつがエネミーを呼び出すなら呼び出す数が少なすぎる。目的はどうあれ、関兵を本気で潰そうとするなら尚更。絶対に、それとは別でいるはずなんだよ。もう一体の特殊個体がね」
シーンとする空間。敵を倒すことで一杯だった二人にとってその答えは的を射抜いていた。
「根源とも言えるエネミーは部隊が戦っているずーっと奥で、高所から見下ろしてたよ。周りには五十体以上はエネミーがいたかな。当然始末したけどね」
肝をつぶす智彩と日影。当然だ、自分たちが戦っていたエネミーを大きく凌駕するエネミーを奏は相手にしていたのだ。気が動転するのも無理はなかった。
「みのりん、ちーち、つーちゃん。こういう事態は今後絶対に起きてくる。そう考えた時、私達関兵の人数は圧倒的に足りない。これは第七部隊に限る話じゃないけれど、いずれ人類は絶対崖に追い詰められる。今回の任務だって関兵から死者は出てないけど、通常部隊は少なくとも、五十人程度死人が出た」
現実的な数字を告げられ、三人に沈黙が流れる。このままじゃ対応できなくなる、そういった予感が徐々に浸透していった。




