5.もう一人の私、ふたりのリサ(前)
誰かが私を呼んでいる。私はそれに応えるように、目を開けた。
「ねぇ。……あら、気付いたの?」
そこは不思議な場所だった。明るくも暗くもなく、寒くも暑くもなく。私ともう一人以外は誰もいない、なんだか現実離れした謎空間。だから私は、夢をみているんだなと思っていた。
そんなぼんやりした私に向かって、私を起こしたであろう女性がほほ笑む。
「初めまして、ごきげんよう」
「?あなた、もしかして」
「そうよ、もう一人のリサ。わたくしはリスワール」
「あなたが……」
目の前の彼女がそうなのだと、私には名乗られる前から何故かわかった。確たる証拠はないけれど、確信していた。
向かい合ってみれば、どこか似ているような、まるで似ていないような。懐かしいような、知りもしない赤の他人のような。そんな、不思議な雰囲気をまとった彼女。
きっと彼女も同じように不思議に感じているのだろうと思う。
でも今は、そんなことより。
「リスワールさん!私、あなたに会えたなら訊こうと思っていたことが山ほど!まずは、そうだ、今どこにいるんですか?!生きてますか?ごはんは、寝るところはありますか?!」
まくしたてる私に、リスワールさんは眉根を寄せて嫌そうな顔をした。
「もう、せっかちね。嫌だわ、せっかくの初対面なのに」
「だって私たち、入れ替わっちゃってるみたいなんですよ?!」
「そのようね」
「そのようね、って……」
「だってそれは、わたくしたちにはどうしようもできないことだわ」
きっぱり。リスワールさん、なかなか潔いお方のようです。深窓のご令嬢かと思いきや、なんだか思ってたのと違う。でも思い返してみればアルルハイド様も、リサの子どものころはお転婆だったとは言っていたような。
そんなサバサバ系女子リスワールさんは、思わず言葉を失った私にやれやれといった表情でため息をついた。出会って数分の相手に分かりやすく呆れられてしまった……手がかかる身代わりですみませんね!
「まぁ、いいでしょう。情報交換は確かにすべきだもの。それで、確かわたくしの居場所でしたわね。なんとなくあなたにも想像できているのではなくて?」
「想像?まさか」
「そう、正解。あなたとして、リサとして暮らしているわ。あなたの居場所でね」
「やっぱり、そうだったんですね……」
「えぇ。あなたのご家族は皆さん良い方たちね。毎日が穏やかだわ」
「それなら、良かった」
一番ありえそうだとは思っていたけど、その通りだったみたいでほっとした。だって他人事では済まないくらい、リスワールさんはもう一人の私なのだ。どこかで凍死とかしている可能性だってあったわけで、本当に良かったと思う。でも、それならそれで、もう一つ問題があった。何といっても、私の居場所と彼女の居場所は、文化も何もかもまったく違う。こっちみたいに剣を携えた人がうろうろしていない分、日常的には平和かもしれないけど、暮らすとなるとそれ以前の問題だ。異世界暮らしの苦労を、わが身を持って知っている私が言うのだから間違いない。
それでも落ち着いて暮らしているというのなら、と安堵のため息を吐いた私をみて、リスワールさんはその大きな目を少し見開いた後、細めた。
「あなたもわたくしのことを心配してくれていたのね。ごめんなさい」
「そんなこと。それにアルルハイド様だって、あなたのことを心配してたんですよ」
「……そう、アルル様が。入れ替わったことも、やはり知っているのね」
懐かしそうなその声音。だけどその一言は、がつんと殴られたみたいな衝撃を私に与えた。
彼女の他には誰も呼ばないという彼の愛称。その『アルル様』という呼び方を使うただ一人のリスワールさんこそがアルルハイド様が待ち望んでいたものなのだと、いやでも思い出したからだ。
どうしよう。もしもその名前を優しく呼ぶ、彼の実の奥様である彼女が、戻りたいと思っているなら?
だって私の元の世界は、彼女の愛する人のいない世界なのだ。どんなに居心地がよくたって、戻りたいに決まっている。それにさっき彼女はどうしようもないと言い切ったけれど、アルルハイド様だってリスワールさんに会いたいはずなのだ。何度も私に彼の知るリサかと聞くくらいだもん。
だけど、私の恋心が邪魔をする。彼女と彼を、会わせたくない。二人の幸せを祈るなんて、できない。
好きな人の望みと自分の心に板挟みにされ、どうしたらいいのかと途方にくれていると、リスワールさんがまた眉根を寄せた。
「ねえ。なんとなく何を悩んでいるのか分かるけれど、勘違いよ。わたくし、そちらに帰るつもりなど毛頭ないわ」
「え?」
「アルル様にもう一度会おうとも、思っていないわ。だから心配しなくていいのよ」
「し、心配?でも、だって……リスワールさんはアルルハイド様を好きなんでしょ?愛してるんでしょ?」
「……あなた、さてはやっぱりわたくしの日記を読んだのね?」
「な、なんでそれを」
「なんとなくよ。半ば確信してはいたけれどね。あぁ、心配しなくても大丈夫よ。別に怒ったりしていないわ」
どうあっても人の日記を盗み読むのはよくない。それが本人にばれてしまうとは……冷や汗が流れたけど、リスワールさんの寛大な心で許された。よかった。
というより、挙動不審気味な私なんて気にしてもいないようで、彼女の視線は夢見るように、空へ彷徨った。
「わたくし、アルル様が好きだったわ。優しくて素敵な、私だけの王子様」
その追想の先はきっと、いつか雨の日にアルルハイド様が見ていたどこかと同じだと、なぜか思い当たってしまった。こころが、苦しくなる。だけどそれも、リスワールさんは私の目を見るまでのほんの一瞬のことだった。だって。
「だけど所詮、少女の憧れよ」
私の方が拍子抜けしちゃうくらいにはっきりきっぱりと、彼女は私と目を合わせて告げたから。
「そんな、あっさり」
「ふふ。それもこれも、あなたのお義兄様のおかげなのだけれど」
「え?」
私の兄と言えば、姉の婚約者である彼しかいない。しかしまさか、ここで彼の話題が出てくるとは。それに『お義兄様』って。
でも考えてみれば、私と彼女があの時を境に入れ替わったのだとしたら、彼女が私の逃げた後のあの世界で暮らしていたのは納得がいく。きっと予定通りに結婚したのだろうということも。
直前に歪みを作ってしまった私としては、どんな顔をしたらいいのか分からない。リスワールさんが何を話そうとしているのかも想像がつかなくて、体が強張った。
「彼が、どうしたんですか」
「そうね。彼がどうしているか、気になるわよね」
「え?」
「わたくしの目が覚めて、記憶喪失のような扱いを受けて。あなたのご家族は、とっても親切にしてくれたわ。ご両親も、お姉様も。でもね、お義兄様の態度だけは違和感があった。なんだかおかしいなと思っていたの。義理の妹とはいえ、幼い頃から仲良く遊んでいたにしては、よそよそしすぎるって。妻の妹がいきなりわたくしみたいな、何も知らないとんちんかんな小娘になってしまったから対応に戸惑っているのかしらとか、いろいろ考えていたのよ。でもなんとなく、傷ついたような罪悪感のにじむような、というのかしらね。そんな表情をするのが気になってね。その内ふと思いついてみたらやっぱり」
まくしたてるように話すリスワールさんが、ふふ、と肩をすくめて笑った。あれ、なんか嫌な予感が……!
「本棚の後ろから赤い日記帳が」
「赤い日記帳?!」
心当たりがありすぎる!
となると、さっきのリスワールさんの可憐な笑みがいじわるな笑いに思えてきた……どうか間違っていてほしいけど、こういう時に限って、嫌な予感はよく当たるのだ。
「……まさかみたの?」
「今更そんな。仕方ないでしょ。それにお互いさまじゃないの」
うわー、そういうことならさっきのも許すも何もない!全然寛大な心とかじゃなかった!同罪でした!
でもあれはー!あれだけはだめなやつだよー!思春期の脳内ピンクダダ漏れ妄想日記なのにー!
門外不出のはずの黒歴史の数々を思い出して奇声を発しながら悶々とし始めた私をよそに、テキパキ系女子リスワール様はちゃきちゃき話を進めていく。
「恋する乙女の日記帳なんて、古今東西同じようなものよ。わたくしのものだってそうだったようにね。そういうわけで、具体的な名前こそ出なかったものの、彼があなたの好きな人だってことは日記で知ったの。でも何かがあったことは確実そうなのに、肝心のそのことについては書かれていなかった。だから入れ替わる直前に何かが起きたのではないかと思い立って聞いてみたら、あなたが最後に会っていたっていうが件のお義兄様らしいじゃない?だから彼にわたくしがリサでないことを告げて、その時何を話したかを聞き出したの」
「うわーうわー!行動派すぎですリスワールさん!それにまさか入れ替わったって言っちゃうなんて!」
「だって、もやもやしたんだもの。彼なら本当のことを話しても信用できると思ったし、あなただってそう思えたからアルル様に言ったのではないの?」
「うぅ、それは……そうだけど」
嘘です。実際は、名前を間違えたところから、なし崩し的にバレただけです。だけどあまりにうっかりな大ポカすぎるので、そういうことにしておこう……。
私が彼をとても信頼していると言うのは間違っていないしね。結果論だけど。
「それに。彼が何を思ったのか、あなただって知りたいでしょう?言うだけ言って走って逃げたそうじゃない。あの時は追いかけることすらできないくらい呆然と見送ってしまった彼の思ったこと、冷静な今なら聞けるでしょう?」
「うっ……」
「……聞きたい、だけど怖い、ってところかしら。……解るわ。わたくしも同じだったもの」
「え、リスワールさんも?」
「えぇ。だって知っているでしょ?わたくしだってアルル様から逃げたの。それも寒い中、薄着のまま走ってね」
彼女がおどけたように笑って、同時に肩をすくめてみせるから、驚く。なんとなく既視感を覚えたその仕草は、彼と同じものだったから。
そして、好きなのに、愛してるのにと胸を痛めて、着の身着のまま屋敷を飛び出してしまったリスワールさんを想像した。目の前の彼女もその時のことを思い出しているだろうに、今はそれをただ懐かしそうに、笑うのだ。
そして今、彼女も私に、そう在れるようにと、伝えてくれようとしている。それがわかったから、他でもないもう一人のリサの言うことだから--耳を傾けられると、思った。
目が合ったリスワールさんは、私に聞く覚悟が整ったのを知ったんだろう。静かに、口を開いた。
「彼はね。何があったか私に教えてくれた後、リサに申し訳ないことをしてしまった、と謝っていたわ。ずっとあなたの気持ちに気付かず、残酷なことをしてしまったと」
「……迷惑だとは、言わなかったんですか?」
「まさか!そんなこと言う人じゃないことは、好きになったあなたがよく知っているはずでしょう?」
「そう、ですけど……」
「あなたの自責の念は、理解できるけれどね。それから、感謝しているとも言ったわ。好意を持ってくれたことは素直に嬉しかったと。でも妹にしか思えなかったし、これからはわたくしにもそのつもりで接していくときっぱり告げながら、よろしくと手を差し出すのよ。それからはもう、本当に分かりやすく妹扱いされたわ」
「そう、ですか」
「えぇ。誠実な人ね、あなたが恋をした方は」
「……うん」
リスワールさんは優しい目をして、たった今間接的に振られた私を見つめた。
結果なんてわかり切っていたことだった。もちろん両想いになれたなら幸せだったけれど、私を選んでお姉ちゃんを捨てるような男だったなら軽蔑すると、相反するような思いまで抱いていたくらいだ。
でも、もっと辛いと思っていたのに。つきりとどこかが痛んだものの、想像していたほどではない。それよりもむしろ、愚かなことをしでかした自分を責めたり恥じたりする思いの方が今なお強くて、戸惑った。だけどその内、全部が綺麗な思い出とまではいかないけれど、昇華されていく。
黙ったままの私を急かすことなく見ていたリスワールさんは、それに気づいていてくれたらしい。目が合うと、ほう、と長く息をついて、ほっとした顔を見せた。私の恋の終わりを、彼女より理解してくれる存在なんていないんじゃないかと、ふと思う。
そしてリスワールさんは「わたくしはね、」と静かに話し始めた。わかっている。今度はリスワールさんの番だ。
なんてこった、女子会は話が盛り上がりすぎるよ!
続く!