第18話「貴方の名前が」
「本を読んだらどう?」
そう言い出したのはジェンだった。
暇をもて余して魔王の執務室でごろんばたんとしていたら、魔王の側近に読書を薦められた。
「城のことを知るにも、読書は最適だと思うけれど」
そう言われ、リィは困った。
返答待ちのジェンとヴァルに、告げる。
「字が読めないから」
一瞬、ぽかりと沈黙が落ちた。
リィの暮らしていた教会に、子供が読むような物語は置いていなかった。
子供に本を読んで聞かせる時間があれば、用事を済ませるために大人は動く。
リィたちも、時間があればおこづかい稼ぎや掃除をしている。勉強でお腹は膨れない。
教えられる者もいなかった。
「ジェンティ、子供の読む本を揃えてやれ」
「はい」
溜め息をついたヴァルは、執務の手を止めて側近に命じた。
ジェンが承服し部屋を下がると、ヴァルはちらりとリィを見た。
「勉強する気はあるか」
問われてリィは首を傾げた。そんなことを聞かれたのは初めてだ。
リィにとっては言葉とは話せても読み書き出来ないのが当たり前で、習うことなど考えたことがなかった。
返答に窮していると、手元でさらさらと何かを書き付けたヴァルは、それを掲げて見せた。
リィには紙にミミズが踊っているようにしか見えない。
目を凝らして見ていると、ヴァルは唐突に「リルファーリア」と口にした。
「お前の名だ」
それが自分を表す言葉なのだと言われ、リィは思わず手を伸ばした。インクの軌跡を辿る。
線を引くことに慣れぬ拙い指先で、綴られた文字を追い掛けた。
「リィってどう書くの」
先程よりは短い文字列を、リィはゆっくりとなぞった。
「ヴァルは?」
問われてヴァルが妙な顔をする。くすぐったいのを我慢しているような。
何処か痒いところでもあるのだろうか。
リィは次々に知人の名前を挙げ、ヴァルが仕事の合間に書いてくれる。
名前を知っているのは、僅か数人。それでも紙はいっぱいになった。
紙をもらったリィは満足してそれを眺めた。
見てもリィには意味がわからない。線の一つ一つにどんな意味が込められているのか分からなくても、それが人の名前だと知っていると、急に身近に思えた。
「ヴァル」
「何だ」
「文字が書けるようになりたい」
「……そうか」
ヴァルは目を細めたようだった。
リィはインクの匂いを吸い込んだ。まだ乾いていなかったらしいインクがリィの手を汚す。
考えたこともなかったけれど、文字を学んでみるのも良いかもしれない。
そう思った。




