第十話 青空の中の空虚②
呼ばれて顔を上げると、レオンが数歩先で立ち止まっていた。
「……何?」
「いや。手、痛いのかい」
アリステラは首を横に振った。
レオンは閉じた扉へ一度だけ顔を向け、それから戻ってくる。
「行こうか」
「うん」
再び歩き出すうちに、耳に残っていた音も、手首を締めつけられるような感覚も少しずつ薄れていった。
病院を出ると、午後の光が街の建物へ反射して眩しかった。通りへ降りる階段には人が多く、アリステラは前から来た二人組を避けようと身体をずらした。
その拍子に、左の脇腹へ鈍い痛みが走る。
足が止まった。
「大丈夫かい?」
レオンも隣で立ち止まった。
「ええ」
アリステラは短く答え、また歩き出した。
しばらくして気づいた。
さっきまで右側にいたレオンが、いつの間にか左側を歩いている。人が前から来るたび、レオンの身体が自然にこちらとの間へ入った。
アリステラがその横顔を見ていると、すぐに気づかれた。
「何?」
「別に……」
「そう?」
「ええ」
「そっか」
二人はそのまま中央広場へ出た。
頭上では帰還した艦がいくつも行き交い、その向こうに、昼の光へ紛れた星がかすかに見えた。
広場は数日前より賑やかになっていた。建物のあいだには連合の旗が渡され、式典の準備をする人々が高い場所へ飾りや灯りを取りつけている。
頭上の大きな画面が切り替わり、《暁星の騎士》の肖像とともに数字が浮かんだ。
戦勝凱旋式まで、あと数日。
「……何、これ」
レオンも顔を上げる。
「凱旋式の準備かな」
「凱旋式?」
「あれ、聞いてない?」
「何も……」
答えたところで、胸元の軍用端末が短く振動した。届いたばかりの通知を開くと、差出元は軍中央司令部。その数行を読み進めたところで、アリステラは視線を止めた。
終戦記念凱旋式への出席要請。加えて、翌日の事前説明への出頭。要請と記されてはいるが、末尾には高位の将官の名と認証印がある。
「どうした?」
アリステラは端末から顔を上げた。頭上には、大きく映し出された《暁星の騎士》がいる。画面の中の女は、やはり迷いなく前を見ていた。
* * *
その夜、アリステラはいつの間にか眠りに落ちていた。目を開けたとき、頭上にいつもの天井はなかった。
暗闇の中で細長い白色灯が一つだけ明滅している。点いている間だけ、すぐ頭上まで迫った灰色の天井と、その表面を這う配管が見えた。
消える。何も見えない。数秒後また白い光が灯る。そのたび、暗がりの奥にいた何かが少しずつ近づいてくる。
身体を起こそうとしたが動かなかった。右腕を引いた途端、手首へ硬いものが食い込んだ。左も同じだった。肩を捻れば金属が擦れ、両腕に鈍い痛みが走る。
足にも力が入らない。
「う……っ」
拘束されている。
そう気づいた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「な、なに……」
掠れた声が耳元へ返ってくる。口の中はひどく乾き、息を吸っても足りない。
暗闇の左側から低い駆動音が響いた。機械が唸るたび、両手首を固定する金属がわずかに締まっていく。
「やめ――」
白色灯が消えた。暗闇の中で布の擦れる音が近づいてくる。
誰かがいる。
「だ、だれ……?」
頭上で金属が噛み合い、天井から黒い器具が降りてきた。大きな手にも見える形で、先端がゆっくり開き、額の上で止まる。
「待って、触らないで!」
逃げようと腕を引く。拘束具が手首へ食い込み、鋭い痛みが走った。
「やめて……、やめて、お願い」
冷たいものが額へ触れた。次の瞬間、頭の奥が焼けるように痛む。
「――っ!」
視界が白く弾けた。身体を捩るたびに拘束具が鳴り、手首から温かいものが流れた。
機械音の向こうで、誰かが何かを繰り返している。
何度も、何度も、何度も――。まるで、自分の名前を呼ばれているように。
「し、知らない!」
喉が震えた。
「わたし、知らない……っ」
誰か。
誰でもいい。
「いや……っ、たすけ――っ!」
そして、アリステラは身体を跳ね起こした。
「はあ、あ……っ、はぁ……!」
そこは暗い寝室だった。アリステラは布団を握りしめていた。
胸が激しく上下している。喉元へ手を当てると指先が震え、息を吸うたびに肩まで大きく揺れた。
窓の向こうには夜明け前の薄い光があり、寝台脇の空調表示が静かに点いている。白色灯も、あの機械音もない。両手首だけがひどく痛んでいる。
アリステラはしばらく俯いたまま呼吸を整えた。手首には新しい傷も、血の跡もなかった。
暗い場所。白い灯り。手首を締めつける硬いもの。
そこまでは残っている。
アリステラは枕元の時計を見た。起きる予定の時刻まで、あと一時間ほど。
窓の外では、空が少しずつ青白くなっていた。
* * *




