第九話 副官との再会③
アリステラの手が止まった。
振り返ると、路地の入口に一人の男が立っていた。
「……、……?」
黒髪が少し無造作に額へかかり、濃い色の外套の下には長身の身体が見える。男はこちらへ歩いてきたが、一定の距離を残したところで足を止めた。
金褐色の瞳が、まっすぐアリステラへ向けられている。
「その人はもう戦えない。そこから先は制圧じゃないよ」
穏やかな声だった。
アリステラは押さえ込んでいた男へ顔を戻した。
そう、確かに、もう抵抗していない。残る二人も立ち上がれず、壁や路面へ身体を預けて荒い息をしている。
そこで、自分の指に血がついていることに気づいた。
赤い筋が指の側面から掌へ伸びている。それが徐々に広がり、やがて掌を覆った。指の隙間から溢れた血が、手首を伝って袖口まで濡らしていく。
そんなはずはない。
分かっているのに。実際にはないはずの生温かさまで皮膚へまとわりつき、息が詰まった。
無意識に、押さえている腕へまた力が入った。
「アリステラ」
名前を呼ばれた。
顔を上げる。
「もういい。離して大丈夫だから」
男は近づいてはこない。その声だけが、騒ぎから切り離されたようにはっきりと聞こえてくる。
アリステラはしばらく掌を見つめ、それから少しずつ指を緩めた。血に濡れているように見えた手を、ゆっくり握り、また開く。
男の腕が路面へ落ちた。
「……なんで、私の名前を知ってるの」
男の目が僅かに細くなる。
「知ってるよ。俺も君と同じ《星の騎士》だ」
短い間を置いて、男は名乗った。
「レオンディール・グレア・デ・フィオール」
アリステラは聞いた名前を頭の中で一度繰り返した。
レオンディール・グレア・デ・フィオール。
「フィオール、卿」
「レオンって呼ばれてる」
「……レオン」
「うん」
表情はほとんど変わらない。ただ、闇の中でも目立つような金褐色の瞳が瞬いた。
「士官学校の同期だった。記憶のことも聞いてる」
「――士官学校?」
聞き返したが、レオンはそれ以上のことは言うつもりがないようだ。外套の内側から布を取り出し、アリステラの手へ触れる代わりに差し出してくる。
「使う?」
差し出された布を、アリステラは少し迷ってから受け取った。
「……ありがとう」
「うん」
レオンの視線が、アリステラの肩越しへ移る。
倒れていた三人が動き始めていた。最初に立ち上がった人間の男は、右腕を庇いながら二度ほど足を滑らせた。鱗の男も壁へ手をつき、もう一人を引き起こそうとしている。
アリステラが人間の男と目を合わせると、男の顔はみるみるうちに強張っていった。
「……い、いくぞ!」
三人は互いを支えながら立ち上がり、転びかけた仲間を引っ張るように路地の奥へ逃げていった。あとには、割れた酒瓶と短銃だけが残った。
レオンは三人が消えた路地の奥をしばらく見て、それからアリステラへ向き直った。
「この辺り、夜はあまり治安がよくないんだ。家まで帰れる?」
「……帰れる」
「じゃあ、送るよ」
アリステラは眉を寄せた。
「一人で帰れる」
「うん」
そう答えたくせに、レオンは帰ろうとしない。路地の外へ向かって歩き出し、数歩先で振り返る。
アリステラはその背中を少し眺めてから、結局あとを追った。
大通りへ戻ると、戦争の終結を祝う式典の飾りが建物のあいだに渡され、大きな画面には参加する騎士たちの姿が次々と映し出されていた。
レオンは一度だけそちらへ顔を向けたが、何も言わず通り過ぎた。しばらく歩くと、無人の店の前で足を止めた。
「ちょっと待ってて」
店へ入り、壁際に並んだ冷蔵棚の前まで進む。いくつかの瓶を見比べたあと、迷う様子もなく淡い青色の飲み物を一本取った。
アリステラは入口のそばからその様子を眺めていた。
レオンは会計台に瓶を置き、小さな端末へカードを触れさせる。短い音が鳴るとそのまま瓶を持って戻ってきた。
「飲む?」
「私に?」
「うん」
「……なんで」
「喉、乾いてるだろ」
レオンは瓶を差し出したまま、少し首を傾ける。
「嫌なら別のにするけど」
アリステラは受け取り、一口飲んだ。柑橘に似た酸味のあとから、柔らかな甘さが広がった。乾いていた喉にも心地よい。
もう一口飲むと、レオンの口元が少し緩んだ。
「よかった」
「何が?」
「いや。飲めそうで」
レオンはまた歩き出した。アリステラも瓶をまったまま遅れて隣へ並ぶ。家へ近づくにつれて人影が減り、街の灯りも疎らになっていった。
「夜、よく出てるの」
ふいに、レオンが訊いた。
「……今日は眠れなかっただけ」
「そう」
レオンは理由を訊かなかった。
何も聞かれないことが返って気まずい。アリステラは手の中の瓶を見下ろした。淡い青色の液体が歩くたびに小さく揺れている。
互いに話すこともないまま歩くと、やがてミシェノケイラ邸の門が見えてきた。
「ここまででいいね」
「家、知ってたの?」
「何度か来たことがあるから」
父も兄も《星の騎士》だという。それならば、彼らの知り合いだったのかもしれない。
アリステラはレオンを見た。
妙な人だ。昔の自分を知っているはずなのに、何も教えようとしない。
目を覚ましてから出会った人たちは、皆それぞれに昔のアリステラを教えてくれた。好きだったもの。子どもの頃のこと。戦争で何をしていたのか。
レオンだけは、何ひとつ差し出してこなかった。
「へんな人」
「そうかもね」
レオンは頬を掻いた。
「じゃあ、これで……」
「――レオン」
名前を呼ぶと、彼が振り返った。
目を少し見開いている。アリステラ自身、なぜ呼び止めたのかは分からなかったが、ただ、もう一度その名前を口にしてみたかった。
けれど、レオンがあまりに驚いた顔をするので、急に不安になる。
「名前……間違えた?」
一瞬だけ目を丸くしたあと、レオンは言った。
「あ、いや。ううん。合ってるよ」
声が和らいだ。
「ありがとう、アリステラ」
アリステラは小さく頷いた。
「じゃあ、アリステラ。星々が、あなたを導きますように」
その言葉はもう知っている。
「……あなたも」
レオンは一度だけ目を伏せた。何かを飲み込むように喉がわずかに動き、再び顔を上げる。
アリステラは門の前に立ったまま、その背中が街灯の向こうへ紛れるまで見送った。




