第九話 副官との再会②
* * *
夜になると、家の中は静かになった。
昼間は階下からユミーラの立てる物音が聞こえ、ルーディンが帰ってくれば話し声もする。ディランとも夕食の席で言葉を交わすようになった。
だが、皆が部屋へ戻ったあとは、家の中からほとんど音が消えてしまう。アリステラは寝台に横になり、薄暗い天井を見つめていた。
眠れない。
壁の向こうで水の流れる音がする。しばらくすると、今度は庭を回っている機械の音が窓の下を通り過ぎた。どれも、この家では当たり前の音なのだろう。
それでも、音がするたびに身体が強張った。静かになれば安心できるわけでもなく、次の音を待つように耳が冴えていく。
目を閉じていることにも耐えられなくなり、アリステラは寝台を抜け出した。
少し歩いて身体を疲れさせれば眠れるかもしれない。それくらいのつもりで、こっそりと敷地を抜け出す。夜気に触れている方が、部屋にいるより息がしやすい。
そのまま歩いているうちに、ミシェノケイラ邸のある居住区を離れ、アリステラは中央市街まで来ていた。
数日後に控えた凱旋式の準備で、夜の街にはまだ多くの灯りが残っている。
建物のあいだには星環院の紋章を織り込んだ光幕が渡され、頭上では長い鰭のような膜を持つ作業用浮遊生物が移動しながら飾り灯の位置を整えていた。大通りの広報壁では、式典へ出席する騎士たちの肖像が順番に切り替わっていく。
その途中で、一人の女が大きく映し出された。
濃紺の髪を整え、礼装をまとったアリステラ・フィア・レ・ミシェノケイラが、まっすぐ正面を見ている。
いつ撮った写真だろう。街を歩けば歩くほど、知らない自分が増えていく。
家には自分が使っていた部屋があり、家族には自分との思い出がある。そして街には、戦争を終わらせた騎士としての自分がいた。
いったい、自分は何をしたのだろうか。
アリステラは立ち止まらず、その画面の下を通り過ぎた。
まだ家へ戻る気にはなれなかった。
人の多い通りを抜けると、酒場や夜遅くまで開いている店が並ぶ一角へ出た。式典の飾りもこの辺りまでは届いていない。店先の赤や青の灯りが路面へ落ち、行き交う人々の足元で揺れていた。
「ねえ、お姉さん」
後ろから声をかけられた。
アリステラが振り返ると、路地の入口に三人の男が立っていた。
一人は人間だった。顔が赤く、足元も少し覚束ない。隣の長身の男は肩から首にかけて細かな鱗に覆われている。もう一人は頭の左右に薄いひれのような器官があり、空になった酒瓶をぶら下げていた。
「こんな時間に、ひとりぃ?」
アリステラは答えず、その横を通ろうとした。
「おっと」
人間の男が前へ出た。
「無視することないだろ」
「通して」
「ちょっとくらい付き合ってよ。なあ」
男が肩へ手を伸ばしたが、触れられる前にアリステラの手が動く。
伸びてきた手首を掴んで外側へ捻り、そのまま男の脇へ入る。肘を押さえて体勢を崩すと、男は声を上げる間もなく路面へ膝をついた。
「なっ――、この!」
横から鱗の男が腕を伸ばしてくる。
アリステラは身体をずらしてかわし、その腕を掴んで引いた。前へ崩れた身体を肩で押すと、男は壁へぶつかった。鈍い音が路地に響く。
「てめえ……!」
三人目が酒瓶を振り上げた。
アリステラは一歩踏み込んだ。瓶が振り下ろされるより早く腕の内側へ入り、肘で手首を跳ね上げる。酒瓶が手から離れたところへ、続けて掌を胸元へ打ち込んだ。
男が息を詰まらせ、数歩よろめく。
そのとき、最初の男が立ち上がりながら腰へ手を伸ばした。
そこにあるものが見えた瞬間、考えるより先に分かった。
銃だ。
視界が急に澄んだ。
男の指が銃へかかる。
次の瞬間には、ルーメンが動いていた。
抜きかけた銃が男の手から弾かれ、路地の奥へ飛んでいく。金属が地面を跳ね、乾いた音を立てて止まった。
三人の位置。落ちた銃。路地の出口。背後を通る人影。
鱗の男が再び向かってくる。
アリステラは振り抜かれる腕をかわし、足を払った。男が膝をつく。その肩を押さえて地面へ倒したところへ、背後から別の足音が迫る。
振り向きざまに肘を入れると、人間の男が呻いた。
手首を掴み、腕を背中へ回す。そのまま身体を地面へ伏せさせ、関節を押さえ込んだ。
「やめろ、おっ、折れる! いてえ、折れるって!」
男の叫びが耳に刺さった。腕はもう取っている。銃もない。抵抗もできない。
それでも、指が緩まない。だんだん、呼吸が浅くなる。
——まだ。
まだ動いている。
やらなければ、やられる。
腕を押さえる。肩を固める。起き上がれないように体重をかける。
男の関節が限界まで捻れ、路面へ押しつけられた頬が苦痛に歪んだ。
「やめろって!」
声が遠のいた。周囲の音まで一枚隔てた向こうへ沈んでいく。男の口が動いているのは見えるのに、何を叫んでいるのか分からない。
逃げられないように。反撃できないように。二度と武器へ手を伸ばせないように。
――もっと。
指先に力が入る。
――ここでやらないと。
「そこまでだ」
その声だけが、沈んでいた音を切り裂いた。
アリステラの手が止まる。途端に、荒い呼吸が耳へ戻ってきた。胸が速く上下し、喉の奥がひどく乾いている。
「《星の騎士》は、無用な暴力は禁止だよ」




