第九話 副官との再会①
第九話
副官との再会
* * *
退院の話が出たのは、家族との面会を何度か重ねた頃だった。
その日、病室にはエダのほかに軍医が二人と、星環院から来たらしい年嵩の男がいた。検査室でも何度か見かけた人物だった。窓際にはユミーラとルーディンが並び、ディランは少し離れた場所に立って待っていた。
「身体の状態は安定しています。日常生活へ戻るうえで、大きな問題はありません」
軍医は手元の端末を確認しながら続けた。
「記憶については、今後も経過を見ていきましょう。生活の中で、場所や人、以前使っていた物がきっかけになる可能性はあります。ただ、どこまで回復するかは、まだ判断できません」
アリステラは黙って聞いていた。
似た説明は何度か受けている。昔暮らしていた場所へ行くこと。知っていた人に会うこと。使っていた物に触れること。そうしたものが、失われた記憶へ繋がるかもしれない。
「ご実家へ戻られることも、一つの選択肢ですね」
星環院の男が口を開いた。
「慣れた環境で過ごす方が、本人の負担も少なく、記憶の回復にも――」
「……思い出さなくてもいいんです」
ユミーラの声が重なった。
部屋が静かになった。
「お母さま」
「この子が思い出したいなら、そのときは支えます。でも、思い出さなければならないみたいに言わないでください」
口調は穏やかだったが、ユミーラの男を見る目は鋭かった。
「帰ってきてくれたんです。それだけで十分です」
ルーディンが目を伏せる。ディランも口を挟まなかった。
アリステラは三人を見た。
思い出さなくていい。
そう言われれば、安心してもよさそうだった。けれど胸の奥には、細い棘のようなものが残った。
本当に自分を気遣っているだけなのだろうか。それとも、思い出さない方がいいことまであるのだろうか。
今のアリステラには、その違いを確かめる術がない。
「……家、帰る」
ユミーラがハッとしたようにアリステラを見る。
「ええ。あなたが嫌でなければ」
「どこにいくの?」
「中央星系のミシェノケイラ邸よ。あなたがずっと暮らしていた家」
ずっと。
「……そうなんだ」
小さく頷き、アリステラはそこへ帰ることを決めた。
* * *
退院の日、病院を出ると、外の光は思っていたより眩しかった。
空には輸送艇が行き交い、その影が建物の壁を横切っていく。遠くでは小型艇が次々と上空へ昇っていた。
家族と同じ車両へ乗り込むと、ルーディンが隣に座り、ユミーラは向かい側へ腰を下ろした。ディランは前方の席についた。
アリステラは窓の外を流れていく街を眺めた。
見覚えがあるような建物もある。けれど、何かが胸を打つことも、懐かしさが込み上げることもないまま、車両は高い外壁に囲まれた敷地へ入った。
「着いたわ」
ユミーラが小さく言った。
車両を降り、アリステラはしばらく建物を見上げた。
石材に似た淡い灰色の外壁と、黒い金属の骨組み。その前には低い庭が広がり、細長い葉を持つ樹木の下を、小さな羽虫のような生物が青白い光をまとって漂っている。
「ここ?」
「そうよ」
まだ建物を見上げているアリステラを、ルーディンが少し可笑しそうに振り返った。
「そんな顔するんだ」
「……大きい」
「昔は何とも思ってなかったのにね」
「ルーディン」
「はいはい」
ユミーラにたしなめられ、ルーディンが肩をすくめる。そのやり取りに促されるように、アリステラも玄関へ向かった。
扉を抜けた瞬間、木に似た匂いがした。
足がわずかに止まる。
知っている。その匂いには覚えがある。
「……わたし、ここ、知ってる」
「えっ」ユミーラが驚いたように口に手を当てた。
「本当か?」と、ルーディンが明るい顔をして言う。
アリステラはぼんやりと頷きながら、何かの力に引かれるように歩き出した。
壁には星環院の古い紋章と家族の写真が並び、廊下の奥には剣を掛けるための台が置かれている。
アリステラはそちらへ目を向けた。二本の剣が掛かっていた。その隣に、一つだけ空いた場所がある。
——なぜかそこだけが妙に目につく。
「疲れたら、すぐ休んでいいからね」
ユミーラの声で、アリステラは顔を上げた。
「部屋、見る?」
少し迷ってから頷く。
二階へ上がり、廊下の奥まで進むと、ユミーラが一つの扉の前で立ち止まった。伸ばしたその手は、取っ手へ触れる寸前で止まった。
「開けてもいい?」
アリステラは頷いた。
扉が開く。
そこは思っていたよりも簡素な部屋だった。
大きな窓と壁際の本棚と作業机。その向かいには寝台があり、棚には訓練用らしい手袋や古い通信端末が置かれている。机の端には、小さな星図投影器が畳まれたまま残っていた。
机の角は少し擦れ、窓際の椅子には細かな傷がついている。本棚もきれいに並んではいるものの、手前へ出ている本と奥へ押し込まれた本があった。
ゆっくり中へ入る。
机の上に、薄い銀色の留め具が置かれている。
手に取ってみても用途は分からない。棚には古い訓練記録や星図の断片、何かの記念章が並んでいた。
ひとつずつ見ても、何も浮かばない。
アリステラは机の引き出しへ手をかけた。その中には細かな私物が残っている。そして奥から、古びた小さなブラシが出てきた。
アリステラはそのブラシを手に取った。
自分の髪を梳かすには小さすぎ、人間用ではなさそうだ。手のひらに収まるほどの大きさで、柄には細かな傷がついている。そして、ブラシの歯の間には、短い銀灰色の毛が数本残っていた。
アリステラは指先でその毛へ触れた。
「これ、……」
ユミーラはブラシを見たまま動かなかった。
「昔、使っていたものよ」
ユミーラが答えた。
「何に?」
すぐには返事がなかった。ルーディンの唇がわずかに動き、そのまま閉じた?アリステラはそれを見ていた。
やがてユミーラが静かに息を吐く。
「あなたが、大切にしていた子のものよ」
「大切な、子?」
手の中のブラシへ目を落とした。
銀灰色の毛が、光の中でわずかに揺れた。
——大切にしていた。
その言葉を聞いても、胸の中には何も浮かばない。懐かしくもない。悲しくもない。ただ、何も感じられないことだけが、妙に寂しい。
大切な子。それは、今どこに。
もう一度ユミーラを見る。
アリステラは、その顔を見て問い詰めようとは思えなかった。
隠しているというより、口にするのをためらっている。その違いがありありとわかってしまったから。
アリステラはブラシを元の場所へ戻した。引き出しを閉じると、小さな音が部屋に響いた。
「……そうなんだ」
窓から差し込む夕方の光が、床の上をゆっくり伸びていた。




