第八話 記憶にない家族②
アリステラは、はっとして頬に手を当てた。指先が濡れている。
「アリス?」
ユミーラに呼ばれたところで、今度は反対側の頬を一滴がゆっくり流れ落ちていく。
涙だった。
気づいた途端、胸の奥が急に狭くなった。息を吸おうとするたび、押し込めていたものが喉元までせり上がってくる。
「なんで……どうして……」
三人は静かにアリステラを見ていた。
何を言いたいのか、ずっと、うまく言葉にならない。ただ、目の前の三人は自分のことを知っている。その記憶を、自分だけが持っていない。それが急に耐え難くなってきて、大きな波のようにアリステラを襲った。
「わ、分からないの」
ようやく絞り出した声は、みっともなく震えていた。
「あ、あなたたちのこと、今は分かるのに……その前が、なに、何も出てこないの」
ユミーラの顔がくしゃりと崩れる。
「ご、ごめんなさい。みんな、私のこと知ってるのに。わたっ、私だけ、覚えてなくて……!」
そう口にした途端、涙が次々と溢れた。
「ごめんなさい」
「アリス」
「ごめん……なさい。お、思い出せなくて……」
「謝らなくていい」
答えたのはディランだった。
低い声はいつもと変わらず落ち着いていたが、その目には、痛みが浮かんでいる。
「お前が謝ることではないよ。それに、私たちは覚えている。これから、新しい思い出も作っていこう」
ルーディンも静かに頷く。
「僕も覚えてるよ。たぶん、君が忘れていてほしかったことまでね」
「ルーディン」
「あ、いや。笑ってくれるかと思ってね」
アリステラは笑うことはできなかったけれども、ルーディンが気を遣っていることは伝わった。
「アリス。抱きしめてもいい?」
ユミーラはそっと腕を広げた。
アリステラは返事をしようとしたが、声が詰まって、代わりに小さく頷いた。
ユミーラはゆっくり近づき、傷へ触れないように腕を回した。最初の日とは違う、確かめるような弱い抱擁だった。
肩と背中へ触れる腕は柔らかく、アリステラが離れようと思えば、いつでも離れられるくらいの力しか入っていない。
それなのに、その腕の中へ入った瞬間、強張っていた肩からふっと力が抜けた。
温かい。
この温度は、覚えている。
「あ……あぁ……っ!」
ユミーラの服に頬が触れ、微かな呼吸の動きが伝わってくる。胸元から聞こえる心臓の音は少し速く、それでも一定の間隔で続いていた。
アリステラは下ろしていた腕をゆっくり持ち上げた。
触れてもいいのだろうか。
一瞬迷ってから、指先をユミーラの服へ置く。薄い布地を弱く掴むと、背中へ回っていた腕がほんの少しだけ震えた。
「……アリス」
名前を呼ばれるとまた涙が溢れてくる。
理由を考える余裕はなかった。ただ、この腕から今は離れたくなかった。
ルーディンは少し離れた場所で目元を押さえ、ディランは何も言わず、最後まで娘から視線を外さなかった。
アリステラはユミーラの肩口へ額を寄せ、しばらく声を殺して泣いた。
* * *
三人が帰ったあとの病室は、急に広く静かになったかのように感じられた。
ユミーラ。ディラン。ルーディン。
名前を思い浮かべれば、それぞれの顔が浮かぶ。ユミーラが笑う顔。ルーディンが困ったように首を傾ける姿。ディランが黙ってこちらを見るときの目。
彼らを忘れたくない。
アリステラはいつまでも彼らのことを繰り返し思い浮かべて、眠りについた。
翌朝、いつもの時間にエダが病室へ入ってきた。
「おはようございます。今日は少し早く目が覚めましたね。今朝は果物もありますよ。前に少し食べてくれたものと同じです」
エダはいつものように一人で話しながら、食事の卓を寝台脇へ寄せ、測定端子へ手を伸ばした。
「おはよう……」
エダの手が止まる。
アリステラが見返すと、エダは一度唇を引き結び、それからいつもより少しゆっくり微笑んだ。
「おはようございます」
その日、アリステラは、これからは必要なことは口に出そうと思った。
水が欲しければそう伝え、食べたくなければ断る。寒ければ毛布を頼み、検査室へ連れていかれれば何をするのか訊いた。
終わりが見えなければ、あと何回あるのかも確かめ、答えたくないときは黙ることにした。そう拒否しても、誰もアリステラを責めなかった。それだけで、少しずつ息がしやすくなった。
検査室には、いつの間にか星環院の騎士や軍服姿の人間が増えていった。どうやら、自分がしていることは普通ではないらしいことに気づくのにも、そう時間はかからなかった。
ある午後、エダが病室の贈り物――アリステラには誰からのものだかほとんど分からないが――を整理しているのを眺めながら、アリステラは以前聞いた言葉を思い出した。
「本当に戦争を終わらせたの」
エダの手はぴたりと止まった。
「……覚えていたんですね」
「あなたが言ったから」
「そう、でしたね」
「本当?」
「……はい」
アリステラはしばらく彼女を見て、訊き直した。
「私は、何したの?」
「詳しいことは、……、私からは」
「またそれ?」
エダが困ったように黙る。
以前なら気にも留めなかったその間も、表情も、今は妙に引っかかった。
「みんな、何か隠してる。家族も、みんなも……」
ユミーラが自分の手首へ目を落としたときも、ほんの一瞬だけ笑顔が消えた。その横で、ルーディンもディランも何も言わなかった。
アリステラは毛布の上へ置いた自分の手を見る。
「私……何したの?」
エダの顔から、わずかに血の気が引いた。
返事はない。けれど、アリステラにとってはその表情だけで十分だった。
戦争の英雄と呼ばれる《星の騎士》アリステラは、こうして周りの人たちの表情を曇らせる何かをしたのだ。目の前の人たちが、揃って言葉にするのを躊躇うような何かを。
その夜、病室の照明がゆっくり落ち始めた。天井の白い灯りが一つ消えた途端、アリステラを包んだのはやはり恐怖だった。
怖い。
分からないけれど、怖い。この暗闇が。一人ぼっちのまま取り残されることが——。
「消さないで」
消灯しようとしていたエダが、すぐに振り向く。
「照明ですか?」
「全部は……、ごめんなさい」
「分かりました。残しておきますね」
入口脇の補助灯だけが残り、淡い橙色の光が床へ細長く伸びていた。家具の輪郭も、自分の手足も見えている。身体を押さえつけるものは何ひとつない。
暗くない。
縛られもしていない。
それでも両手首の奥がじわじわと疼き始める。
アリステラは片方の手首を、もう片方の手で包んだ。
目を閉じればユミーラの顔が浮かぶ。ディランもルーディンも思い出せる。エダが朝に何を言ったのか、今日どんな検査をしたのかも残っている。
目を覚ましてからの日々に、少しずつ人の顔が増えていた。
けれど、そこから先へ辿ろうとすると、何も浮かばない。二十六年分の出来事の代わりに返ってくるのは、両手首の痛みと、暗闇への恐怖だけだった。
この後のエピソード投稿の順番を間違えてしまっていたため、投稿修正しています。また、少しだけ本文の表現を見直しています(2026/9/9)




