第八話 記憶にない家族①
第八話
記憶にない家族
* * *
「よかった……本当に、よかった……」
女の腕がアリステラの背中へ強く回っている。まだ治りきっていない脇腹に少し痛みが走ったが、何も言えなかった。肩口へ落ちる涙は熱く、触れている身体は細かく震えていた。
初めて――そう、初めて会った人だった。
女の向こうには、金髪の男が二人立っている。一人はまだ若く、もう一人は背が高い。どちらもアリステラから目を離さず、何かを堪えるような顔をしていた。
「――母さん、少しだけ離れて。アリスはまだ傷が治りきってない」
若い男が、責めるというより宥めるように声をかけた。
「分かってるわ。分かってるけど……」
女はようやく腕を解いた。それでも両手はアリステラの腕に残ったままで、頬や目元を確かめるように顔を覗き込んでいる。やがて、また瞳に涙が滲んだ。
「痩せたわね。ちゃんと食べられてる? 痛いところはない? 眠れているの?」
「母さん!」
「分かってるわよ。ごめんなさい。一度に訊かない方がいいわね」
若い男が少し困ったように笑った。もう一人より明るい金髪で、目尻がわずかに赤い。
「僕はルーディン。……君の兄だ」
アリステラとのあいだに少し距離を残したまま、ゆっくりと名乗る。
「こっちが父さんのディラン」
背の高い男が一歩だけ前へ出た。
改めて見ると、ルーディンと同じ金髪をしている。病室の中でも姿勢は崩れず、胸元には星環院の騎士章が留められていた。ルーディンの服にも、同じ系統の徽章がある。
ディランはしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「記憶がないことは知っている。急がなくていい。私たちのことも、自分のことも、無理に思い出そうとしなくていい」
その声を聞いていると、不思議と肩の力が少し抜けた。
「アリス、お前がここにいる。それだけで……今は十分だ」
女は涙を拭い、ようやく笑みを浮かべる。
「私はユミーラ。あなたのお母さんよ」
さっきルーディンがそう呼んでいたから、分かっていたはずだった。それでも本人の口から聞くと、「母」という言葉だけが妙に浮かんでいる。だが、アリステラの青みがかった黒い髪は、目の前の女とよく似ていた。
ユミーラ。ディラン。ルーディン。今日会うと聞かされていた三人の名前が、ようやく目の前の顔と結びついた。
けれども、その日は、それ以上あまり話をしなかった。
ユミーラは何度も何か言いかけ、そのたび口を閉じた。ルーディンも質問はせず、病院の食事は美味しいかと訊くくらいで、ディランはほとんど黙っていた。
「また来てもいい?」
少しのぎこちない空気を感じていていたアリステラは、その言葉に少し迷ってから頷いた。
「アリステラ」
ディランが言う。
「星々が、あなたを導きますように」
その言葉には、なぜか覚えがあった。
《星の騎士》が交わす、古い祈りにも似た挨拶。無事であること。進む道を違えないこと。帰る場所を失わないこと。
そんな意味だった。その確信が浮かび上がった。
「……あ、りが、とう」
ディランの目元がほんの少し柔らかくなり、三人は病室を出ていった。
* * *
次の日も、両親と兄はやって来た。
ユミーラは小さな包みを持っていた。病院の許可を取ってきたらしく、中には甘い香りのする焼き菓子が二つ入っていた。
「昔、よく食べていたの。無理なら食べなくていいからね」
アリステラは一口だけ齧った。柔らかな生地に蜂蜜の甘さが染みている。
「……ど、どう?」
「甘い……」
「ふふ、そうね」
ユミーラは口元に手を当て、柔らかく笑った。アリステラはその微笑みに不思議な気持ちを覚えた。
その笑い方が、一番嬉しい、というような。
しばらくして、二人のやり取りを見ていたルーディンが、窓の外を眺めながら口を開いた。
「君、昔から窓際が好きだったんだよ。家族で長距離船に乗ると、必ず窓側を取ってた。僕が先に座るとすごく怒るんだよね」
アリステラは窓の向こうへ目をやった。人工庭園の木々が、風に合わせてゆっくり揺れている。
「……そうなの」
「うん。まあ、僕も意地悪だったけど」
ルーディンはそこで話を切り上げ、今度は庭に妙な鳥が来ているらしい、と別の話を始めた。
その次の日も、また別の日も、三人の誰かが病室へ来た。
毎回そろっているわけではなかった。ユミーラが着替えや食べ物を持ってくる日もあれば、ルーディンが一人で現れて、病院の庭で見かけた妙な鳥や中央で起きたどうでもいい出来事を話して帰る日もある。
ディランは一人で来ても、あまり話さなかった。
窓際の椅子へ座って端末を読み、アリステラが眠っているときは起こさない。目を覚ますとすでに帰ったあとだったこともあった。
ある日、眠りから覚めると、その日はまだディランがいた。窓際の椅子に座り、橙色の光の中で端末を読んでいる。いると思っていなかったせいで、アリステラはしばらく声も出なかった。
そして、ただしばらく、その横顔を見ていた。
やがてディランが顔を上げ、目が合う。
「起きたか」
アリステラが頷くと、それだけで会話は終わった。妙な沈黙だった。けれど、最初に三人が病室へ来た日のような居心地の悪さはなかった。
そんな日が重なるうち、昔の話も少しずつ増えていった。木から降りられなくなったことも、兄と喧嘩をして何日も口を利かなかったことも、怪我をした鳥を家へ連れ帰ったことも、アリステラにはどれも知らない誰かの話のように聞こえた。
それでも家族は楽しそうに覚えていた。誰かが話せば別の誰かが訂正し、そこからまた別の話へ逸れていく。アリステラはそのやり取りを黙って聞いていた。
思い出せるかと訊かれることはなかったし、思い出したふりをする必要もない。
そうしているうちに、今ここにいる三人のことなら、少しずつ分かるようになってきた。
ある日、ユミーラがふいにアリステラの顔を覗き込んだ。
「あなた、小さい頃からそういう顔をするのよ」
何のことか分からず、アリステラは眉を寄せた。
「ほら、それ。考え込むと、すぐそこに皺が寄るの」
ユミーラが自分の眉間を指で示す。
「怒ってるわけじゃないのに、ルーディンは昔、怖がってたわ」
「今も少し怖い」
「ルーディン」
「冗談だって」
ルーディンが笑い、ユミーラもつられて笑った。少し離れたところでは、ディランの口元もわずかに緩んでいる。
アリステラは三人の顔を見た。
この人たちは知っている。
自分がどんな顔で考え込むのかも、何に腹を立てたのかも、六歳の頃に木から降りられなくなったことも。自分が知らない時間を、当たり前のように覚えている。
母と呼べば、ユミーラは喜ぶのだろうか。兄さんと呼べば、ルーディンは笑うのだろうか。ディランには、どんな顔を返せばいいのだろう。
そう考えているうちに、アリステラの頬へ何かが触れた。
遅れて、それが涙だと気づいた。




