第七話 記憶のない英雄③
「あっ……」
その声で、アリステラは我に返った。
気づけば、男の腕を捻り上げ、背中を壁へ押しつけていた。男の手からこぼれ落ちかけているのは黒い通信端末だ。銃でも、刃物でもなかった。
「……ご、ごめん、なさい」
掠れた声をどうにか押し出すと、男は痛めた手首を押さえながら慌てて首を振った。
「い、いえ! ええ、大丈夫です。こちらこそ、驚かせてしまって」
その言葉にそっと息をつきながら、アリステラは自分の右手へ目を落とした。
指先には何もついていない。
一瞬だけ、掌から手首までが赤黒く濡れて見えた。生温かいものが指の隙間を伝って落ちていく感触までして、思わず手を開く。けれども、そこにあるのは白い皮膚だけだ。瞬きをすれば、赤いものは跡形もなく消えていた。
「あのぅ、大丈夫ですか?」
「あ、……、はい、大丈夫、です。ごめんなさい……」
アリステラは開いたままの掌を見つめる。
考えるより先に身体が動いていた。こんなふうに、迷いなく動けただろうか。
その疑問が浮かんだ途端、身体の奥がすっと冷えていく。
アリステラは右腕を左手で抱えるように掴んだ。力を入れたつもりはないのに、その手を離すことができなかった。
「い、行きましょうか?」
気まずそうな医療職員に促され、再び廊下を歩き出す。
連れていかれた検査室には、透明な試験片が五つ並べられていた。
「ルーメン反応を確認します。まず、中央の一つだけを浮かせてください」
検査官が示した中央の試験片へ意識を向ける。
次の瞬間、五つすべてが床を離れた。
室内が静まり返った。アリステラは宙に浮かんだ試験片を見て、それから向かいにいる検査官たちへ目を移した。
「これ……」
「はい。そのまま維持できますか」
今度は二つだけを止めるよう指示された。意識を向けると二つがその場に留まり、残る三つは別々の方向へ滑っていく。互いにぶつからないよう軌道をずらし、回転まで変えるよう求められたが、どれも思った通りに動いた。
腕を振る必要も、力を込める必要もなかった。右へ、と意識を向ければその通りに滑り、止めようと思えばその場で静止した。そのたびに、検査官の視線が端末と試験片のあいだを行き来する。一人が何度か数値を確認したあと隣室へ入って行き、しばらくすると窓の向こうに人が増えていた。
濃紺の軍服を着た年嵩の男と、胸元に星環院の徽章を付けた二人。そのうち一人は騎士用の礼装に似た服を身につけている。
誰もこちらへ声をかけてこない。ただ、アリステラが試験片を動かすたびに何人かが端末へ目を落とした。
なぜ、そんなに見るのだろう。
検査はさらに細かくなった。一つだけへ強い干渉を加えながら残りを静止させ、次には五つそれぞれへ違う出力を与えるよう求められた。
一発目が中央へ入った。二発目もほとんど同じ場所へ入り、三発目は最初の着弾痕へ重なった。
褒められても、特に嬉しくはなかった。次の指示を待ち、それに応じて試験片を動かす。それだけで時間が過ぎていった。
別の検査では、訓練用の銃を渡された。
「これまでに使用した経験があるか、覚えていますか」
アリステラは差し出された銃を見つめた。
記憶を探しても、何も浮かばない。
だが、受け取った途端に手は迷わず動いていた。重量を確かめ、照準器へ目を落とし、銃床を肩へ収める。わずかに長いと感じて銃床を一段縮めたところで、アリステラは自分の手元を見た。
どうして調整の仕方を知っているのだろう。
検査官たちは黙ったまま。
促されて標的へ銃口を向けた。一発目が中央へ入る。二発目もほとんど同じ場所へ入り、三発目は最初の着弾痕へ重なった。
撃つたびに姿勢が整った。肩の位置も、頬の当て方も、息を止める間合いも、意識して探す前に身体が決めていく。引き金へかけた指も、迷いなく同じ位置へ収まった。
その感覚は、ひどく気味が悪かった。
「もう数発お願いします」
アリステラは銃を台へ戻した。
「……すみません、もう」
「体調が悪くなりましたか?」
首を横に振る。先ほど男を押さえつけた右手も、この銃を迷いなく扱った右手も同じものだった。
掌へ目を落とすと、また赤黒いものが皮膚を覆ったように見えた。
アリステラは強く手を握った。
自分には記憶がない。それなのに、この手は人の押さえ方も武器の扱い方も覚えている。
その先を考えたくなくて、俯いた。
そして、耳の端をかすめては消えていく『戦争』という言葉について、自分から訊いたのは、少し経った頃だった。
病室の端末には復興計画の記事が表示されていた。その脇には銀河大戦が正式に終結した日付があり、まだひと月ほどしか経っていない。
アリステラは、測定端子を片づけていたエダへ目を向けた。
「戦争って……」
「先月、正式に終結しましたよ」
もう一度、記事の日付を見る。
「私……なんで、ここに。戦争……行ってたの」
エダの手が止まった。
こういう沈黙には、アリステラも少しずつ慣れてきていた。医師と話すときも、エダと話すときも、質問によってはすぐに答えが返らない。言葉を選んでいるようだった。
「……はい。あなたも戦場にいました」
「何してたの」
エダは医療端末を膝へ置き、アリステラを見た。
「あなたは戦争を終わらせたんですよ」
アリステラはエダを見返した。笑ってはいない。冗談を言った様子もない。そのまっすぐな瞳を見返しているうちに、エダが話している「アリステラ」と、自分とが別の人間のように思えてきた。
「……そう」
戦争を終わらせた。
そう聞かされても、目の前に浮かせた試験片や、標的へ開いた穴を示されたときと変わらない。
「詳しいことは、担当の先生から、もう少し状態を見て説明があると思います」
「い……、いい」
アリステラは窓へ顔を向ける。人工庭園では、薄紫色の花が風に揺れている。細い茎が傾き、戻り、また風に押されていた。
その動きを追っているあいだは、何も考えずに済む。
背後でエダが端末を片づける音がしていた。アリステラは振り返らず、しばらく花だけを眺めていた。
* * *
数日後。
病室の扉が開き、最初に入ってきたのは黒髪の女だった。
髪を後ろでひとつにまとめ、顔立ちのどこかに自分と似たところがある。その後ろには金髪の男が二人続いた。ひとりは背が高く、姿勢がまっすぐで、もうひとりはそれより若かった。
三人はアリステラを見るなり、顔をくしゃくしゃにした。
「アリス」
黒髪の女が、名前を呼ぶ。それはきっと、アリステラの名だった。
「アリス……!」
次の瞬間、女がこちらへ駆けてきた。
アリステラの肩が反射的に引ける。右手もわずかに持ち上がった。
けれど、すぐにその手は止まった。女の頬を涙が伝っていたからだ。
そして何もできないまま、女の腕が背中へ回り、アリステラは強く抱きしめられた。




