第七話 記憶のない英雄②
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電子音が一定の間隔で鳴っていた。
その音へ意識を向けた途端、両手首の奥に鋭い痛みが走る。アリステラが目を開けると、白い天井と壁面を流れる数字が再び視界へ戻ってきた。
先ほどの女はもう手の届かないところまで離れている。それでも、指先にはまだ女の手首の感触が残っていた。
何があれほど怖かったのかも、なぜ両手首がこんなに痛むのかも分からない。
アリステラは考えることをやめ、再び瞼を閉じた。それからしばらくは、眠っては目を覚ますことを繰り返した。
目を開けるたびに窓の向こうの明るさが違った。暗い硝子に室内の灯りだけが映っていたこともあれば、次には白い朝の光が差し込んでいた。
水は、いつも手の届く場所へ置かれるようになった。喉が渇けば自分で飲み、食事も決まった時間に運ばれてきた。味について考えることはほとんどなく、気づけば皿だけが片づけられている。そんな日々の中で、聞き覚えのある声が窓の方からした。
「今日は雨ですよ。この辺りでは、この季節には珍しいんですけど」
最初に水を持ってきた女だ。
アリステラがゆっくりと顔を向けると、硝子の向こうで細い雨が人工庭園の葉を濡らしている。硝子越しに、微かに濡れた土の匂いがした気がした。換気口からの空気に紛れているだけかもしれない。
「もう少ししたら照明が変わります。夕方になると青くなるんですよ。綺麗なんです」
その言葉通り、やがて庭園の灯りが淡い青へ変わった。濡れた葉や石の表面まで青く沈み、庭全体が水の底にあるように見える。
アリステラはしばらくそれを眺めていた。いつ眠りに落ちたのか、次に意識が戻ったときには、また白い天井が目の前にあった。
「今日は昨日より長く起きていられましたね。顔色も少し良くなりました」
女はアリステラの前でよく話した。
食事を持ってくるときも、測定端子を替えるときも、窓の外が晴れた日にも、何かを答えさせようとはしない。その日に起きたことを、ただ一人で話していった。
「エダ・ミレイです。前にも言いましたけど、何度でも言いますからね」
「……わた、わたしは」
「あなたのお名前は、アリステラ・フィア・レ・ミシェノケイラです」
エダが枕元の端末へ文字を表示した。
アリステラは、そこに並んだ長い名前をゆっくりと目で追う。
「二十六歳です。ご両親と、お兄さんがいらっしゃいます。皆さん、あなたが目を覚ましたことをとても喜んでいますよ」
二十六年という時間が、どれほどの長さなのかは分かる。けれど、自分もそれだけの年月を生きてきたのだと言われても、何も浮かばなかった。
「今は無理に思い出そうとしなくていいそうです。知らないことを一度にたくさん聞くのも疲れるでしょうし、少しずつで」
アリステラは端末に表示された自分の名前から目を逸らした。
「今日はお母さまからも連絡がありました。面会できるようになったら、すぐにでも来たいそうです。お父さまとお兄さまも一緒に」
母。父。兄。
頭の中で一つずつ言葉を並べてみる。けれど、そこへ誰かの顔が浮かぶことはなかった。
寝台を離れられるようになる頃には、病室の外へ連れていかれることも増えた。検査では文字を読んだり、数字や図形を覚えたりすることに困ることはなかった。銀河標準暦も主要な星系の位置関係も知っているし、銀河大戦について訊かれれば、それが八年間にわたった戦争だと説明できる。
けれど、自分のことを訊かれると何も出てこない。学校へ通っていた頃も、家族と過ごした時間も思い出せなかった。
そんな状態のまま、検査と診察を繰り返す日々が続いた。
ある日、別の検査へ向かう途中で、廊下の先から制服姿の男が歩いてきた。
すれ違う直前、男が胸元の通信端末へ手を伸ばした。
その動きを見た瞬間、アリステラの身体が反応した。気づいたときには男の手首を掴み、腕を捻りながら懐へ踏み込んでいた。肘を押さえて体重をかけると、男の姿勢が崩れ、その背中が鈍い音を立てて壁へぶつかった。
「うわっ! な、なに……!?」
「待って、待ってください!」




