第七話 記憶のない英雄①
第七話
記憶のない英雄
* * *
最初に意識へ戻ってきたのは、音だった。
一定の間隔で繰り返される電子音と、その下を低く流れ続ける空調の音。遠くで何かが開閉するたび、ごく小さな振動が壁を伝ってくる。
目を開ける前から、近くに誰かいることも分かっていた。左側に一人。少し離れた右側にも一人。どちらもほとんど動いておらず、聞こえるのは時折の衣擦れと呼吸だけだった。
その気配を意識しながら、アリステラはゆっくりと瞼を上げた。
ぼやけた視界の向こうに白い天井が浮かび、その下で三つの光が滲んでいる。右側の壁にはいくつかの数字が並び、自分の心拍と呼吸に合わせるように緩やかに変化していた。左腕には透明な管が繋がり、胸元にもいくつかの端子が貼りつけられている。
身体を起こそうとした途端、左胸から腹へ鈍い痛みが走った。息を吸うだけで、身体の奥が軋むように痛んだ。両手首も、わずかに動かしただけで傷んだ皮膚が引きつる。
「あっ……! きゅ、急に動かないで!」
左から声が上がった。
淡い灰色の医療服を着た女が椅子から立ち上がっていた。四十前後だろうか。手には何も持っていない。
出入口は一つ。扉の脇に制服姿の男が立っている。男はわずかに姿勢を正し、胸元へ右手を添えた。その腰に拳銃がある。右側だ。利き手もおそらく右。ここまで四メートル。女を避けてこちらへ来るなら、二歩目で射線が通る。その前に左の処置台を蹴れば一度は視界を切れる。金属製の器具も手の届く位置にある。
——考えたというより、そこまでが勝手に頭へ浮かんでいた。
自分の右手を見ると、いつの間にか処置台へ伸びている。指先は、並んだ器具のうち最も近い一本へ届く位置にあった。
アリステラは手を止めた。
「あ、……だ、大丈夫ですよ!」
女はそれ以上近づかなかった。
「ここは連合軍中央医療施設です。病院ですよ。あなたは、こちらに保護されたんです」
連合軍中央医療施設。
ここが病院だということは分かった。けれど、なぜ自分がここにいるのか、自分が誰なのかは、何ひとつ思い出せなかった。
「……私の声、聞こえています?」
「……、……」
返事をしようとしたが、声が出なかった。
口の中がひどく乾いている。舌が重く張りつき、唇を動かしても、喉から掠れた息が漏れるだけだ。
「無理に話さなくて大丈夫です。聞こえていたら、一度だけ頷いてもらえますか」
ほんのわずかに顎を下げた。それだけの動きにも妙に時間がかかったが、女の肩から少し力が抜ける。
「ありがとうございます。水を少し飲んでみましょうか」
女が透明な容器を手に取り、ゆっくり近づいてきた。
——怖い!
——来ないで!
何をされると思ったわけではなかった。
水を飲ませようとしているだけだと分かっている。それでも距離が縮まった瞬間、アリステラの身体が勝手に動いた。腕が跳ね上がり、気づいたときには自分の指が女の手首へ食い込んでいる。
女が息を呑み、同時に機械の数字が大きく跳ね上がる。それが自分の心拍だと気づくまで、少し時間がかかった。
「あ、あ……う、う」
喉から声にならない音が漏れた。離したいのに、指が動かない。どれだけ力を抜こうとしても、緩まなかった。
「大丈夫です。分かりました」
女は腕を振りほどこうとはしなかった。
「もう触りませんから。大丈夫ですよ」
空いている方の手が、アリステラの手の甲へそっと重なる。
身体がまた強張った。
けれど、その指先はそれ以上動かなかった。ただ、人の体温だけが手の甲へ伝わってくる。
しばらくすると、強く握り込んでいた指が少しずつ緩み始めた。一本、また一本と離れ、ようやく女の手首を放す。そして女は寝台から一歩離れると、水の容器を手の届く台へ置いた。
「ここに置いておきますね。自分で飲めそうなら、少しずつで大丈夫です。今はいらなければ、そのままでもいいですから」
アリステラは呆然とした。
ただ、台の上に置かれた水と、少し離れたところに立つ女をしばらく眺める。
やがて瞼がまた重くなり、そのまま目を閉じた。




