第五話 帰還と晴嵐の騎士①
第五話
帰還と晴嵐の騎士
* * *
朝、目を覚ましたとき、アリステラはしばらく左腕が動かない理由を考えた。
原因はすぐに見つかった。白銀の幼獣が腕の中で丸くなり、長い尾を肘に沿わせて眠っている。昨夜あれだけ物音に怯えていたのが嘘のような寝姿だった。
アリステラは数秒それを眺め、空いている方の手で額を押さえた。
そういえば、いた。
違法競売船から保護し一度は保全機構へ渡したものの、容器から抜け出して顔へ張りつき、結局一晩だけ預かることになった幼獣である。
朝になれば、職員が迎えに来ることになっている。少なくともこの問題についてはあと数時間で自分の手を離れるはず。
アリステラが慎重に腕を抜くと、青い瞳がゆっくり開いた。幼獣は寝ぼけたようにこちらを見上げ、長い尾を一度だけ揺らした。
「きゅ、きゅ……」
アリステラは返事をせず、その身体を床へ下ろして洗面台へ向かった。
顔を洗い、昨夜外した装備を身につけ直す。黒銀の槍になる金属片を腰帯や外套へ戻し終えた頃、部屋の扉が叩かれた。
三回ではなかった。
アリステラは音を立てずに扉へ近づく。二度目のノックに続いて、聞き覚えのある声がした。
「――アリステラ。俺だ」
クェンだ。おそらくは。
アリステラは鍵を外し、顔が少し見える程度に扉を開ける。
廊下に立っていたのは、確かにクェンだった。ただし、いつもの人を食ったような薄笑いがない。額には珍しく汗が滲み、涼やかな地底の朝には似合わない、湿った笑みを浮かべている。
「おはよう」
その顔を見ただけで、ろくでもない話を持ってきたことは分かった。
アリステラは黙って続きを待つ。
「なんか言えよ」
「……用件は?」
「朝一番でそれか。まあいいけどさ」
クェンは首の後ろを掻き、珍しく言葉を選ぶように間を置いた。
「まず昨日の件な。依頼は完了扱いになった。対象の確保も確認されたし、先方から正式に連絡が来てる。それで、ここからが俺もあんまり嬉しくない話なんだが……」
そこで言葉を切り、クェンは観念したように半歩横へ退いた。
よく見ると、その後ろに黒髪の男が立っていた。
クェンの陰に隠れるには大きすぎる。百九十センチほどはありそうな長身に、星環院の徽章を留めた濃い色の外套をまとっている。服装そのものは簡素だったが、胸元の徽章を見れば、ただの使いではないことくらい分かった。
短く整えられた黒髪。金褐色の瞳。その目が、まっすぐアリステラへ向けられている。
アリステラを見た男の表情が、ほんの一瞬だけ、変わる。
金褐色の瞳がわずかに開き、息を飲むように唇が小さく動く。けれど、それも一瞬だった。すぐに何事もなかったような穏やかな顔へ戻っていた。
「レオンディール・グレア・デ・フィオール。星環院から、あなたへの帰還命令を預かってきた」
一拍置いて、男はわずかに顎を引いた。
「星々が、あなたを導きますように」
低く落ち着いた声。《星の騎士》のあいだに古くから残る挨拶。相手の無事と、その先の旅路を願う言葉だ。
名前も、顔も知っている。《晴嵐の騎士》、レオンディール・グレア・デ・フィオール。
目を覚ましてから、何度も顔を合わせた。必要なことを説明し、記憶の無いアリステラを何かと気にかけてくれた男だ。
今のアリステラにとって、見知らぬ相手ではない。
それでも、彼を知っているという感覚だけがうまく形にならなかった。
その距離に耐えきれず、アリステラは休暇を理由に中央を離れた。
少なくとも、レオンの前から逃げたことは自覚している。だから、こんなに早くまた顔を合わせるとは思っていなかった。しかも中央からの帰還命令まで持って。
「これを」
レオンが手にしていた端末を差し出した。
アリステラは受け取り、表示された命令書へ目を通す。そこには中央監察部と《星の騎士》総本山の「星環院」。二つの名が並んでいる。
昨日の競売船で観測された高出力のルーメンが過去の戦闘記録と一致し、アリステラ本人と確認されたこと。押収された競売記録から連合軍上層部の人間が関わっていたことが分かり、現場にいたアリステラにも事情を聞く必要があること。
そして、休暇命令中に無許可で賞金稼ぎをしていた件について、中央で説明を求めること。
アリステラは画面を閉じた。
戻りたいとは思わない。
中央には、自分より自分をよく知っている人間が大勢いる。
讃える目。同情する目。恐れる目。覚えていない出来事を懐かしそうに語り、自分だけが持っていない過去を当然のように差し出してくる。中央を離れたのは、その息苦しさから逃れたかったからでもあった。
もっとも、命令にそうした事情を斟酌する余白はなかった。
「今日?」
レオンが頷いた。
「今日中に」
アリステラは端末を返した。拒否して変わる命令でもない。
「……分かったわ」
横でクェンがあからさまに息を吐く。
「はあ、よかった。もっと揉めるかと思ってた」
アリステラが視線を向けると、クェンはすぐに片手を上げた。
「あー、何でもない。いまのは忘れてくれ」
そう言いながらも、まだ何か気になるらしい。今度はレオンへ顔を向けた。
「しっかし早すぎるだろ。昨日の夜に競売船が押さえられて、朝には《星の騎士》が宿の前にいるんだぞ。俺なんて、早くても今日の昼か明日くらいに面倒な連絡が来ると思ってた。それが《晴嵐の騎士》本人だ。心臓に悪いにも程がある」
レオンはわずかに眉を下げた。
「急に訪ねたことは謝るよ。ただ、君の店はこの辺りじゃ有名だからね。仲介屋としても、それ以外の意味でも」
「言い方が怖いなあ」
「事実を言っただけだよ」
クェンは笑って肩をすくめた。
「まあ、回す仕事は選んでるさ」
「そう」
レオンの返事は穏やかだったが、妙に間がなかった。クェンはレオンの顔を見て目を細める。
「……へえ」
「何?」
「いや。ずいぶん気にするんだな、と思って」
「君の回す仕事次第で、こちらが後始末をすることになるからね」
「ああ、そういうことにしとくよ」
レオンが静かに返すと、クェンは嫌そうな顔をした。




