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第四話 初めての夜

 第四話


 初めての夜


  * * *


 宿へ戻った頃には、ラグードの地上歓楽街も静まり始めていた。表通りにはまだ酔客の声が残り、古い採掘施設を改装した酒場から低い音楽が漏れている。アリステラは人混みを避けて裏通りへ入り、安宿の狭い階段を上った。


 部屋へ入るなり鍵を確かめ、窓、浴室、収納棚、ベッドの下まで順に見て回る。


 腕の中にいた幼獣は、部屋へ入ってから妙に静かだった。

 

 競売船ではあれほどアリステラから離れようとしなかったのに、床へ下ろすと身体を低くし、背の翼をぴたりと畳んで見知らぬ室内をうかがっている。床板が軋むたびに足を止め、浴室から配管の音が響けば、伏せていた翼が反射的に持ち上がった。


 アリステラは保全機構から渡された寝床をベッドの脇へ置き、入口も室内も見渡せる向きに敷物を広げた。幼獣は寝床とアリステラを交互に見たあと、その周りを慎重に一周してから、ようやく端へ身体を伏せた。アリステラが荷物を片づけ始めても、青い瞳だけはこちらを追っていた。


「見ないでよ」

「きゅ」


 競売船で聞いた声より、ずっと小さい。


 アリステラは飼育の説明を開き、渡された栄養食の準備に取りかかった。粉末へ決められた量の水を加え、湯を足して温度を整え、深い器を避けて浅い皿へ移す。手元の作業を終えてから説明を読み直すと、食べさせる温度も器の形も、すでに選んだものと合っていた。


 皿を床へ置いても、幼獣は寝床から出てこない。鼻先だけを伸ばして匂いを確かめ、アリステラと餌を何度か見比べたあと、おそるおそる一口舐めた。けれど次の一口から急に勢いがつき、慌ただしく口を動かし始める。


「待って。急がなくても、なくならないから」


 アリステラが皿を少し遠ざけると、幼獣はぴたりと止まり、大きな青い瞳でその行方を追った。


「きゅぅ……」

「そんな声を出しても同じなの」


 少し待ってから皿を戻すと、今度はいくらか落ち着いて食べ始めた。


 食べ終わる頃には、肩のあたりに残っていた強張りも薄れていた。濡らした布を近づけたときこそ身を引いたが、アリステラが追わずに待っていると、自分から短い嘴を寄せてくる。口元についた餌を拭い、胸元の羽毛を分けて汚れを確かめた。

 

 前脚には何度も針を刺されたような腫れが残り、翼の付け根にも細い傷がある。痛々しい姿にアリステラは目を細め、長い尾が曲がらないように敷物を広げると、寝床も伏せたまま入口を見られる向きへ直した。


 そこまでしてから、アリステラは自分の手を見た。自分が知らないことを、自分ができてしまうこと。それがいつまでも異物のようにアリステラにつき纏う。


「気味が悪い」


 幼獣が顔を上げる。


「あなたじゃなくて、……」


 青い瞳が瞬いた。


  ほどなく幼獣は寝床を出て、慎重な足取りでアリステラの膝までやってきた。小さな額が服に触れる。


 アリステラはしばらく動かなかった。もう一度額が触れたところで、指先を伸ばし、頭の羽毛を一度だけ撫でた。幼獣は目を細め、それで満足したように寝床へ戻っていく。


 部屋にも少しずつ慣れてきたらしい。アリステラが装備を片づけている間も寝床からこちらを見ていたが、配管が鳴っても翼を広げなくなり、身体からもいつの間にか力が抜けていた。


 寝る支度を済ませ、アリステラはベッドへ入った。


 しばらく目を閉じていると、床を擦る小さな爪の音が聞こえる。目を開けると、幼獣がベッドの脇に立っていた。


「戻りなさい。ほら」


 アリステラは幼獣を抱き上げ、寝床へ戻した。幼獣は素直に身体を丸める。けれど、次に目を開けたときには、またベッドの脇にいた。暗い部屋を振り返ってから、アリステラを見上げている。


 アリステラはしばらくその姿を眺め、ゆっくり片腕を差し出した。


「はあ……なんでこんなこと」


 幼獣は鼻先を寄せて手の匂いを確かめ、前脚を掌へ乗せた。そのまま腕を伝ってベッドへ上がり、枕の端へ身体を伏せる。


 そこから先へは来なかった。翼と尾を身体へ寄せたまま、青い瞳だけでアリステラを見ている。


 アリステラは目を閉じた。


 次に腕へ柔らかな羽毛が触れ、目を開ける。幼獣はいつの間にか、すぐそばまで来ていた。


「近い……!」

「きゅ」

 

 幼獣は気にする様子もなく、その場へ身体を伏せた。次に眠りが浅くなったときには、身体の半分ほどがアリステラの腕へ触れている。小さな胸は規則正しく上下していた。


 アリステラは起こさないよう、シーツから垂れていた長い尾だけを内側へ戻した。


 その夜、不意に天井の灯りが揺らいだ。


 一度、二度と明滅したあと、部屋が暗闇へ沈む。入口脇に残していた小さな灯りも同時に消えた。

 

 光が消えた瞬間、部屋の輪郭まで失われた。

 

 アリステラはきゅうと身体を縮めて、胸のあたりで手を握った。 息ができない。ベッドも扉も窓も、そこにあることは分かっている。それなのに位置が掴めない。寝具の柔らかさが遠のき、代わりに背中へ冷たい床の感触が蘇った。


 手首に鈍い痛みが走った。


 冷えた金属が皮膚へ食い込んでいる。閉ざされた扉の向こうから、足音が近づいてくる。一歩、また一歩と、逃げ道を塞ぐように。


 ここは宿だ。


 そう思っても、その言葉は頭の中を滑るだけだった。


 呼吸が浅くなるにつれ、机の上の端末が宙へ浮いた。椅子が床を擦ってずれ、窓の金具が低く軋む。


 そのとき、胸元へ何かが飛び込んできた。


 小さな前脚が寝間着を掴み、翼が腕を掠める。幼獣はベッドの上をよじ登り、アリステラの胸へしがみついた。


「きゅい」


 額が顎の下へ押しつけられる。小さな身体も震えていた。


 アリステラは息を吸った。


 胸元に温かな身体がある。羽毛の下では、小さな心臓が速く打っている。寝間着を掴む爪も、腕に触れる翼も震えていた。


 ――ここにいる。


 アリステラは震える手を持ち上げ、幼獣の背へ触れた。


「ね……ねえ、そこに、いる?」

「きゅい」


 返事を聞くと、宙に浮いていた端末がゆっくり机へ戻った。椅子の動きも止まり、部屋に響いていた金属の軋みが消えていく。


 幼獣はまだ胸元にしがみついていた。大きな瞳が、まっすぐアリステラを見ている。


「お、……起こした?」

「きゅ」


 幼獣がもう一度、額を顎の下へ押しつける。アリステラはその背中へ掌を添えた。


「……ごめん」


 照明は戻らない。


 アリステラは枕元の端末を手に取り、画面の明るさを最低まで落とした。淡い光が手元と幼獣の輪郭だけを浮かび上がらせる。


 そのままベッドの上で上体を起こし、幼獣を膝へ乗せた。幼獣は何度か身体の向きを変えたあと、アリステラの腕へ腹を押しつけて丸くなる。


 ほどなく、小さな寝息が戻ってきた。


 アリステラは暗い部屋を見た。何を恐れているのかも、その恐怖がどこから来るのかも分からない。記憶のない場所へ手を伸ばせば、また先ほどの冷たさに触れそうだった。


 端末の弱い光の中、アリステラは幼獣を抱いたまま朝を待った。腕の中では、小さな身体が呼吸に合わせて静かに上下している。


 カーテンの隙間から朝の光が差し込んでも、幼獣はそこから動かなかった。


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