ep.04 成立
翌朝。
春希は自分の席から、窓の外へスマホを向けていた。
二回撮って、画面を確かめ、位置を少し調整してもう一回撮る。
「……おはよ」
雪が教室に入ってくると一直線に、春希の席へやってきた。
「あ、ああ。はよ」
雪を追うクラスメイトの視線が、そのまま春希へ到達する。
春希は伊達メガネの黒フレームへ焦点を逃がした。
「何を、撮ってたの」
雪は春希の机に体を寄せて、窓の外を覗いた。
校庭に、池のように大きな水たまりができている。
朝の光を集めて、水面に青空をそのまま映していた。
「これ」
春希は撮ったばかりの一枚を、画面に出して雪に見せた。
もたれかかるように、雪はスマホに顔を近づける。
「……穴みたい」
指の先で、画面の水たまりをなぞる。
「上手だね。なんか、面白い――あ、ごめん」
水たまりをなぞっていた雪の指が滑り、写真一覧画面に遷移した。
正方形のサムネイルがずらりと並ぶ。
校門の脇の桜の花びら。
給水塔。
夜のコンビニの看板。
錆びた自転車のスタンド。
「写真……好きなの? 見てもいい?」
「いいよ。適当に見ても」
見られて困るものはない。
春希は画面を雪に向けたまま、好きにスクロールさせた。
「へ〜……いろいろ撮ってるんだね」
雪は、画面に顔を近づける。
自然と肩同士が触れた。
「これ、なに?」
「どれ……ああ、プールのチケット。泳ぎに行った記録代わりに撮ってるだけ」
「水泳部って言ってたね」
「よく覚えてるな」
「ふふ」
雪はにこりと笑って、また視線をスマホの画面へ落とした。
綺麗な線の横顔を見つめる春希の頬に、ちりりと空気が刺さる。
「……」
教室の中央の島から、いくつかの目がこちらを向いている。
雪をSNSへ引き込みたい連中、それとは別に廊下側の席からも、前のほうの席からも、まばらに視線が飛んできていた。
春希はスマホの角度を、わずかに窓側へ寄せた。
その時――強い風が窓から吹き込んだ。
金具が外れて垂れていた厚手の白いカーテンが、マストの帆のように舞い上がる。
白い幕は窓枠にもたれて並ぶ二人を呑み込み、教室の音が遠のいて、居心地の悪い視線が遮断された。
白と青だけの世界に、春希と雪だけが閉じ込められる。
「あ……」
「わぁ……」
窓からの風と光を独り占めするカーテンの内側で、雪の顔が間近にある。
光に透ける白く滑らかな肌に、睫毛の影までよく見えた。
薄い色の瞳の中で、春希の眼鏡のフレームが小さく映り込んでいる。
視線を逃すすべがなく、春希は瞬きを忘れた。
風が雪の前髪をかきあげた。
白くて小さくて丸い額が見える。
「よく――」
雪の唇が、何か言おうとして開きかけると同時に、弱まりかけた風が再び強く吹きこんだ。カーテンが丸く膨らんで、まるで二人だけの小さなドームの中にいるようだ。
「――外を見てるよね」
小さく開いた雪の唇が、言葉の続きを紡いだ。
「何が、見えてるの」
「あ、ああ――」
視線の蔦から逃れるように、春希は右腕を窓の外へ伸ばした。
「あそこ、けっこう色んな人が通るんだよな」
春希は校庭を囲むフェンスの向こう、河川沿いの緑道を指差した。
平日の午前中は高齢者が散歩をしていたり、川とは反対側の幹線道路から逸れてきたタクシーや宅配の車が、休憩や配達のために停車していることが多い。今は黒猫マークの配達員が、荷台から取り出した荷物を台車へ重ねていた。
「人間観察?」
「あの道、どこからも見えないから、あそこで倒れたりしたら見つかりにくいって思って」
緑道は、川に沿って細く続いている。
学校の裏手にあたる百メートルほどは、ちょうど民家が途切れる区間だった。
片側は土手の斜面で、反対側は畑と休耕地が幹線道路まで挟まれている。
街灯は端に一本きり。
静かなのが取り柄だが、静かなぶん、誰の目にも入らない。
「気づくの俺しかいなくないか」
「あ〜……そうかも」
雪は窓から顔を出して、左右と下を確かめた。
三階のこの高さでなければ、フェンスの向こうまで見えない。
左隣は音楽室で、窓はいつも閉まっている。
右隣の教室からだと、敷地内の用具小屋の屋根が邪魔になる。
「川沿いって日陰もないし」
「そんな心配しながら見てたんだ」
「でもよく考えたら、一番危ない時期は夏休み中なんだよなぁ」
「……ふふっ」
ぽかんとした雪の顔から、力が抜けた。
カーテンの向こうで、くぐもったチャイムが鳴った。
風が止んで重さを取り戻したカーテンが落ちて、二人の体をシーツでくるむように巻き付く。
「おーい、引きこもってんなよー」
教室側から、複数の男子たちの陽気な声が近づいた。
布ごしに手が伸びて、雪の肩を探り当てる。
「っ!」
雪はひどく怯えて、体を震わせた。
細い体が手から逃れて、春希の胸元に正面から倒れ込む。
「え、ちょ、ちょっと」
背中に回された細い両腕が、縋るようにしがみ付く。
春希の鼻先が柔らかい黒髪に埋もれた。石鹸の香りが掠める。
背中から倒れかけて、春希は窓の桟を掴んでとどまった。
「っは……、は……っ」
胸元で、雪の呼吸が浅く速く上下していた。
息が、熱い。
ひゅっ、と不自然な吸い込み音がする。
教室側からカーテンが剥がされて、二人の姿が現れた。
「え」
誰かの短い声。
波紋のように、教室中の視線が順々に窓際へ振り向く。
窓際で抱き合っている――ように見える二人へ、視線が集まった。
「いや、その」
春希の焦る声が、空回る。
「あら、オレら、邪魔した?」
カーテンを引き剥がした男子が両手を上げる。
一軍グループを中心に、辺りから笑いが起きた。
「違っ――」
春希の喉から、入学して初めての荒い声が絞り出される。
「なんか、おかしいっ!」
腕の中で、細いはずの体が重くなっていく。
春希の背中を掴んでいた雪の指の力が抜けて、滑り落ちた。
胸元にもたれた頭がずり落ちていく。
「っ、ひゅ……っ」
細い喉が鳴った。
「過呼吸じゃないの?」
輪の外から、誰かの声が上がる。
「え、やべえじゃん」
笑いが引いた。
椅子が後ろへ滑って、床を擦る。
先生呼んできて、と誰かが言って駆け出し、開け放たれた扉からは別のクラスの生徒たちが覗いている。
「っしょ……!」
春希は背筋と腹筋をフル稼働させて上体を起こし、雪の体を引き上げて抱え直す。
「――雪?」
雪の顔色は白を通り越して文字通り青ざめ、頬や唇の血色が失われていた。
長いまつ毛の影で、微かに開いた瞳の焦点は隠れてしまっている。
額からこめかみにかけて幾つも汗の粒が浮いていて、前髪が額に貼りついていた。
脱力した指先が、細かく震えている。
「雪!」
先生が駆けつけるまで、春希は雪の背中を叩いて、名前を呼び続けた。
廊下を走る足音が近づいて、開け放たれた後部扉から、長身の青年が飛び込んだ。
生徒が引っ張ってきた担任・青木先生だ。
「空けて空けて」
人垣が割れる。
青木先生は、雪を抱き止める春希の側に膝をつき、雪の顔を横から覗き込んだ。
「先生が保健室に運ぶ」
「――はい」
青木先生は春希に凭れた雪の体を起こし、背中と膝の裏へ腕を差し入れる。立ち上がるとともに、細い体が軽々と持ち上げられた。
「……はる、き……」
うわごとのような声。
青木先生の腕の中から、春希へ白い手が伸びる。
先生の目が、教室中の目が、春希へ向いた。
「え……」
ほんの刹那の静けさが、無音の水底のようだった。
すぅ、と空気を吸い込む音が中耳に響く。
「ゆき」
水圧を掻くように、春希はすがる指へ手を差し伸ばした。
春希の人差し指を、雪の手がとらえる。
赤ん坊がそうするように、きゅっと握った。
だが、すぐに力が抜けて、白い指先が、手が、重力に負けてずり落ちる。
「牧野、一緒に来なさい。どうなったのか後で説明してくれ」
「――はい……」
窓際から廊下へ、通り道が開かれる。
困惑、驚き、そして好奇――様々な視線を全身で感じながら、春希は青木先生について教室を出た。
一時限目の予鈴はとうに終わったが、廊下にはまだ幾人かの生徒たちが残っていた。雪を抱える青木先生が通ると、ざっと道が開かれる。
春希は青木先生の濃紺ポロシャツの背中に焦点を合わせ、無心になって後に続いた。「え、何、どうしたの」といった声が背後へ遠ざかる。
一階へ向かう階段を、青木先生は一段ずつ、膝で衝撃を吸収しながら降りた。
雪の小さな頭が、段差に合わせて先生の肩口で小さく跳ねる。
「牧野、先に行って扉を開けてくれ」
「はい」
春希は階段を二段飛ばしで駆け下りた。
「まあまあ、どうしたの」
中から出てきた養護教諭は、白衣の袖を肘までまくった中年の女性だ。
白衣の名札に「宮下」とある。
慌てた様子はなく、青木先生の腕の中を一瞥した。
「奥のベッド。青木先生、そのまま寝かせてあげて」
二つ並んだベッドの片方へ回り込み、清潔で糊のきいたシーツを三角にめくる。
「上履き、脱がせてあげてくれる?」
「は、はい」
春希は腰を屈めて雪の上履きを脱がす。それをベッド脇に置いた。
続いて青木先生が雪の体をベッドへ下ろす。
雪の胸は、浅く速く上下していた。
「遠野くん。聞こえる? 保健室のおばちゃんですよ」
養護教諭はベッドの脇に丸椅子を引き寄せ、腰を落として話しかけた。
「苦しいね。死んだりしないから。大丈夫よ〜」
雪の睫毛が震えた。
「ネクタイとシャツ、緩めるよ。手首、ちょっと触るね〜」
白衣の指が、細い手首の内側に添えられる。
もう一方の手が、雪の第一ボタンを外していった。
雪の指先に洗濯挟みのような機械が嵌められ、短い電子音が鳴る。
「呼吸器の持病はある? ぜんそくとか。ない? うん、わかった。首を振れるならだいじょぶ、大丈夫」
「牧野」
春希の肩に、青木先生の厚い手が乗る。
「悪い、少し待っていてくれ」
「……」
春希は頷いて、後ずさる。
窓際に置かれた背もたれのない丸椅子に腰を下ろした。
青木先生がベッドを囲むカーテンを引いた。
「息をゆっくり吐いてみようね。私に合わせてみてね」
宮下先生の声は穏やかで、言葉がゆっくりだ。
「はい、吐いて。もう少し。……そう。上手よ〜」
カーテンの向こうから、衣擦れやシーツが引かれる音が続く。
青木先生が何かを短く問い、宮下先生が「最近はね、袋は使わないんですよ〜」と答えるのが聞こえた。
「痺れてる? それも治るから。心配しないでいいよ〜」
間延びした宮下先生の声を聴きながら、春希は、自分の右手を見た。
人差し指の第二関節のあたりに、まだ何かが巻きついているような感覚が残っている。
窓の外では、体育の授業がグラウンドに列を作っている。
笛が鳴り、生徒たちが白いラインに沿って一斉に走り出す。
保健室から見ると、いつもよりも遠い世界での出来事のように感じた。
「はい、吐いて〜……よしよし。だいぶ落ち着いてきたよ」
カーテンの向こうの呼吸音が、少しずつ間隔を広げていく。
ひゅっ、と喉が鳴る音の頻度も、着実に減ってきた。
「……」
春希は膝の上で両手を組み、それをまた解く――を繰り返していた。




