ep.11 連休矢の如し
あっという間のゴールデンウィークが終わると、学校生活は息つく暇もない。
休み明けのエンジンが掛かり切らないまま、一学期の中間テスト期間が目前に迫る。
夜。
自室の机に向かっていた春希は、数式を書き込んでいたノートにシャーペンを置いて首を回す。静かな室内に、関節が微かな音を立てる。机の隅に伏せていたスマートフォンの画面が、点滅していた。
「姉ちゃんか……」
画面を表に返すと、ロック画面に夏美からのメッセージ通知が表示されている。
プレビュー画面で本文を表示させる。
『笠松さんから、あんたと雪君に御礼言っといてって連絡きてたわよ。SNSのことで』
「古着屋の店長さんか。SNSのことで――あ」
喉の奥で呟き、春希は親指をスライドさせてSNSアプリを立ち上げた。
検索履歴から、古着屋のPR用アカウントを開く。
サムネイルが並ぶ画面を少し下へスクロールすると、一週間前に店の試着室の前で撮影された、春希と雪の写真が表示された。
店長の提案通り、二人とも目深にキャップを被り、顔の半分以上がブリムの落とす影に隠れている。
雪は青いキャップに合わせて、くすんだブルーグレーのオーバーサイズの半袖シャツを羽織り、ボトムスには太めのベージュのチノパンを合わせている。ストリートを意識したゆるいシルエットにもかかわらず、だらしなさがない。隠しきれない白い顎のラインや、細く長い首すじ、そして全体の均整のとれた手足の長さが、服の持つ空気感を鮮やかに引き立てていた。
その隣で、春希は胸元が広めに開いたダークグリーンのオープンカラーシャツに、黒のストレートパンツを合わせ、ポケットに両手をつっこみ、どう見てもぎこちない立ち方をして所在なげに収まっていた。
キャプションには、『初々しい、新高校生のお客様。友達コーデを組ませていただきました』と添えられている。
「ん?」
画面に映る自分の不自然な立ち姿に視線を泳がせ、アプリを閉じようとした春希の指が、ふと止まった。投稿の右下に並ぶハートの数字と、吹き出しマークの横に表示された件数が目につく。
画面をスクロールしてアカウント内の前後の投稿をいくつか確認してみると、普段の投稿についている数値に比べ、自分たちの写真の数字は二倍から三倍近くに跳ね上がっていた。
「雪効果か……すごいな。顔隠れてんのに」
ぽつりと呟き、吹き出しのマークをタップした。
コメント欄がすっと下から滑り出してくる。
『最近の子は、スタイルが良いですね!』
『顔を隠していてもわかる雰囲気、かっこいい』
『 仲良しな感じが伝わってきてほっこり』
「……」
画面上の文字を追うにつれて、指の腹が無意識に画面を握りしめる。
「――そういえば」
アカウントを『2ki_days』に切り替えた。
タイムラインの一番上に表示されたのは、先ほどの古着屋の試着室で撮影した一枚だった。
二人の背後から肩越しに掲げられたスマートフォン。
正面の小さな鏡に映っているのは、二つの背中。
顔は一切写っていない。
試着室の狭い鏡になんとか収まるようにくっついたり角度を模索しながら、雪が何度も位置を調整して撮った写真だった。
キャプションには、控えめに文字が並んでいる。
『古着屋さんで、はじめてのお買い物。* #友達 #古着屋』
「え……」
春樹の喉から小さな声が漏れた。
その投稿には、ハートのマークが二十個。
そして何より、吹き出しマークの横に「1」、親指を立てた絵文字がひとつ。
初めてのコメントだった。
プロフィール画面に戻ると、フォロワー数がいつの間にか五十にまで達していた。
「……」
背筋の奥を、悪寒にも似た微かな痺れが、一瞬だけ駆け抜けていった。
春希が見た目で評価されたわけではないし、もとよりその願望は持ち合わせていない。けれど、あの狭い試着室の鏡の前で雪と二人、互いの肩が触れ合う距離――それが画面の向こうの見知らぬ誰かに届き、肯定されたことが、胸の底の静かな水面をわずかに揺らす。
春希自身、その揺らぎの正体を、まだ言葉にできずにいた。
*
五月下旬。
中間テストが終わると、六月に控えた体育祭に向けての準備が一斉に始まる。
楠原高校の体育祭は、学年を縦に割った三つのチーム――A組、B組、C組チーム――で競い合う仕組みになっている。
目玉となる応援合戦やダンスの演目は、それぞれのチームの上級生たちが主導して企画や振り付けを行い、そこに出演するメンバーを指名して「選抜」していくのが毎年の恒例だった。
「――遠野君って、いる?」
昼休みの騒騒しい教室、入り口の扉から顔を覗かせていたのは、三年生の男女だ。着崩した制服に、整えられた髪。いかにも学年の中心にいる一軍といった佇まいに、教室内が一瞬だけざわつき、そして潮が引くように静まり返った。
「っぇ……」
窓際で春希の席の側に立っていた雪が、微かに肩を跳ねさせた。
反射的に身を縮め、春希の背中へ隠れるように張り付く。
「あ、いたいた。やっぱすぐ分かるね〜」
教室の奥に視線を定めた三年生の女子が、屈託のない笑みを浮かべてずかずかと歩み寄ってきた。後ろから男子生徒もついてくる。
悪気のない、ただ自分たちのいる場所の空気をそのまま持ち込んできた。
「体育祭の応援合戦に、出てくれないかな」
女子生徒の口から出た言葉に、周囲の席にいたクラスメイトたちが息を呑む気配がした。
応援合戦やダンスは、各チームの中でも特に華のある目立つ生徒たちが選ばれ、大半は上級生でメンバーが固められる傾向にある。そこに一年生が、しかも入学して間もないこの時期に直接スカウトされるというのは異例だ。
固唾を呑んだ視線たちが、自然と壁になる春希へと集まった。
「――すみません、先輩」
春希は、背中にすがる雪を庇うように、半歩だけ前へ出た。
「遠野、呼吸器系の問題があって、この間もそれで早退したりしてるんです」
春希の声は平坦だった。
嘘はついていない。
事実だけを切り取った妙に説得力のある返しに、三年生の二人は一瞬、顔を見合わせて表情を曇らせた。
「す、すみません……僕……」
春希の背後から、ひどく細い声が漏れる。
春希のシャツを、白い指先が強く握りしめていた。
小動物のように怯えた一年生の姿を目の当たりにして、三年生たちの顔に明確な戸惑いが浮かぶ。
「そっか。じゃあ無理できないね。ごめんね、急に」
「お大事になー」
二人はあっさりと引き下がり、来た時と同じような軽い足取りで教室を出て行った。廊下へ遠ざかる気配が完全に消えると、堰を切ったように教室内がざわめきを取り戻す。
「ふー……」
春希の背中に隠れていた雪が、そっと顔を出した。
小さく深呼吸をして、袖を握っていた指先の力を緩める。
「びっくりしたー」
肩越しに顔を覗かせた雪の口元には、悪戯が成功した子供のような笑みが浮かんでいた。怯えて血の気が引いたような痛々しい顔色は、どこにもない。
「お前……わざとか」
呆れたように春希が息を吐き出すと、雪はわざとらしく目を丸くした。
「えー、なんのこと」
とぼけた声を出して、春希のシャツから手を離し、皺を伸ばす。
「うわ、悪質」
春希が低く呟いて眉をひそめると、雪は肩を揺らして、ふふっ、と息をこぼすように笑った。それから、少しだけ真面目な顔つきになる。
「でも、春希がいなかったら、断れなくなって……本当に困ったと思うから」
上目遣いに見上げる瞳には、柔らかで無防備な光が宿っていた。
春希はこれ以上の文句の行き場をなくす。
「……分かってる。昼飯、行くか」
時計を一瞥して、春希は机の横のフックにかけてあった弁当袋を掴んだ。
「うん」
雪も自分の席からいつものコンビニ袋を提げて戻り、春希の横に並ぶ。
そのまま連れ立って教室の後部扉から廊下へと出ていく二人の背中を、いくつもの視線が静かに見送っていた。
「なんか、遠野君、ちょっとキャラ変わった?」
「あっちが素っぽいな」
遠ざかる春希の耳に、クラスメイトの誰かが落としたさざ波のような声が、昼休みの喧騒に混じって微かに届いた。




