ep.10 わび割引
案内されたのは、渋谷の中心から代々木公園側へ奥まった場所、「奥渋」と呼ばれるエリアにある創作イタリアンレストランだった。
駅前の喧騒が嘘のように静かな店内は、コンクリート打ちっぱなしの壁と温かみのある木目調の家具で統一されている。隣のテーブルとの間隔も広くとられており、座っているだけで息がつけるような余裕があった。
それでも、雪は人の目を惹いた。
メニューと氷の入ったグラスを置きにきた店員が、立ち去る際にちらちらと視線を残していくのが、春希の目にもはっきりと映っていた。雪は受け取ったメニュー表へ視線を落として身を縮める。
「これ、ここに到着するまでに押し付けられたやつ」
春希は皺の寄った名刺を、テーブルの上に並べた。
最後のカットモデル募集の美容師のものも含め、全部で六枚。
夏美は声には出さず、リップを引いた唇を「わーお」と動かした。
「ちらほら、見たことある名前があるわね」
「失礼な奴らばっか」
こちらを完全に舐めきっていた男たちの目つきや口調を思い出し、春希は口の中に嫌な熱がこもるのを感じた。グラスの中の氷を口に含み、苛立ちをぶつけるようにガリッと噛み砕く。
「あー……これとか、これとか、無視して正解よ。使い捨てアイドルを量産したり、練習生にレッスン料だけ払わせて捨てる悪徳事務所。で、こっちは確かに大きいところだけど、態度悪いのが多いのよね」
弟の鬱憤を面白がるような悪戯な笑いを浮かべつつ、夏美はテーブルに並ぶ名刺を一つずつ、よく手入れされた爪の先で弾いていく。豪華な箔押しの名刺が並ぶ中、水色の線が一本入っただけのシンプルな名刺の上で、指が止まった。
「あら。凛さんじゃん。丁寧で感じの良い女の人じゃなかった?」
名刺に記載されているのは――
オフィス・シノハラ 代表取締役社長 篠原凛
「確かに一人だけ、丁寧な人はいた」
春希の脳裏に、ネイビーのスーツを着た女性の姿がよぎる。
唯一、強引に名刺を押し付けるのではなく、両手で差し出してきた人だった。
「お姉さん、詳しいんですね……」
店に入って初めて、雪が口を開いた。
メニュー表をわずかに下げ、テーブルの上に広げられた名刺の束を眺めている。
「わたくし、こういうものなの」
夏美は少し演技がかったセリフ回しで、自分のレザーバッグから一枚の名刺を取り出した。両手でそっと、雪の目の前へ置く。
「ヘアメイク・スタイリスト……かっこいい」
「ふふ。ありがとう。ね、雪くん。背筋、ピンって伸ばしてみて」
「――え?」
夏美はテーブルの上で、手のひらを天井に向けてゆっくりと押し上げる仕草をした。見えない糸で引かれるようにして、雪が丸めていた背中をまっすぐに持ち上げる。
「そう。首もぐっと持ち上げて」
夏美自身もすっと首の筋を伸ばし、宙で親指と人差し指を当て、スマートフォンの画面をピンチアウトするように動かした。
「視線はこっち」
その指先が、雪の少し斜め上へと滑る。夏美の中指が弾かれ、小気味よい音が短く響いた。
「そう。それ」
その一瞬で、雪の全身にこびりついていた怯えたような強張りが、ふっと剥がれ落ちた。細い顎のラインが引き上げられ、常に伏せられがちだった長い睫毛が持ち上がる。
「……」
春希は水滴のついたグラスを持ったまま、動きを止めた。
まるで、カメラのレンズの前に立つモデルのようだった。
幼さを残す輪郭が急に洗練された鋭さを帯びて、春希は思わず隣の横顔をまじまじと見つめてしまう。
「そうやって堂々としてれば良いよ。『もう事務所入ってますけど、何かあ?』みたいな顔をしていれば、少なくとも小チンピラみたいな連中は寄ってこなくなる」
「これをキープするの、なかなか大変……」
「ストレートネック予防にもなるから、頑張ってみて」
「ふふ」
和やかに笑い合う二人の横で、春希は手元のグラスへ視線を落とした。
「……小チンピラ、か」
自分が雪のすぐ側にいたというのに、連中は春希の存在などまるで見えないかのようにすり抜け、一直線に雪へと手を伸ばしてきた。
自分はそれこそ空気のような、透明な壁――いや、壁にすらなれていなかった。
注文を終えて店員がテーブルから離れると、夏美は思いついたように小さく手を叩いた。
「そうだ。ランチのあとって、二人とも何か予定ある?」
「雪が夏の普段着を買いたいって言うから、ユニクロとか、無印とか――」
「そんなの地元にもあるでしょ」
夏美がぴしゃりと春希の言葉を遮った。
「ちょうどよかった。この近くにね、仕事でお世話になってる古着のセレクトショップがあるの。お手頃価格だけど、カジュアルでおしゃれなものが揃ってるから、ちょっと覗いてみてよ。お店には私から連絡入れとくからさ。『NATSUMIの身内です』って言えば、大幅割引もしてくれるから」
「セレクトショップ……?」
途端に腰が引けた弟を視界の端に追いやり、夏美はまっすぐに雪へ笑顔を向けた。
「同業の不届き者たちが迷惑をかけた、お詫びのしるし」
「いえ、そんな……お姉さんのせいじゃないですし」
「いいのいいの。お姉さんに、少しかっこつけさせてよね」
夏美はパールのようになめらかに磨かれた指先を、高校生男子二人の前でひらひらと振って見せた。
*
夏美に教えられた店は、路地裏の雑居ビルにあった。
外階段を上って重い鉄扉を開けると、甘い香りが鼻をかすめる。
古材とアイアンで組まれたラックが並び、色や素材ごとに古着が整然と吊るされていた。
「あ、あの……」
恐る恐る足を踏み入れた春希が、静かなBGMが流れる店内を見回していると、レジカウンターの奥から男が顔を出した。
「いらっしゃい。NATSUMIさんの弟さんね。いつもお姉様にはお世話になってます!」
肩まであるドレッドヘアに、たっぷりと布地を使った柄物のセットアップ。
気だるげなミュージシャンのような外見とは裏腹に、体育会系のようにハキハキとした明るい声が返ってきた。
店長らしき男の視線が、春希の背後に立つ雪に移った途端、ピタリと止まる。
店内で服を畳んでいた他の店員たちも、手を止めてこちらを見ていた。
が、その静止も一秒で、店長は口角を上げ直す。
「夏物の普段着をお探しと聞いてます。ご予算はどれくらいまで?」
店長の質問に、雪はキャップのつばを少し下げ、手元のトートバッグの持ち手を両手で握りしめた。
「えっと……一万円ちょっとくらいなら……」
消え入りそうな声に、店長は屈託なく笑った。
「承知しました。うちはね、一万円あれば夏休みの一週間を着回せるコーデが組めますよ。よかったら、提案させてもらえます?」
「……! お願いします」
青いのキャップのつばが上がった。
それからの一時間は、めまぐるしかった。
春希は店の隅にあるスツールに腰掛け、試着室のカーテンが開け閉めされるのを眺めていた。
オーバーサイズのストリート系、体のラインが綺麗に出るシンプル系、リネン素材のアースカラー系――。一見すると全く統一感のないアイテムたちが、店長が組み合わせて雪に着せると、どれも雑誌の切り抜きのようにぴたりとはまった。
店長をはじめ、周りの店員たちもノッている様子が分かる。「これも着てみて」「こっちのシルエットも絶対いける」と、明らかに予算の一万円をオーバーしている数の服を次々とラックから外し、試着室へと運び込んでいく。
来店する他の客たちも、足を止めては雪の方へ視線を向けていた。
中にはモデルのように洗練された身なりの男女もいたが、彼らでさえ、試着室から出てくる雪の姿を興味深げに目で追っていた。
「どう……?」
カーテンを開けるたび、雪は照れくさそうに春希の方を見て尋ねてくる。
「似合う」
「良いんじゃない?」
「良い感じ」
春希の口は、その三種類の言葉をローテーションした。本当にどれも似合ってしまっているため、それ以上の気の利いた感想が思い浮かばないのだ。
ようやく服を選び終えてレジカウンターへ向かうと、店長が奥から一眼レフカメラを取り出してきた。カウンターの横に貼られたポスターを指差す。
「お店のSNSなんだけど、お買い上げいただくお客さんにPR用の写真をとらせてもらったら、Tシャツのおまけをプレゼントしてるんです。どうですか。特別に二枚、プレゼントしちゃいますよ」
雪の目がわずかに見開かれる。
が、すぐに細い首が左右に振られた。
「す、すみません……欲しいけど、僕、顔を見られるのが苦手で……」
店長と奥にいた店員の視線が、一瞬だけ空中で交差した。
「それなら」
店長はカメラを持ったまま、スツールに座っている春希の方へ向き直った。
「弟さんにもシャツをプレゼントするんで、二人で撮るのはどうですか。キャップを目深にかぶって、顔の半分を隠して撮影するなら……どう?」
試着のたびに春希の反応を窺っていた雪の様子を見て、気を回してくれたのだろう。
「え、俺も?」
春希が思わず立ち上がると、店長は春希の全身を改めて観察するように目を細めた。
「弟さん背が高いし、何かスポーツやってます? 肩と胸周りがしっかりしてる」
店長はカウンターから出ると、近くのラックから一着の服を引き抜いた。
テロリとした落ち感のある、ダークグリーンのオープンカラーシャツだった。
「いつもそういうダボッとした服ばかり着てるでしょ。こういう首元が開いたシャツなら、胸元のがっしり感が綺麗に活かせますよ。ほら、ちょっと合わせてみて」
「でも、俺――」
「いいからいいから。似合ってたらプレゼントしますよ」
有無を言わさず押し付けられたシャツを持って、春希は半ば強引に試着室へと押し込まれた。




