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第9話 狼男

それは暑さもおさまり、乾いた風が吹き、秋の気配が感じられるようになったある夕方のことだった。


「ごめん下さい。」


紅と蒼、郁人の三人が夕食の準備をしていると、玄関から男の声が聞こえた。


「はーい。」


紅はお吸い物用のきのこを裂いていたが、手を止めて玄関へ向かった。

今日の予約は一組の家族だけ。すでに到着して部屋でくつろいでいる。

誰だろう──そう思いながら玄関に着いた瞬間、紅はとっさに身構えた。


玄関に漂う、わずかな獣の匂い。

人間ではない。


紅は無言で男を見据えた。

男は服も靴も、男自身も、すべてがくたびれているように見えた。


男は紅の警戒に気づき、深く頭を下げた。


「突然伺ってすみません。怪しいものではありません。こちらに危害を加えるつもりもない。もしできるなら、今晩泊めていただけたらと……」


紅が戻ってこないので心配になった蒼も玄関へ来た。


「ん、紅……なんだこの匂い。」


蒼も男を見た瞬間に身構えた。


男は二人に警戒され、身を縮こまらせてぽつんと立ち尽くしている。

その様子からは敵意も悪い気も感じられない。


「何者ですか。」


紅が静かに問うと、男は少し考えあぐねたあと、うつむいて言った。


「私は……オオカミです。仲間を探す旅をしています。」


嘘ではない。

紅と蒼は顔を見合わせ、ほっと息を吐いた。


「オオカミって、日本オオカミってやつか。絶滅したって聞いたことあるけど、そうじゃなかったんだな。」


蒼が何気なく言うと、紅が横腹をつついた。


「痛っ、何すんだよ。」


紅は蒼を睨んだ。


「ところでお前、泊めてくれって言うからには金がかかるんだぞ。オオカミが金持ってんのか。」


また紅が蒼の横腹をつつく。


「金ならあります。ここに。」


男はズボンのポケットから、しわくちゃになったお札を何枚か出した。


「ここ真言坊は一泊二万四千円になります。それでよろしければ、本日一部屋空きがありますのでご宿泊いただけます。」


紅がそう言うと、蒼が声を荒げた。


「えっ、いいのかよ。こいつオオカミだぞ。」


「何か事情もおありなのでしょう。この宿や他のお客様に迷惑をかけなければ、どうぞご宿泊ください。」


紅は男をまっすぐ見つめた。


「ありがとうございます。ありがとうございます。」


男は何度も深く頭を下げた。


「じゃあ蒼、お客様をお部屋に案内して。」


紅がそう言って厨房へ戻ると、


「えー、俺かよ。」


蒼は嫌そうに言いながらも、あきらめたように男を案内した。


「しょうがねえな。お前、ついて来い。」


部屋に入ると、男は懐かしそうに大きく息を吸った。

宿の古い木の香りを喜んでいるようだった。


「じゃあ、茶の一杯も入れてやるか。」


蒼は男にお茶を入れてやった。


「ありがとうございます。」


男は嬉しそうに茶碗を押し抱き、そっとお茶をすすった。

その目にうっすら涙が浮かんだ。


「お前、何泣いてんだよ。」


蒼は強いものには強いが、弱いものには弱い。

男に泣かれて困惑している。


「すみません。嬉しくてつい。」


男はうつむいた。


「お茶が嬉しかったのか。」


蒼は他人の心の機微には疎い。


「こんなことを言っては失礼かもしれませんが……あなた様方も人ではない存在。勝手に近しい存在と感じまして、そんな方にお茶を入れていただけて嬉しかったのです。」


蒼はまだピンときていない。


「人間じゃないもんに茶を入れてもらえたのが、そんなに嬉しいのか。」


「先ほど仰っていましたね、日本ではオオカミは絶滅したと。私は何とか残る仲間を見つけたくて、もうずっと長い間旅をしているのです。そんな折、あなた様方の匂いを見つけ、ここに吸い寄せられました。オオカミの仲間ではありませんが、それでも人ではないあなた様方に出会えて……寂しさが少し和らぎました。」


男は微笑んだ。


「なんだ、そういうことだったのか。お前、かわいそうな奴だったんだな。」


蒼の目にも涙が浮かんだ。

鬼の目にも涙だ。


「そうかそうか、かわいそうにな。この饅頭も食べていいからな。夕飯に旨いものいっぱい食わせてやるからな。」


蒼は情に厚い。


蒼は調理場に戻ると、男の事情を紅と郁人に話して聞かせた。


「あのオオカミはかわいそうなやつだったんだよ。だから夕飯は腹いっぱい旨い物を食わせてやろう。な。」


蒼は張り切って男の夕食を盛り付けている。

しかし、盛り付けは山のようだ。


「蒼、気持ちはわかるけど、山盛りにすればいいってもんじゃないでしょ。きれいに盛り付けてよ。」


紅に注意され、蒼は肩を落とした。


「オオカミだけど、人の姿に変身できるオオカミってことだよね。」


郁人は不思議そうだ。


「はっきりはわからないけど、もうただのオオカミではないんだと思う。

何かのきっかけで神格化したのか、妖怪みたいなものになったのか……そんなところかな。

まあ、悪さしなければいいよ。」


紅は男を受け入れたようだった。


「あいつのメシは俺が運んでやる。」


蒼は御膳を抱えて食事処へ向かった。

真言坊は部屋数二部屋のこじんまりとした宿坊で、食事処も二部屋。

今回のような“人ならざる客”でも、他の客と距離があるので都合がいい。


男はすでに食事処に座っていた。


「入るぞ。」


蒼が料理の乗った御膳を運んでいく。


「腹は減ったか。旨い物いっぱい持ってきたぞ。」


蒼は精一杯の愛想を振りまき、男の前に料理を並べた。


「どれも美味しそうですね。何とも良い匂いだ。」


男はくんくんと鼻を鳴らしている。


「旨いのは間違いない。何てったって郁人が作ってるんだからな。

そういえば、お前名前は何て言うんだ。」


「昔、家族からは“つづら”と呼ばれていました。」


「つづらか。良い名前だな。俺は蒼、よろしくな。

まだ料理があるからな、いっぱい食えよ。」


蒼はそう言って調理場へ戻っていった。


男は料理をたいそう喜んで食べた。

その様子を見て、蒼も嬉しそうだった。


「蒼、少し話を聞いてみようか。」


紅はそう言って、食事の〆のデザートを持ってつづらのところへ向かった。


「こちらはデザートのくりきんとんです。お茶も入れ直したので、熱いのをどうぞ。」


紅は丁寧に置き、つづらの前に座った。


「少し、話を聞いてもいいですか。」


紅がそう言うと、つづらは是非にもと大きく頷いた。


紅が何から聞くべきか思案していると──


「身の上話を聞いていただけたら嬉しいのですが……」


伏し目がちにつづらが言った。


「差し支えなければ聞かせてください。」


紅と蒼は静かに座り、つづらの話に耳を傾けた。


私は北の深い山で生まれました。

父、母、兄と私──四匹で一つの山を縄張りとして暮らしていました。

後から知ったことですが、その頃には日本オオカミの数はすでに相当減っていたようで、

私は自分の家族以外のオオカミに会ったことがありませんでした。


人間が森をどんどん切り開き、

オオカミの住む場所も、獲物となる鹿やうさぎも減っていきました。

それでも家族で力を合わせ、なんとか山で生活を続けていたのです。


そんなある日のこと──

父が鳥の死骸を見つけ、持ち帰ってきました。

いつも腹を空かせていた家族は喜んで食べました。

私は家族に遠慮して食べませんでした。


次の日、兄の元気がなくなりました。

続いて父も母も。

その次の日には皆が落ち着きなく歩き回り、意味もなく吠え続けました。


私は怖くてたまらず、少し離れた場所から様子を見ていました。


二、三日すると、家族は横たわったままよだれを流し、動けなくなりました。

そのまま皆、死んでしまったのです。


私は独りぼっちになりました。


父や母の狩りの姿を思い出し、見よう見まねで獲物を仕留めて食いつなぎました。

まだ子供だった私は、生きるのに必死でした。


やがて体も大きくなり、狩りにも慣れ、

一人で生きていける自信がついてきました。


しかし──

生きることに少し余裕が生まれると、今度は孤独が襲ってきました。


家族の縄張りである山を歩き回りましたが、

家族以外の匂いはどこにもありません。


本来、他のオオカミの縄張りに入ることは命の危険があります。

それでも寂しさに耐えられず、隣の山に入ってみました。


ところが──

隣の山にはオオカミは一匹もいませんでした。

匂いすら残っていなかった。


そんなはずはないと思い、もうひとつ隣の山にも入ってみました。

そこにもオオカミはいませんでした。


私は大きな喪失感に襲われました。

自分の山を出れば仲間に会えると思っていたからです。


この先も仲間に会えないのでは──

そう思うと、真っ暗闇の中に自分一匹だけが取り残されたようで、

怖くてたまらなくなりました。


深い孤独と恐怖に突き動かされるようにして、

私の仲間探しの旅が始まりました。


山深い山々を歩き回り、

自分と同じオオカミの匂いを探す。

一つの山を探し終えては、また次の山へ。


しかし歩いても歩いても、仲間は一向に見つからない。


長い時が過ぎ、気がつくと私は年をとっていました。

若い頃のようには動けなくなり、

そろそろ自分も父や母、兄のところへ行く時が近づいてきた──

そう思い始めた頃のことです。


休むのにちょうど良い大きな木の洞を見つけました。

洞の中に身を寄せ、目を閉じた瞬間、

まぶたの裏が明るくなり、光を感じました。


そっと目を開けると、洞の外から眩い光が差し込んでいます。

その光は少し暖かく、照らされると長年の孤独が少し和らいだような気がしました。


洞から様子を伺っていると──


「ほーら、そこのオオカミさん、出てらっしゃい。」


柔らかい声が聞こえました。


え、オオカミって私のことか──

どきどきしていると、


「オオカミさんはあなたしかいないでしょ。出てきてくださいよ。」


今度は少し急かすような声でした。


私はのっそりと起き上がり、光の差し込む洞を出ました。


光に目が慣れてくると、

そこには自分と同じ姿形のオオカミが立っていました。


「仲間だ……」


長い間探し続けた仲間がそこにいたのです。

私は嬉しくて嬉しくて、そのオオカミに近づこうとしました。


「ストップ、ストップ。」


慌てて立ち止まりました。


「ごめんなさいね。あなたが探している仲間ではないんですよ。

私は大口真神と言ってね、山の神の使い──神使なの。」


そう言われても、私にはよくわかりません。

何しろ見た目は自分と同じなのですから。


「オオカミの神様ですか……?」


恐る恐る尋ねると、


「まあ、そんなところかな。そう理解してもらっていいですよ。」


と、大口真神は答えました。


「オオカミさん、ずいぶん苦労しましたね。

ずっとひとりで頑張った。

山の神様と、時々上から見ていたんですよ。」


「そろそろ寿命も近づいてきたしね。

これからどうしたいか聞いておこうと思ってやって来ました。」


私は「はあ」と答えるしかありませんでした。


「このまま寿命を迎えるもよし。

もし仲間探しを続けたいなら、少しお助けしますけど──どうですか。」


「助けていただけるのですか。

仲間を……見つけていただけるのですか。」


藁にもすがる思いで尋ねると、大口真神は首を振りました。


「お仲間を見つけてあげることはできないんですよ。

ごめんなさいね。」


「その代わり──あなたに力を授けることはできます。」


「どんな力ですか。」


「まず、寿命をもっと長くできますよ。

それから、人の姿に化けられるようにしてあげましょう。

そうすれば、人からオオカミ探しの情報が得られますからね。」


今のままなら、間もなく寿命が尽きるでしょう。

家族の元へ行くのも良いと思いました。


しかし──

仲間探しは、いつしか私の“使命”になっていました。


もしかしたら、まだ行っていない遠い場所に、

ひっそりと生きているオオカミがいるかもしれない。


そう思ったら、この旅をもっと続けたいと思ってしまいました。


「神様……お力をお貸しください。お願いします。」


私は頭を垂れました。


「そうですか。

また辛い日々が続きますが、やってみるんですね。」


大口真神は天上を見上げ、

おーっと細く長い遠吠えを響かせました。


遠吠えは山々に響き渡り、木々に、岩に、大地に沁み込んでいきました。


次の瞬間──

ドドーンという地響きと共に雷が私を直撃しました。


「オオカミさん、立ち上がってみて。」


声に促され、私は立ち上がりました。


自然にできたことでしたが──

目線がえらく高い。

足元は不安定。

前足は地面に着いていない。


自分の前足を見ると、それは人間の手になっていました。


「これは……」


「人間に化けられる力を授けました。

これで人間界に入っていって、今の日本でオオカミがどうなっているか調べることができますよ。」


「オオカミに戻りたいと思えば戻れるし、

人間になりたいと思えば人間になれますから。」


「寿命もだいぶ伸ばしましたから、しばらくは大丈夫でしょう。」


ここまで話すと、つづらはふーっと息を吐き、お茶を一口飲んだ。


「その後、人里に近づき、人間の様子を伺いました。」


つづらは静かに続けた。


人間はそれぞれに仕事をして働いている。

人に近づくには、この“仕事”を一緒にするのが良いとわかり、

簡単に雇ってもらえる力仕事を見つけては、人に化けて働いた。


働きながら人から話を聞き、テレビを見て、

日本ではオオカミが絶滅したことを知った。


人間による森林伐採。

外国から入ってきた狂犬病という病気。

それで多くのオオカミが死んだらしい。


「私の家族も、この病気にかかったのでしょう。」


つづらは目を伏せた。


「お前、本当にかわいそうなやつだな……」


蒼は話を聞きながら号泣していた。


つづらは過去を思い出して辛そうだったが、

蒼に同情されたことは嬉しかったようだ。


「日本オオカミは絶滅したと言われていますが、まだ山は広くて深い。

この山々を探し続ければ、どこかでひっそりと生き延びている仲間に会えるのではないかと──

その一縷の望みを抱いて旅を続けています。」


つづらは寂しそうに微笑んだ。


「そうだったんですね……」


紅がしんみりとつぶやいた。


「人の中に入っても、私は人ではないので孤独はずっとつきまといます。

そんな折、この地にやって来て、お二人の匂いに出会いました。

それで話がしたくて伺った次第で。」


「お前、寂しかったんだな。もっと早く来ればよかったじゃないか。」


蒼は現金だ。

最初はつづらを嫌煙していたはずなのに、今はすっかり仲間扱いだ。


「自分の生い立ちを話せたのは初めてです。

思い切ってここに来て本当に良かった。

自分がオオカミだなんて、人には話せませんから。」


嘘偽りなく話せたことが、つづらは本当に嬉しそうだった。


「話を聞いただけですけど、お役に立てたのなら良かったです。ねえ、蒼。」


「そうだ、話ならいくらでも聞いてやるぞ。」


蒼は鼻をかんだ。


仲間探しの旅に疲れ切っていたつづらは、

紅と蒼に心のうちを聞いてもらい、

二人の温かさに触れ、心身ともに癒されたようだった。


翌朝。

食事処につづらの姿があった。


「つづら、よく眠れたか。」


蒼は乱暴な言葉の中に気遣いを込めている。


「おかげさまで、久しぶりによく眠れました。」


蒼のざっくばらんな態度に、

つづらは“仲間にしてもらえた”と感じているようだった。


「今朝も旨い物ばかりだからな、いっぱい食えよ。」


蒼は山盛りにご飯をよそい、

つづらは嬉しそうにそれをかき込んだ。


出立の時となった。


「この度は私のようなものを泊めてもらって、話も聞いてもらって……

なんとお礼を言っていいか……」


楽しい時間があれば、その分別れは寂しい。

たった一日の宿泊だったが、

つづらにとっては初めて“心を許せた相手”と過ごした時間だった。


「また来ればいいじゃないか。」


蒼が当たり前のように言った。


「寂しくなったら、すぐに来ればいいだけのことだろ。」


そう言って鼻をこすった。


「そうだね、また来てください。いつでもお待ちしてます。」


紅も優しく頷いた。


つづらは泣き笑いのような顔になり、深く頭を下げた。


「また、来させてもらいます。」


そう言って、くるっと後ろを向き、旅立っていった。


紅と蒼は、つづらの後ろ姿が見えなくなるまで見送った。


「俺、思ったんだけどさ。」


蒼が眉間に皺を寄せて言った。


「何。」


「その大口真神の神様、ケチだよな。

神様なんだからさ、つづらの仲間探してやればよくね。

そんなの神様だったら簡単にできるんじゃねえの。」


蒼は真剣に怒っている。


「それはさ、神様にもいろいろ事情があるんでしょう。」


紅が諭すが、蒼の耳には入らない。


「いや、つづらがかわいそうすぎる。神様のくせに……」


蒼の怒りは収まらないようだった。


オオカミの仲間が見つかるかどうかはわからない。

しかし──

つづらにはもう、紅と蒼という仲間が見つかっていた。

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