第10話 里帰り
「紅ー、まだかー! 待ちくたびれたぞ」
大きなリュックサックを背負い、両手に紙袋を抱えた蒼が、かまどの前でそわそわと足踏みしていた。
その姿は、遠足前の子どものようだ。
「はいはい。そんなに急がなくても鬼の郷は逃げて行かないよ」
同じく大きなリュックを背負った紅がやって来る。
蒼はすぐに紅の荷物を覗き込み、かいがいしく確認を始めた。
「忘れ物はないか。着替え、歯ブラシ、金は向こうじゃ使えないからな。みんなへの土産は持ったか」
「着替えも、お土産も持った。大丈夫……だと思う」
二人は顔を見合わせ、ふっと笑みがこぼれた。
久しぶりの帰郷は、胸の奥がじんわり温かくなる。
「よし、行こう」
蒼は紙袋をかまどの中へ押し込み、そのまま頭を突っ込んで中へ消えた。
紅も後に続く。
真言坊のかまどは鬼の郷と繋がっている。
昔は火が落ちるまで待たなければならなかったが、今はガスを使うため、かまどは調理場の片隅で静かに埃をかぶり、いつでも潜り込める“秘密の入口”になっていた。
狭いトンネルを抜けると、郷はずれの滝の裏側にある洞窟へ出る。
「いつ通っても狭いな」
先に出た蒼が体についた埃を払いながら言う。
「本当。あのアニメみたいなどこでもドア欲しいよね」
紅も埃まみれになりながら笑った。
二人は両手いっぱいのお土産を抱え、森の中の山道を歩き出す。
時折、肌を刺すような冷たい風が吹きつけた。
「やっぱりこっちは寒いな」
蒼が肩をすくめる。
張りつめた空気の中、辺りはしんと静まり返っていた。
紅と蒼が里帰りするのは鬼の郷の年末年始。
鬼の郷では二月四日からが新年となり、一年で一番寒い時期だ。
「人の世界とは違うからね」
紅がしみじみ言う。
人間界は便利になり続けている。
車は雨風を防ぎ、エアコンは季節を忘れさせ、蛇口をひねれば水が出る。
スマホは海外の人とも話せて、知りたいことは何でも調べられる。
それに比べ、鬼の郷はその反対だ。
鬼のモットーは“足るを知る”。
持っているものに目を向け、感謝して生きる。
だから発展の必要がない。変化を好まないこともある。
清流沿いの小道をしばらく歩くと、小高い丘に出た。
ぐるりと山に囲まれた盆地には田んぼや畑が広がり、かやぶき屋根の家々が点在している。
家々の方へ向かって歩くと、樹齢何千年にもなる栗の大木が左右に対になって道を挟んでいた。
二本の根は地表を這い、お互いに絡み合い、長く伸びた枝は重なり合って天井をつくる。
この二本の栗の木が結界となり、鬼の郷を守っている。
ここからが鬼の郷だ。
「帰って来たな」
蒼が栗の木を見上げ、懐かしそうに言う。
「ただいま」
紅は栗の木に手を添えて挨拶した。
ここまで来れば、家はもうすぐだ。
ふっと、炭が燃える懐かしい匂いがした。
鬼の郷には電気がない。
冬の暖房は囲炉裏の火。
どの家でも冬の間は火を絶やさない。
紅と蒼にとって、炭の匂いは“冬の帰郷の匂い”だった。
先へ進むと蒼の家が見えてきた。
鬼の郷の家は皆かやぶき屋根の日本家屋で、違いは部屋数くらい。
広い庭には鶏が放し飼いにされ、梅や柿、ビワの木が植えられ、春には花が咲き乱れる。
蒼は紅の方を向き、
「じゃあな、紅」
と、お土産の紙袋を軽く掲げた。
いつも一緒の紅と別れるのは毎年のことなのに、蒼はどこか不思議な気持ちになるのだった。
「ただいまー、帰って来たよー」
玄関に入った瞬間、懐かしい我が家の匂いがふわりと鼻をくすぐり、蒼は胸がじんと熱くなる。
「おかえりー、蒼」
蒼の声を聞きつけて、母の紺が満面の笑みで飛び出してきた。
有無を言わせず蒼をぎゅっと抱きしめる。
「蒼、元気にしてたかい。会いたかったよ」
「うう、母ちゃん苦しい」
照れながら言う蒼だが、抱きしめられている表情は満更でもない。
「母ちゃんも元気だったか。お土産いっぱい持ってきたぞ」
蒼は両手の紙袋を持ち上げて見せた。
「いつもありがとう。その気持ちが嬉しいよ。それにしてもたくさんだね、用意するの大変だったろう」
紺は家族を思う蒼の気持ちが本当に嬉しい。
「立ち話もなんだ、さあ中にお入り。今晩は蒼の好きな物をいっぱい作るからね」
二人は囲炉裏のある居間へ上がっていった。
「父ちゃんは」
「父ちゃんは郷の寄り合いに行ってるよ。夕方には帰ってくるだろう」
紺は囲炉裏の火が当たる温かい場所に、ふかふかの座布団を敷いた。
「さあ、蒼ここにお座り。外は寒かっただろ」
かわいい娘の帰省が嬉しくて、紺の顔はゆるみっぱなしだ。
「ありがとう、母ちゃん。じゃあお土産を出すぞ」
蒼は紙袋の中身を全部取り出して並べた。
「まずは母ちゃんには、この毛糸の赤いカーディガンだ。寒い時にはこれを着ればぽかぽかだ。それから母ちゃんと父ちゃんに毛糸の靴下もあるぞ。家の中で履いてれば足があったかいからな」
蒼はニコニコしながら紺にカーディガンと靴下を渡した。
「まあ、これはあったかそうだね。早速着させてもらおう」
紺はカーディガンを羽織り、靴下を履いた。
「本当に背中がぽかぽかするよ。足もこれなら冷えなくて済むね。ありがとう、蒼」
嬉しそうに頭を下げる紺。
「お土産買ってくるのなんて、あったりまえだよ。母ちゃんが喜んでくれて良かったよ」
蒼は少し照れながらも嬉しそうに笑った。
「もっといろいろあるけど、後は父ちゃんが帰って来てからにするか」
それがいいと、お土産は一旦袋に戻された。
「一年ぶりだけど、特に変わったことはなかったか」
鬼は変化を好まないので、いつもなら一年経っても大きな違いはない。
だが今年は違ったようだ。
「それがね、ちょっと面倒なことが起こっているようなんだよ。いやね、うちがどうこうって訳ではないんだけどね」
紺は囲炉裏に手をかざしながら話し始めた。
「鬼の郷に水の管を通そうって話が出ていて、それに賛成する者と反対する者がいて仲たがいみたいになってるんだよ。それで今日もみんなが寄り合い所に集まってるんだ」
紺は困った顔で手をさすっている。
「水の管ってのは、水道のことか」
蒼が聞く。
「水道。人間の世界ではそう言うのかい。何でも郷外れの湧き水のところから竹の筒をずっと伸ばして、一軒一軒の家に湧き水を配れるようにするってことらしいんだよ」
「それは水道のことだな。確かにな、あれがあればだいぶ便利になる。川や井戸まで水を汲みに行かなくてよくなるからな」
蒼は良い考えだと頷いた。
「ところがね、そう単純な話じゃないんだよ。鬼は変わることをきらうだろう、そのうえ頑固だし。だからね、いくら便利だって言ったって今までなくてもやってこられたものを作る必要はないだろう、っていう鬼もいるんだ。それで賛成派と反対派が対立してね」
紺はますます困った顔になる。
「現状を変えたくないのも、頑固なのも、どっちも鬼らしいな」
蒼はくだらないと言い放った。
「くだらない話なんだけどもさ、青磁が反対、白磁が賛成で、これまた兄弟で仲たがいしていてね」
「え、青磁兄と白磁兄も喧嘩してんのか。いつもあんなに仲が良いのに」
優しい二人の兄が仲たがいと聞いて、蒼は驚いた。
「そうなんだよ。いつも穏やかで優しい二人が、この水の管の話になると納まりがつかなくなってしまってね」
「そうなのか……」
兄同士の仲たがいと聞いて、蒼も他人事ではなくなってきた。
そこへ父の鉄が寄り合いから帰って来た。
「ただいま。戻ったぞ」
大柄の青鬼、鉄がのっしのっしと居間に入って来た。
「おお、蒼帰って来たか」
蒼の姿を見つけると鉄は笑みを浮かべた。
「父ちゃん、只今。父ちゃんにもお土産買ってきたぞ」
蒼は立ち上がって父に走り寄り、抱きついた。
鬼の世界は家族の結びつきが強く、愛情深い。
スキンシップも西洋風だ。
蒼は袋から毛糸の靴下を取り出し、鉄に渡した。
「父ちゃん、これを履けば冬もあったかいからな。母ちゃんとお揃いだぞ」
蒼は嬉しそうだ。
「これはあったかそうだな。早速履いてみようか」
鉄は座って靴下を履いた。
「おお、これは良い。冬の間重宝する。蒼ありがとう」
目に涙を浮かべている。
「なんだ父ちゃん、泣いてんのか」
蒼は照れくさく父の背中を叩いた。
「かわいい娘が大きくなって、こんな土産まで用意してくれて嬉しくてな」
久しぶりの親子水入らずで、鉄の家に温かい空気が流れる。
「そう言えば母ちゃんから聞いたけど、水の管で郷がもめてるらしいな」
「もう聞いたか。今もな、その件で寄り合い所に行っていたんだがな……」
鉄は囲炉裏に手をかざしながら困った顔で続けた。
「水の管が出来ればみんなが便利になる。特に女衆は水汲みに行かなくてよくなるからな。しかし反対派の意見も最もだ。まず管をどう取り付けるのか。嵐の日にも壊れないような管を取り付けるのはそうとう難しい。もし管が壊れたらどうするのか。水の管が壊れたからじゃあ井戸を使えばとは簡単にはいかない。井戸は一度使わなくなると水が悪くなってしまうから、すぐにどうこうできない。水汲みが大変だというが、人間などと違って鬼は力があるからそこまでの負担ではない。今のままで何も不自由はないというんだ」
確かに反対派にも説得力がある。
「確かに説得力あるな。母ちゃんはどうだ、いつも水汲みして大変か」
蒼が聞く。
「そうだね。確かに鬼は力があるから水汲みがそこまで大変ではないけど、中には病気の鬼や年寄りもいるからね。そんな鬼は水の管があると助かるだろうね」
蒼も鉄もその通りだと思った。
蒼は囲炉裏の火を眺めながら兄たちの顔を思い浮かべた。
いつも自分を間に挟んで笑っていた二人が、今は向かい合って言い争っているという。
「明日、兄ちゃんたちの所に行ってみるか」
蒼がつぶやくと、紺が静かに頷いた。
「久しぶりに蒼の顔を見たら二人とも喜ぶよ」
「兄ちゃん達にも土産を持ってきたからな。明日にでも持っていくわ」
蒼の言葉に、鉄と紺は優しく微笑んだ。
青磁と白磁は結婚してそれぞれ所帯を持ち、実家から少し離れた場所に家を建てて暮らしている。
蒼はまず、上の兄・青磁の家へ向かった。
「こんちはー。青磁兄いるかー」
お土産の袋を下げ、玄関口で声をかける。
「蒼ちゃん、帰って来たの」
出てきたのは青磁の嫁・紫だ。
紫は青磁同様、蒼を実の妹のようにかわいがってくれる優しい姉だ。
「紫姉さん、久しぶりです。昨日帰ってきました」
「姉さんと兄ちゃんにお土産を持ってきたんで渡そうと思って」
「あら、いつも悪いわね。気にかけてもらってありがとう。どうぞ上がって。今、青磁さん呼んでくるわ」
紫は庭へ出て青磁を呼んだ。
「蒼、帰って来たのか。元気だったか」
巻き割りの手を止め、青磁が居間に入ってくる。
「おかげさまで元気だったよ。青磁兄さんも変わりなかった」
そう言った瞬間、蒼は“水の管”の話を思い出し、しまったと思ったが遅かった。
「変わりはないがな、今ちょっともめ事があってな。聞いてるか」
青磁は渋い顔をした。
「ちょっと聞いたけど、その前に土産を持ってきたんだ」
蒼は袋から毛糸の靴下を二組取り出した。
「これ、兄ちゃんと姉さんに。これを履けば冬の間も足があったかいぞ。父ちゃんと母ちゃんにも持ってきたから、みんなでお揃いだ。それから、これはカレーっていう食べ物で、あっためてご飯にかけて食べるんだ。人間界のだから口に合うかわからないが、食べてみてくれ」
レトルトのカレーを見て、青磁と紫は不思議そうにしながらも、蒼の気持ちが嬉しいらしい。
「ありがとう、蒼。何よりもその気持ちが嬉しいよ。いつもありがとう。早速靴下を履いてみるか」
二人は毛糸の靴下を履き、温かいと喜んだ。
「ところで、水の管の話は聞いたか」
青磁が聞く。
「うん。賛成と反対がいるって聞いたよ」
青磁は頷いた。
「水の管なんてな、今までもなかったんだからこれからもなくていいんだよ。今のままが一番いいんだ」
賛成派との諍いを思い出したのか、青磁の語気が荒くなる。
「白磁まで水の管を作るべきだとぬかしやがる。あいつもなにもわかっちゃいない」
蒼は、いつも穏やかな青磁から怒りがにじむのを見て、事態が思ったより深刻だと感じた。
兄さんと姉さんの顔が見られて良かったと、蒼は青磁の家を後にした。
続いて蒼は、下の兄・白磁の家を訪ねた。
白磁とその嫁・墨も蒼が訪ねてきたことを喜んだ。
皆とお揃いの毛糸の靴下を渡すと、二人はその場で早速履き、温かいと嬉しそうだ。
「父ちゃんと母ちゃん、青磁兄ちゃんたちにも同じ物を持ってきたから、みんなでお揃いだぞ」
蒼がニコニコしながら言うと、
「蒼は水の管のことを聞いたか」
白磁はため息をついた。
「俺は昨日来たばかりだからな。よくはわからないが少しだけ聞いたよ」
蒼が遠慮がちに言うと、
「みんなわかってない。変わらないことがいつも正しいわけじゃないのに」
諍いを思い出したのか、白磁は手を握りしめて怒りを露わにしている。
普段は温厚な白磁がこうなるのは珍しい。蒼は、これはなかなか深刻だと思った。
二人の兄の家を周り、蒼が家に帰ると、ちょうど鉄が出かけるところだった。
「父ちゃん、ただいま。どっか出かけるのか」
「ああ。今日もまた寄り合い所で水の管の話し合いだ」
「そうか、大変だな。少し雪が降り出したぞ」
「雪が降って来たか。じゃあこいつを持っていくか」
鉄は蛇の目傘を手に取った。
「俺も行ってもいいのか? 寄り合い所」
蒼がふと思いついて聞いた。
鉄は一瞬驚いたが、
「大勢集まっているから、一人くらい増えても大丈夫だろう。じゃあ一緒に行くか」
かわいい娘と出かけられて嬉しいようだ。
「母ちゃん、父ちゃんと寄り合い所に行ってくるからな」
大声を聞きつけて、家の奥から紺が出てきた。
「何だい、蒼もついて行くって」
「ああ、一人くらい増えても大丈夫だろう。あまりかかるようなら先に帰ればいい」
鉄と蒼は連れだって寄り合い所へ向かった。
外は小雪が舞い始め、冷たい風が吹きすさんでいる。
家を出て郷の中心へ向かうにつれ、のどかな田園風景から少し賑やかな雰囲気へ変わっていく。
鬼たちは基本的に自給自足だが、郷の中心には洋品店、食料品店、小間物屋など数件の店があり、日々の暮らしに利用されている。
郷の中心の一角に“鬼の郷寄り合い所”がある。
かやぶき屋根の大きな建物で、決め事の際には皆がここに集まる。
鉄と蒼が入ると、すでに話し合いは始まるところだった。
五十人ほどの鬼が中央の囲炉裏を囲み、何重もの輪になって座っている。
青磁と白磁の姿も見える。
さらに鬼たちを眺めていると、紅の姿を見つけた。
どうやら蒼同様、父親について来たらしい。
蒼に気づき、小さく手を振っている。
輪の中心にいた鬼の郷の長老が、ゆっくりと口を開いた。
「では、本日も水の管について議論するとしよう。意見のあるものは申してみよ」
鬼の郷には赤鬼と青鬼がいるが、今の長老は青鬼だ。
白髪に長い白髭を垂らし、年輪を刻んだ顔は厳しくも穏やかだ。
鬼も人間同様、年をとれば白髪になり、髪が薄くなる。
一人の赤鬼が立ち上がった。
「俺は水の管に賛成だ。水はご飯作りはもちろん、洗濯、掃除にも使う。その度に井戸や小川、湧き水から水を汲んで運ぶのは大変だ。しかもそれらは女たちがほとんどやっている。水の管があれば、女たちが楽になって良いじゃないか」
賛成派の鬼たちから拍手が起こる。
「ちょっと待て」
別の赤鬼が立ち上がった。
「便利にはなるだろう。だが、どうやって水の管を造るんだ。この前の集まりでは竹の筒を使うと言っていたが、何十件もの家にどうやって行き渡らせるんだ。そこをはっきりさせられなきゃ作り始めるわけにはいかないだろう」
今度は反対派の鬼たちから拍手が起こった。
「そんなこと言ってたら何も始まらないだろう。やってみなけりゃわからないことだってあるんだ」
どこからかヤジが飛ぶ。
「そんなことして失敗したら誰が責任を取るんだ」
ヤジの応戦が始まり、場がざわついた。
「止め、止めい。発言するときには立ち上がってするように」
長老が声を張り上げ、場を静めた。
「毎日これで、先に進まなんだ」
鉄が小さな声で蒼に言う。
蒼はようやく状況を理解した。
その時、兄の白磁が立ち上がった。
「皆に聞いてほしい。今日は妹の蒼がここに来ている。蒼は命あって人間界で暮らしている。人間界には水の管が昔からあるんだ。蒼から人間界の水の管のことを聞いてみてはどうだろう」
賛成派から大きな拍手が起こる。
急に白磁からそんなことを言われ、蒼は焦った。
「ではどうだろう、今日は紅も来ているな。二人から話を聞いてみるのはどうだ」
長老が言った瞬間、ヤジが飛んだ。
「人間界にいるやつの話なんか聞けるか。なんで人間界なんて行ってるんだ。あんな外道の世界に」
「なんだと」
蒼が言い返す声にかぶせて、
「誰だ、今言ったのは。立ちやがれ、このやろう」
「このやろう、俺の妹に向かって許さねえ」
同時に怒鳴ったのは青磁と白磁だった。
二人の兄が正しく鬼の形相で怒っているのを見て、蒼は思わずクスっと笑ってしまった。
「文句があるなら正々堂々と言いやがれ。紅と蒼はな、天之御中主神の命で人間界に行ってんだからな。それに文句つけるってことは神様への不敬ってことだ。覚悟はあんだろうな」
青磁が続けると、場は一気に静まり返った。
「文句はないんだな。じゃあ蒼、それから紅ちゃん、水の管のことを教えてくれ」
白磁が二人を促す。
静まり返った空気の中、紅と蒼は立ち上がった。
二人は顔を見合わせ、少し首をかしげたが、蒼が話し始めた。
「人間の世界には水道っていう水の管がある。全部の家に管が通っていて、家で水を使う時には、その管の根本をひねるだけで、きれいな水が出てくるんだ」
鬼たちは黙って聞いているが、見たこともない水の管にイメージがわかないようだ。
「その水の管は家のどこにあるんだ」
ある鬼が聞く。
「家の中のいくつかの場所にある。まず台所には必ずある。それから風呂場にもある。蛇口をひねるだけで風呂が沸かせる。後はトイレだな」
鬼たちはガヤガヤし始めた。
「その水の管は流れてくる途中で壊れたり漏れたりしないのか」
また誰かが聞く。
「人間の世界では鉄のような硬い金属で水の管を造っているから、ほとんど壊れることがないんです」
今度は紅が答えた。
あー、と鬼たちから残念そうな声が漏れた。
鬼の郷では包丁や斧は造れても、金属で管を造る技術はない。
「みんな聞いただろう。金属で管を作れなけりゃ、水の管を郷全部に通すことは無理なんだ。そんなことをしなくても今まで通り、井戸や湧き水を汲んで使えばいいじゃないか」
反対派の青鬼が言うと、反対派は「そうだそうだ」と大声を上げ、賛成派は押し黙った。
「あの、聞いても良いですか。そもそもどうして水の管を作ろうという話になったんですか」
紅が質問した。
賛成派は顔を見合わせ、白磁が話し始めた。
「そもそもの発端は、郷の外れに住んでいる藍ばあさんなんだ。ばあさんは年をとって足腰が弱っていてな、水汲みが大変なんだ。ちょうど俺が畑でできた大根を持って行ったら、井戸から水を汲んでいるところで、それはそれは大変そうだった。そこから病気や年寄りの鬼の水汲みの話題が寄り合いであがるようになって、どうにかできないものかと話し合った結果、水の管を郷に通したらいいじゃないかということになったんだ」
賛成派が弱者を助けようとしていることには、どの鬼も頷いた。
「もちろん反対派の鬼だって、困っている鬼を助けたい気持ちはあるんだ。ただ、本当に郷中に水の管を通すことは無理だろうと反対しているんだ」
反対派もただ反対しているわけではないらしい。
「ならば、水の管じゃなくても水汲みが楽になる方法があればいいんですね」
紅が聞くと、鬼たちはうんうんと頷いた。
「水汲みが楽になる方法ね……」
皆が額や顎に手を当てて考え込む。
「郷の中で、年寄りや病気の鬼の家に交代で水汲みの手伝いに行ったらいいか」
一人が言った。
「しかしな、毎日のことだから、うっかり当番を忘れたりしたら困ったことになる」
確かにその通りだと、また振り出しに戻る。
その時、蒼が言った。
「ずっと前に聞いたんだけど、湧き水の石って鬼の郷にはないのか。あの石を置くとそこから水が湧くっていうやつ」
「ああ、湧き水の石か」
多くの鬼が顔を上げた。
「湧き水の石なら確か、鬼の郷にも二つくらいはあったはずじゃ」
長老が顎髭をなでる。
「二つじゃ足りないな」
鬼たちはまた俯いた。
「湧き水の石は神様に言えばもらえるんじゃないか。俺、おみず様に頼んでみるよ」
蒼が提案した。
「おみず様とは、罔象女神のことか。蒼が頼めるのか」
長老が驚く。
蒼は照れくさそうに鼻をこすった。
「ああ、困っている鬼のためだからな。聞いてみるよ」
「では皆の衆。もし湧き水の石がいくつかあれば、それを年寄りや病気の鬼の家に置くということでどうじゃろう。水の管の代わりの案ということで」
鬼たちから賛成の拍手が起こった。
今まで賛成派と反対派に分かれて険悪だった雰囲気が解け、朗らかな空気へと変わった。
青磁と白磁が蒼のところへやって来た。
「お手柄だな、蒼」
二人は蒼の頭をワシワシと撫でる。
もう仲直りしたようだ。
蒼は思った。
これは何としても、おみず様に湧き水の石をもらわないと。
寄り合いは解散となった。
「蒼、明日にでもおみず様に会いに行こうか」
寄り合い所の出口で紅が声をかけてきた。
「そうだな。一緒に行ってくれるか」
「当たり前じゃない」
紅は笑った。
真言坊では言わなくてもいつも一緒だから、蒼は少し照れくさくなる。
「二子山のふもとの湧き水の水だまりがいいかな」
「そうだね。あそこなら水が澄んでいてきれいだから、おみず様も来てくれるかもしれないね。じゃ、明日の朝集合ね」
二人は約束をして、それぞれの家へ帰っていった。
翌朝。
湧き水の水だまりに紅と蒼が立っていた。
ふたこぶらくだの背のように二つの山が仲良く並ぶ二子山。
その山に沁み込んだ雨水が地中でろ過され、ふもとの岩から湧き出している。
あふれた湧き水がたまって池のようになった場所を、鬼たちは“水だまり”と呼ぶ。
水はどこまでも透明で、奥は深い藍色に見えた。
蒼が水だまりの淵に立ち、声を掛けた。
「おみず様、真言坊の蒼です。お願いがあります。二子山のふもとの水だまりに来てもらえませんか」
紅と蒼が水の中を覗き込むと、ブクブクと泡が上がり──
ヌッと錦鯉の姿のおみず様が現れた。
「私を呼んだのは……えーと、ここで良かったかしら」
錦鯉のおみず様は水面から頭を出し、きょろきょろと周囲を見回す。
「おみず様、忙しいところ来てもらってありがとうございます」
蒼が頭を下げる。
「ありがとうございます」
紅も続いて頭を下げた。
「ああ、紅さんと蒼さん、こんにちは。えーっと……ここは真言坊じゃなくて鬼の郷。ああ、里帰りしてるのね。そういうことね」
おみず様はようやく合点がいったようだ。
「実はお願いがあって……すみません、呼んでしまいました」
蒼は神様を呼び出したことに恐縮している。
「何言ってるの。あなた方と私の仲ではありませんか。お願いって?」
いつもながら優しい声だ。
紅と蒼は鬼の郷で起きている水の管の騒動を説明し、
湧き水の石をもっともらえないかと相談した。
「あらあら、そんなのお安い御用よ。その辺に良い大きさの石はあるかしら。あったら持ってきてください」
紅と蒼が周囲を見渡すと、ちょうど人が座れるほどの石がいくつかある。
二人はそれらを水だまりまで運んだ。
「おみず様、これでいいですか」
「いいですよ」
錦鯉のおみず様はくるっと回り、お姫様の姿になって水の外へ出てきた。
置かれた石を「ひい、ふう、みい」と人差し指で数え、
何やら呪文のような言葉を唱える。
「みたまの水、ここに満ちよ。清らの流れ、石に宿れ」
一瞬、石が光ったように見え、
その光がゆっくりと石に沁み込んでいった。
「これでよし。後は使いやすいように削ったりすれば、もう使えますよ」
そう言うと、おみず様は再び水の中へ戻り、錦鯉の姿に戻った。
「おみず様、ありがとうございます」
紅と蒼は深く頭を下げた。
「そうそう、もっと数を増やしたければ、石を集めてまた私を呼んでね」
「その時はまたお願いします」
蒼が返事をした瞬間、おみず様は水だまりの奥へと消えていった。
「そうそう、使わない時は蓋するの忘れないようにー、ね」
姿は見えないが、声だけが辺りに響いた。
「よかったね」
紅が言い、二人はいくつもの石を軽々と担いで帰っていった。
紅と蒼が湧き水の石を持ち帰ると、鬼たちはたいそう喜び、すぐに加工に取りかかった。
表面を洗面器のように彫れば、そこから水が湧き出る。
使わない時は蓋をすれば水は止まる。
これで年寄りや病気で体が不自由な鬼たちも、ずいぶん助かるだろう。
加工された湧き水の石の一つは紅の家にも運ばれてきた。
「これで母さんもずいぶん水汲みが楽になるね」
紅は嬉しそうに石を見回した。
「本当に助かります。青磁さん、石の加工をして、しかも家まで運んでもらってありがとうございました」
紅の母・茜が深々と頭を下げた。
「こんなのお安い御用ですよ。紅ちゃんには、うちの蒼がいつも良くしてもらって、お礼には足りないくらいだ」
青磁は笑った。
茜は昔から病弱で、今はだいぶ良くなったが、以前は寝たり起きたりの生活だった。
健康な鬼には何でもない水汲みも、体力のない茜には負担だった。
そこへ父の琥珀が帰ってきた。
「これは青磁さん、どうも」
「ちょうど今、湧き水の石を持ってきてくれたんだよ」
紅が話すと、
「それはそれは、忙しいところありがとうございました。これで茜も助かります」
琥珀はありがたいと頭を下げた。
青磁はお礼にお茶の葉をたくさんもらって帰っていった。
「父さん、今日はもう店を閉めたの」
琥珀は寄り合い所の近くに煎じ薬の店を出している。
人間界でいう薬局のようなものだ。
「ああ、せっかく紅が里帰りしているんだから、こんな時くらいはいいだろう」
一人娘の紅が一年ぶりに帰ってきて嬉しいのだ。
「湧き水の石も置いてもらって、良かったな茜」
妻をいつもいたわる琥珀は、茜の負担が減ることに安堵している。
「本当にありがたいわ。今回もおみず様に手間をかけてしまったわね」
茜が申し訳なさそうに言う。
「そうだね。母さんが元気になったのも、おみず様のお陰だものね」
──ずっと昔のこと。
紅と蒼は神界に行き、禁忌とされている“神の影”を踏んでしまった。
その影の主こそ、おみず様だった。
影を踏んだことを詫びたことがきっかけで、おみず様と話ができる間柄になった。
ある時、紅の母が病弱なことを知ると、おみず様は“水霊草”のことを教えてくれた。
清らかな水の流れる場所に生える水霊草。
これを煎じて飲めば体の巡りが整うという。
琥珀が山に分け入り水霊草を探し出し、煎じ薬にして飲むと、茜の体調はみるみる良くなった。
今でもこの煎じ薬を欠かさず飲んでいる。
「何かお礼ができるといいんだけどね」
「お礼ね……何しろ相手は神様だから。今度会ったらよくお礼言っておくね」
紅は検討がつかないながらも、今度それとなく聞いてみようと思った。
「さあ、今日も紅が喜ぶ夕飯を作りましょう」
茜も娘の帰郷が嬉しい。
紅が喜ぶものをたくさん作ってやろうと思うのであった。
鬼の郷に湧き水の石が新たに加えられ、水の管の問題は無事に解決した。
鬼は力持ちだからと言って女衆ばかりに負担をかけず、男衆も率先して水汲みをするように──と長老からのお達しもあった。
そして、真言坊へ戻る時がやって来た。
「紅、体には気を付けるんだよ」
茜が紅を抱きしめる。
父の琥珀も茜ごと紅を抱きしめた。
「紅、頑張り過ぎないように。何かあればすぐに帰ってくればいいんだ」
別れの時はいつも胸がきゅっとなる。
「一年なんてすぐだからね。また帰ってくるよ」
紅は両親に手を振りながら、蒼の家へ向かった。
蒼の家には、青磁と紫、白磁と墨も見送りに来ていた。
「蒼、今回はいろいろ世話になったな。水の管の件が何とかなったのは、お前たちのお陰だ」
「なあ」と青磁と白磁が顔を見合わせる。
「そうか。俺と紅が帰ってきてよかったな」
蒼が照れ笑いをすると、皆が一緒になって笑った。
ちょうどそこへ紅がやって来た。
「蒼、体に気を付けるんだよ。あんまり無理するんじゃないよ」
紺が紅を抱きしめる。
「母ちゃん、母ちゃんも父ちゃんも、そっちこそ体に気をつけろよ」
蒼は寂しい気持ちを悟られないよう、わざとつっけんどんに言った。
「紅ちゃん、また蒼を宜しくお願いしますね」
紺と鉄が頭を下げる。
その姿を見た蒼は目頭が熱くなり、慌てて走り出した。
「じゃーなー、みんなー! また帰ってくるからなー!」
「お世話になりました。また帰ってきます!」
紅はペコリとお辞儀をして、蒼の後を追って走り出した。
「蒼ー、待ってよー!」
蒼は涙をごまかすために走り続けた。
そのまま真言坊の竈につながる滝まで来てしまった。
いつの間にか涙は止まっていたが、息は上がったままだ。
肩でぜえぜえと呼吸していると、紅が追いついてきた。
「もう、寂しいからって先に行かないでよ」
紅が蒼の顔を覗き込み、
「もしかして、泣いてた」
意外そうに言う。
「泣くわけないだろう」
蒼は目をそらした。
名残惜しさはある。
けれど今となっては、紅と蒼の居場所は真言坊にある。
「じゃあ、帰ろうか。真言坊へ」
紅が言うと、蒼は大きく頷いた。




