第8話 紅と蒼
一日中、日は沈まない。
暑くもなく、寒くもない。
何も食べなくてもお腹は空かない。
ただ、紅と蒼は地面に貼り付けられたまま、指一本すら動かせない。
まるで世界そのものが二人を“時間から切り離した”かのようだった。
──いったいどれほどの時間がたったのだろう。
紅と蒼は地面にへばりついたまま、ただ空を見上げていた。
動けない理由はただひとつ。
神界で禁忌を破ってしまったからだ。
今から1400年前。
紅と蒼は鬼の郷で生まれた幼馴染だった。
「蒼、神界って知ってる?」
川で水切りをしながら紅が言った。
「神様がいるところか?」
蒼は石を投げながら答える。
「そうそう。森の大クスの洞から行けるらしいよ。」
紅は得意げに言った。
「でも母ちゃんが“絶対行くな”って言ってたぞ。」
蒼は口をとがらせる。
「それは皆行ったことがないからだよ。神界はキラキラしてて、願い事が何でも叶うんだって。」
紅は空を見上げた。
「本当か?願い事、叶うのか?」
蒼は前のめりになる。
「うちは……母さんの病気が良くなることだな。」
紅の母は体が弱く、寝たり起きたりの生活だった。
「蒼は?」
「それは秘密だな。」
蒼は照れたように笑った。
蒼は思った。
──紅の願いを叶えてやりたい。
「じゃあ、神界行ってみよっか。」
紅が嬉しそうに頷く。
二人は森の大クスへ向かった。
小高い丘を越え、川沿いの小道を抜け、森の奥へ。
樹齢何千年の大クスが静かにそびえていた。
紅と蒼は木の周りを一周し、裏側の大きくえぐれた洞を見つけた。
「ここだな。」
蒼が洞をのぞき込む。
「大丈夫かな……」
言い出しっぺの紅が急に不安になる。
「なんだ紅、心配になったのか?」
蒼にからかわれ、紅は思わず洞へ飛び込んだ。
蒼も続いた。
眩い光。
目が慣れると、一本の道がどこまでも続いていた。
家も森も川もない。
ただ道だけが存在していた。
「行ってみようか。」
二人は頷き、歩き出した。
しばらくすると、遠くに人影が見えた。
「あれ、神様かな?」
「神界だから、そうなんだろうな。」
紅が声をかけようとした瞬間──
二人は地面に押し付けられた。
神の影を踏んだのだ。
神界では最大の禁忌。
声も出ない。
涙も流れない。
日の沈まない神界では、時間の経過がまるで霧の中だ。
朝も夜もない世界で、どれだけの時が過ぎたのか見当もつかない。
家族は心配して探しているだろうか──そう思うたび、軽はずみに神界へ来てしまったことが悔やまれて仕方なかった。
紅は蒼を神界に誘った自分を責め続けていた。
あんなばかなことを言い出さなければ、蒼までこんな目に遭わせることはなかったのに。
ただでさえ体の弱い母さんが、紅がいなくなったことで余計に具合を悪くしていないだろうか。
父さんも心配しているだろう。
どれだけ怒られてもいいから、どうにかして家に帰れないだろうか──
そう思うたび、不安が胸を押しつぶしてくる。
蒼もまた、紅を止めなかった自分を激しく後悔していた。
あの時、けしかけたりせず、もっとちゃんと止めていればこんなことにはならなかった。
父ちゃん、母ちゃん、兄ちゃん達はどれほど心配しているだろう。
助けに来てくれるかもしれない──そう思ったが、まさか神界にいるとは誰も思わない。
つまり、助けは望めない。
どうすればこの状況をどうにかできるのか考えても、策は浮かばず、不安と絶望が波のように押し寄せてくる。
ただ、すぐ隣に紅と蒼がいることだけが、二人にとって唯一の救いだった。
どれほどの時が過ぎたのか。
何週間か、何か月か──永遠にも思える時間の果てに、ついにその時がやって来た。
紅と蒼のもとを、一人の山伏が通りかかったのである。
古びた白装束に篠懸をまとい、山の気配をまとった人間──名を行慶という。
地面に押し付けられ身動きが取れない二人の鬼を見つけ、行慶は歩みを止めた。
紅と蒼を見下ろし、不思議そうに尋ねる。
「なぜここにおる?」
しかし、地面に押し付けられた二人には答えることもできない。
二人が動けないと悟ると、行慶は素早く右手の人差し指と中指を立て、左手でその根元を支える刀印を結んだ。
そのまま空気を切り裂くように、縦横へ九つの線を描く。
見えない結界を刻む九字切りだ。
空気が一瞬、震えた。
神界の光がわずかに揺らぎ、二人の周囲に波紋のような気配が広がる。
行慶は印を胸の前に戻すと、低く真言を唱え始めた。
「オン・ケンバヤ・カイリ・ソワカ
影の縛りをほどき、赤き影、青き影よ
その力を取り戻し、この地へ息を吹き返せ」
その声は、神界の静寂を切り裂くように響いた。
真言が唱え終わると、しばらくして──
天から声が降ってきた。
「まあまあ、これはどういうことですか。鬼に人間。ここは神界ですよ。」
空気を震わせるような声なのに、どこか神経質で、少し怒っているようでもある。
「私を呼んだのは、人間ね。」
行慶が居心地悪そうに頷くと、声は間髪入れず問いただした。
「どうして人間が神界にいるの。説明して。」
行慶はここが神界だとは知らない。
突然の“天からの尋問”に、少し怯んでいる。
「山々を渡り歩いていたところ、いつの間にかここにいた次第。」
申し訳なさそうに答えると──
「わかった。結界の薄いところを歩いていたのね。生育の神にあれほど言っておいたのに、まだ境界の整備が出来ていなかったんだわ。」
声は険しくなり、ぷんぷんと怒り出した。
「神……」
行慶が思わずつぶやく。
「そう、ここは神界よ。人間が気安く来ていい所じゃないのよ。まあ、あなたはたまたま入ってしまった訳だけどもね。」
神様は怒りながらも、どこか人間くさい。
「これだから境界の整備をとあれほど言ったのに」と、ずっと怒りっぱなしだ。
「それで、鬼。鬼がどうしてここにいるの。神界に来てはダメって、家の人に言われなかった?」
そう言うと、神様は人差し指を横にスッとスライドさせた。
紅と蒼の拘束がふっと解けた。
二人は大きく息を吸い込み、深く深呼吸し、手をついてゆっくりと起き上がった。
「さあ答えなさい、どうして鬼がここにいるの?」
紅と蒼はうなだれながら、ここに至る経緯を話した。
神様はしばらく「ふんふん」と聞いていたが──
「それは身から出た錆、仕方ないわね。拘束がかかったのは、神の影を踏んだからよ。これはもう取り返しがつかないわ。今は拘束を解いたけど、時間がたったらまた拘束かかるわよ。そういう風に作られているから。」
その言葉に、紅と蒼は地面に崩れ落ちた。
また拘束され、身動き取れず、ここで朽ちていくのか──
鬼は人間のように転生しない。
何百年、何千年と生きるが、死ぬときは“無”になる。
拘束されたままなら、いずれ溶けて消えてしまう。
紅と蒼は自分たちの仕出かしたことを悔やみきれなかった。
その時──
「悪気があってのことではない、この二人を助けてはくれませぬか。出来ることなら私目が代わりになりまする。」
行慶が手をつき、深く頭を下げた。
「あなたが身代わりになるってこと?ずっと動けなくなるけどいいの?」
思いもよらぬ申し出に、神様はたいそう驚いている。
「出来ることならそうして下され。」
行慶は頭を下げたままだ。
行慶は大豪族の跡取りとして生まれ、何不自由なく育った。
だが十歳の折、病に倒れ、生死の境をさまよった。
その時、たまたま通りかかった山伏が祈祷を行い、行慶は奇跡的に命を取り留めた。
その出来事が、行慶の運命を変えた。
成人した行慶は家の跡を継がず、山伏になると言い出した。
家族は大反対したが、それを押し切って山伏となった。
少しでも人々を救いたい──
その思いで山間の集落を回り、祈祷を続けてきた。
鬼も人も同じいのち。
この鬼のいのちを救えるなら本望──
行慶はそう思った。
沈黙が続き、神様はしばらく考え込んでいたが──
「じゃあ、こういうのはどう?
実はこの土地は現世と常世の境界が不安定なのよ。だから山伏さんが人神となってこの地の境界を守る。境界を守るってことは、ここから動けないってことだけど。」
行慶は頭を地面にこすりつけるようにして言った。
「願ってもない。民のためになれるなら、これ以上の望みはございません。」
「あら、そう。ちょうどよかった。適任者がいなかったもんだから。助かるわ。山伏さんきちんとしてそうだし、ね。じゃあ代わりに鬼は無罪放免ってことで。」
「ところで、鬼は誰の影を踏んだの?」
紅と蒼は見当もつかず、天を仰いでもじもじするばかり。
「もお、手間ばかりかけてこの鬼たちは……」
神様はぷりぷり怒りながら言った。
「なになに。罔象女神、ですってよ。本人気づいてないみたいだけど、会ったらきちんと謝っておいてよ。」
紅と蒼は「もちろんです」と大きく頷いた。
「あの……」
紅が神様に何か言いたげに口を開いた。
「山伏様に御恩を返すために、私もこの地の境界を守る手伝いをしてもいいでしょうか?」
思い切って言うと、神様は少し驚いたようだった。
「あら、そう。まあ、いいんじゃない。その代わり、もう迷惑かけるんじゃないわよ。」
「じゃ、そういうことで。」
慌ただしくそう言うと、神様は去っていった──ようだ。
この神様は人や鬼には姿が見えないらしく、終始、声だけが天から響いていた。
「そうそう、罔象女神は水の神様だからね。お詫びするときは水に向かってお詫びしなさいよ。それから私は天之御中主神。山の神や生育の神より偉いんだからね。覚えておきなさいよ。」
そう言い残すと、声は完全に消えた。
拘束が解けた紅と蒼は、全速力で鬼の郷へ帰った。
「かあちゃーん、とうちゃーん、にいちゃーん、帰って来たよー!」
家が見えてくると、蒼は走りながら叫んだ。
涙と鼻水があふれ、声が裏返る。
その声を聞きつけて、家族が家から飛び出してきた。
蒼は家族の輪に飛び込んだ。
「蒼、今までどこに行ってたの。どれだけ心配して探したことか。」
蒼の家族も皆泣いている。
「ごめんよ……ごめんよ……」
蒼は涙が止まらず、ただ謝るばかりだった。
「良かったよ。もしかしたらもう会えないんじゃないかと思って母ちゃんは……母ちゃんは……」
家族も気持ちは同じだった。
ただただ無事に蒼が帰ってきてくれたことが嬉しくて、涙が止まらなかった。
紅も家が見えてくると叫んだ。
「かあさーん、とうさーん。帰って来たよー!」
紅の声を聞きつけて、紅の家族も家から飛び出してきた。
紅は父と母に抱きついた。
「紅、いったい今までどこに行っていたの。どれだけ心配したことか。」
両親は紅を抱きしめ、号泣している。
「ごめんなさい……父さんと母さんに会いたかった。会いたかった……」
紅も涙と鼻水が止まらなかった。
二人とも帰ってこられなかった理由を家族に正直に話し、こっぴどく叱られた。
同時に、行慶のお陰で帰ってこられたことを知り、家族は皆、行慶に深く感謝した。
その人神となるお方の役に立てるならば──と、紅と蒼が人間界へ行くことも許された。
何よりも、二人で行くということに家族は安心した。
次の日、二人は二子山の湧き水が出る水だまりへ向かった。
「あの偉そうな神様、水のある所で謝れって言ってたよな。」
水だまりに着くと蒼が言った。
「確かそう言ってたよね。ここならいいかな。」
紅が水だまりに向かって声を掛けた。
「みずはのめの神様、鬼の郷の紅と蒼です。神様の影を踏んでしまってすみませんでした。」
「すみませんでした。」
蒼も水だまりに向かって謝ると──
水だまりがブクブクと湧き、白衣に髪をゆったりと結った天女様が現れた。
「私を呼んだのは、あなた達かしら。」
そう言って天女はくるっと回って見せた。
「あ、はい。そうです。」
天女は顔も衣も髪も光輝き、あまりの美しさに紅も蒼も緊張してうまく話せない。
「あの、私たち神界で、みずはのめの神様の影を踏んでしまい、大変すみませんでした。」
やっとそう言うと、紅と蒼は深く頭を下げた。
「あら、そんなことがあったの。ちっとも気付かなかったわ。それでわざわざお詫びをしに来てくれたのね。どうも。」
みずはのめの神様は気さくな神様のようで、影踏みの件も怒っていなかった。
「これも何かのご縁、これからも仲良くしましょ。何かあったら呼んでね。」
そう言って微笑むとまたくるっと回ると、水の中に消えていった。
その後、行慶は“行慶御戸大神”となって戸板神社を創建し御戸を立て、現世と常世の境を守っている。
紅と蒼は行慶に恩を返すべく、真言坊で働きながら行慶御戸大神を支えているのである。




