第7話 宮司
今から約千四百年前。
山深い谷間に、六家族ほどが肩を寄せ合って暮らす小さな集落があった。
平地はほとんどなく、わずかな土地に雑穀を育て、狩猟で命をつなぐ。
人々は互いに助け合い、静かに、慎ましく生きていた。
「ほら、ちょうどいいのが来たじゃないか。」
天界からその様子を見下ろしていたのは、山の神──大山祇神である。
視線の先には、若い男を乗せた馬が必死に駆けていた。
馬は首を低く落とし、体を左右に揺らしながら走っている。
その背にしがみつく男もまた、振り落とされまいと必死で、疲弊しきっていた。
「あれは豪族の敗残者じゃの。」
「どれどれ……ああ、まあ中身は悪くない、悪くない。」
大山祇神の隣には、生成の神・高御産巣日神、天地境界の神・天之常立神がいた。
この地は、現世と常世の境が薄い“特別な場所”。
境が揺らげば悪霊が現世に溢れ、人が常世に迷い込むこともある。
常世から悪霊が湧き出れば、現世は混乱し、神々の力をもってしても収めるのは難しい。
「問題が起こる前に手を打たないとねえ。」
生成の神が手をさすりながら言う。
「天之御中主神に怒られちゃうから。あの人怖いのよ。」
天地境界の神はその名を聞いただけで身震いした。
「少し様子を見ることにするかの。」
三神は天界から集落を見守ることにした。
***
馬にまたがり山間の集落に向かう若者、名を武名という。
他の豪族との戦に敗れ、命からがら逃げてきた。
親も兄弟も皆殺され、生まれ育った地は焼き尽くされた。
武名はただ生き延びるために馬を走らせ、山を一つ、二つ、三つ越えた。
三日間何も食べていない。
清水だけが命をつないでくれた。
直刀の重さが肩に食い込み、馬の背で何度も意識が途切れかける。
「ここまで来れば、追手も来ないだろう……」
武名は馬の歩みをゆるめ、深く息を吸った。
そのとき、山間から煙が立ち上っているのが見えた。
人がいる──助かるかもしれない。
迷っている余裕はない。
武名は煙の方へ馬を向けた。
近づくと、そこには小さな集落があった。
少ない平地にぽつりぽつりと家が建っている。
畑仕事をしていた女が武名を見て怯え、身構える。
「すみません。この集落の長と話がしたいのだが。」
武名は馬から降り、すがる思いで声をかけた。
ここまで命からがら逃げてきて、体も心もぼろぼろだ。
女は返事もせず、逃げるように家の方へ走っていった。
武名は手綱を握ったまま、その場の草の上に崩れ落ちるように座り込んだ。
限界をとうに超えており、目を閉じればそのまま意識が闇に沈みそうだった。
荒い息が胸の奥でひゅうひゅうと鳴り、指先は痺れている。
しばらく座り込んでいると、先ほどの女が体格の良い男を連れて戻ってきた。
武名は慌てて立ち上がり、ふらつきながら姿勢を正した。
「私と話がしたいのはおまえか。」
男──集落の長は、あからさまに警戒した目つきで武名を見た。
この時代、豪族同士の争いは絶えず、小さな集落は敗残者や山賊の襲撃に怯えて暮らしている。
長が警戒するのは当然だった。
武名は、自分の村が他の豪族に滅ぼされ、命からがら逃げてきたことを語った。
声は震え、喉は乾ききっている。
「どうか数日、食べ物と寝るところを与えてもらえませんか……御恩は必ず返します。」
ここで断られれば、もう生き延びる道はない。
武名は藁にもすがる思いで地面に手をつき、深く頭を下げた。
長は武名をじっと見つめ、しばらく考え──
「よかろう。お前は槍は使えるか?」
と低く問うた。
「はい。戦では直刀も使っていました。」
武名は唯一持ってきた直刀を両手で掲げ、長に見せた。
刃は血と煤で黒ずんでいるが、武名がどれほど必死に逃げてきたかを物語っていた。
「では、ここにいる間、この集落の守りをやってもらおう。よいか?」
長は野太い声でそう言い、睨むように武名を見据えた。
「ありがとうございます……!」
武名は深く頭を下げた瞬間、体中の力が抜けた。
生きられる──その事実が胸にじんと広がった。
「では後について来い。」
武名は馬を引き、長の後を歩いた。
長の家は他の家より一回り大きく、中央には炉があり、木がパチパチと燃えていた。
温かい空気が武名の冷えた体を包む。
長の嫁は穏やかな雰囲気をまとい、麻の衣に長い髪を後ろで一つに束ねていた。
その姿は、荒れ果てた武名の心にふっと灯りをともすようだった。
「大変な思いをされましたな。」
嫁は炉の鍋から稗の粥を椀にすくい、武名に差し出した。
椀を受け取ると、手のひらに温かさがじんわりと広がる。
熱い粥をフーフーと冷ましながら口に入れると、三日ぶりの食べ物が腹に染み渡り、
稗がこんなにうまいものかと涙がこぼれた。
「たんと召し上がれ。」
嫁は静かにおかわりを勧めてくれた。
そのいたわりが心底ありがたく、武名は粥をかき込みながら涙を止められなかった。
「食べ終わったら、お休みなされ。心も体も疲れていなさるだろう。」
嫁は部屋の隅に敷かれた藁を指さした。
──助かった。
その思いが胸に満ちた瞬間、武名は藁の上に身を倒し、瞬時に意識を失った。
***
命を救ってくれた長と集落に恩義を感じた武名は、
畑仕事や狩猟を熱心に手伝い、少しずつ集落に溶け込んでいった。
「良い雰囲気になってきたじゃない。このまま長の娘と一緒になって、この地を守ればいいのよ。」
天界では生成の神が武名を気に入ったように微笑んでいた。
「そうよね。任せても大丈夫そうね。」
境界の神も賛成している。
「ん……何か悪い気がこちらにやって来るぞ。」
山の神が眉をひそめた。
見ると槍を持った二人の男が集落に近づいてくる。
「あら、禍々しいものが憑いてるわ。どうしましょう。」
「まあ、様子を見てみよう。」
三神は再び天界から地上を見下ろした。
山の神には何か思惑があるのか、どこか含みのある表情で頷いた。
***
「煙が見えるな。」
「ああ、なんか食うものもあるだろう。」
山道をふらつきながら歩く二人の男。
その目は獲物を探す獣のようにぎらついていた。
二人は山賊──小さな集落を襲っては食い物を奪い、命をつないできた連中だ。
山賊は畑仕事をしていた女の背後に忍び寄り、突然腕を伸ばして羽交い締めにした。
「キャーッ!」
女の悲鳴が山間に響く。
「この集落の長を出せ!」
刃物を女の喉に押し当てながら、山賊は怒鳴り散らした。
刃先が喉元にさらに食い込み、女は息を呑む。
「こいつの命が惜しければ、食い物をありったけ持ってこい!
さもなくばどうなるかわかってるな!」
一緒に畑仕事をしていた女は顔を真っ青にし、慌てて長を探しに走った。
忌々しいが、どうすることもできない。
集落の者たちは震えながら見守るしかなかった。
長は稗の袋を抱えて現れ、山賊の前に投げた。
「これをくれてやる。早くその女を放せ。」
しかし山賊は袋を蹴飛ばし、唾を吐いた。
「足りねえ、足りねえ!もっとあるだろうが!
あるだけ出せっつってんだよ!
耳の穴かっぽじってよーく聞け!
食い物を全部出さねえと、この女の命はねえぞ!」
長と山賊が睨み合う。
空気が張り詰め、誰も息をするのも忘れた。
「早くしろよ!腹が減って気が立ってんだ!
この女、殺しちまうぞ!」
山賊は刃物を押し当てながら怒鳴り、長を威嚇した。
***
その頃、武名は山鳥を狩りに山の中へ入っていた。
キジを二羽捕り、集落へ戻る途中で山賊の怒声が聞こえた。
──ちょうどいい。
山賊は武名の存在に気づいていない。
森の影からは山賊の姿が丸見えだった。
武名は弓を構え、狙いを定める。
極限まで引かれた弓はギリギリと軋み、
武名の呼吸は静かに止まった。
矢が放たれた瞬間、空気を裂くヒューという音が響く。
矢は一直線に飛び、山賊の背中に吸い込まれるように命中した。
「ぐあっ──!」
矢が深々と刺さり、山賊は地面に倒れ込み悶絶した。
もう一人の山賊が振り返り、武名を見つけた。
「お、の、れ……!」
鬼の形相で眉間の血管を浮かび上がらせた山賊の体から、
禍々しい黒い煙が立ち昇った。
煙は渦を巻き、うねうねと動き回る。
まるでそれ自体が生き物のように、武名を狙って蠢いていた。
山賊は渦と共に直刀を振り上げ、武名へ切りかかる。
武名は腰の直刀を抜き、必死に構えた。
禍が憑いた山賊の一撃は凄まじく、
武名の刃は簡単に弾き飛ばされる。
直刀を落としたら終わりだ。
武名は必死に握りしめ、後ずさりながら山賊に対峙した。
山賊はじりじりと間合いを詰め、
武名の焦りを楽しむかのように、襲いかかる瞬間を伺っている。
その時──
集落のはずれにある小さな石の祠が、カタカタと揺れ始めた。
***
「これ、まずいわよ。」
生成の神が眉間にしわを寄せた。
「現世と常世の境界が悪気に呼応してるわ。このままでは──」
境界の神が言いかけた瞬間、
ドドーンという轟音と共に山が揺れ始めた。
揺れはどんどん大きくなり、誰も立っていられず地べたにしゃがみ込む。
木々がこすれ合い、ぎしぎしと悲鳴を上げる。
斜面では地すべりが起こり、土砂が流れ落ち、土煙が舞い上がった。
それでも山は揺れ続ける。
みしっ、みしっという音と共に、地表に筋が入り──
そこから地面が裂けていく。
口を開けるように裂け目は広がり、深く、深く落ちていく。
誰も動けない。
ただ震えながら、地割れの進行を見守るしかなかった。
山賊の足元に大きな筋が走り、地面が割れ始めた。
「誰か、助けてくれ!落ちる、落ちる──わあああ!」
叫び声もろとも山賊は裂け目に飲み込まれ、
その奥深くへと連れ去られていった。
「ふー、危なかったわね。さすが山の神。」
生成の神はパチパチと手を叩いた。
「そろそろ、しっかりと境界を閉じる必要があるな。」
山の神は低い声でそう言うと、
天界から武名たちがいる地上へと降りていった。
地割れはすぐに塞がり、田畑は何事もなかったように元通りになった。
山の揺れも収まり、集落に静寂が戻る。
皆がホッとしたその時──
天から光が差し、白い衣をまとった大柄の山の神が降りてきた。
眩い光に目がくらみ、
目が慣れると、そこに立つ神の姿に腰を抜かし、
誰も動けなくなった。
山の神の声が、雷鳴のように山間へ響き渡った。
「皆の者──集落のはずれにある祠は、現世と常世の境界にあたる。
この先、この祠を奉り、境界を守ることを、この集落の役目とする。
よいな、武名。」
名を呼ばれた武名は、胸の奥が一瞬止まったように感じた。
驚きで目を見開き、周囲を見回すと──
集落の人々が一斉に武名へ視線を向け、静かに頷いていた。
長もまた、深く頷いた。
その目には、武名を“この地の守り手”として認める覚悟が宿っていた。
武名は膝をつき、地面に手をついて深くひれ伏した。
胸の奥で熱いものが込み上げる。
自分の名を呼び、役目を与えた神の思し召しを、全身で受け止めた。
その姿を見届けると、山の神は霧が晴れるようにふっと消えた。
光が薄れ、静寂が戻る。
「武名、神様のご使命だ。」
長が低く、しかし揺るぎない声で言った。
「これからはこの集落にとどまり、共に境界を守ることになる。」
武名は深く息を吸い、静かに答えた。
「助けていただいた御恩を返しながら……境界と、この集落を守っていきます。」
その言葉には迷いがなかった。
武名はここに骨を埋める覚悟を決めたのだ。
こうして──
これが戸板村の始まりとなり、
戸板神社の礎が築かれた。
この後、御戸を守る神が奉られることになるが、
それはまた後々語ることにしよう。
言い忘れるところだったが──
この武名の子孫こそが、代々戸板神社を守る宮司としてこの地に住まい続けている。




