第6話 おひとり様
その客が来たのは一月も終盤、戸板村に二メートルもの雪が積もり、寒さが極まる頃のことだった。
「川村様、お待ちしておりました。真言坊へようこそおいで下さいました。」
紅が丁寧に迎える。
「こちらへお名前と住所、電話番号をお願いします。」
宿帳に客がつらつらと名前を書き込む。
「昨夜、この辺りではだいぶ雪が降りまして。本日バスが運行して良かったです。」
紅が話を向けるが、客は軽く頷くだけだった。
「では、お部屋にご案内します。」
紅が荷物を持ち、部屋へ案内する。
「なあ紅、あの客……何か憑いてるか?」
蒼が眉間にしわを寄せて聞いてきた。
「何も感じないよ。蒼もそうでしょ?」
蒼は不満げに頷く。
この客、宿坊に来てから一言も声を発していない。
あまりいないタイプだ。
「だいたいさ、旅行に来る客ってのは皆楽しそうなもんだよ。楽しいからよくしゃべる。
それがなんだあの客は、楽しそうでもないし、話もしない。」
「世の中には傷心旅行なんて言葉もあるよ。憂さ晴らしに来てるのかもしれないじゃない。」
そう言いつつ、紅も“変だな”と思っていた。
夕食の時間となった。本日は川村様のみの宿泊だ。
「先付けは、菜の花の辛し和え、里芋の白煮、ワカサギの南蛮漬け、紅白なます、クルミ味噌の田楽になります。この後、椀物とお造りをお持ち致します。お飲み物はいかがなさいますか?」
紅が説明すると──
「飲み物はお茶で。」
川村優子が、この宿坊に来て初めて口を開いた。
「かしこまりました。熱いお茶をお持ちします。」
しかし、その声には温度がなかった。
悲しいでもなく、辛いでもなく──ただ沈んでいる。
“沈殿した影”のような雰囲気だった。
この客の持つ気配はどこから来るのだろう。
いや、詮索は良くないと紅は首を振った。
川村優子は二泊の予約を取っている。
今日はゆっくり戸板神社を参拝するのだろう。
朝食の配膳をしていると、表に川村の姿を見つけた。
池の錦鯉をじっと見ている。
「おはようございます。朝食は8時の予定でよろしかったですか?」
紅が愛想よく声をかけると、川村は黙って頷いた。
「この鯉は“おみず様”という名前なんですよ。」
「おみず様……」
優子が初めて興味を示した。
「おみず様って、あの飲み水の“水”ですか?」
顔を上げて紅に質問する。
「おみず様の“みず”は、日本神話に出てくる水の働きを司る女神様、罔象女神からいただきました。
古事記では、イザナミが火の神を産んで大やけどをし、苦しみの中で嘔吐した時に生まれたのが、この罔象女神と言われています。」
紅が丁寧に説明すると、川村は何度か静かに頷いた。
「このおみず様は、何年くらい生きているんですか?」
優子は鯉から目を離さずに聞いた。
「噂では数百年生きているとも言われていますよ。」
紅はそう言って笑いながら去っていった。
その後もしばらく、優子は池の前に立ち続けていた。
まるで、鯉の静かな呼吸に自分の心を合わせようとしているかのように。
朝食が済むと、優子は戸板神社へ向かった。
戸板神社は本殿と奥殿からなり、奥殿は少し勾配を登ったところにある。
昨夜の雪はきれいに掻かれており、奥社にも参拝することができた。
参拝したら少しは気持ちが晴れるかと思った。
しかし──何も変わらなかった。
神社はお願いをするところではない、と誰かが言っていた。
その通りだ。
一人一人の願いをいちいち叶えていたら、神様だって身がもたない。
優子は宿坊に戻ると、また池へ向かった。
この鯉を眺めていると、何だかホッとする。
自分が鯉を好きだったなんて、今まで気づかなかった。
他に客もいないため、遠慮なく鯉を眺めていられるのも良かった。
「そういえば、この鯉が数百歳なんて言ってたけど……そこまでは生きないでしょ。」
優子がつぶやいた時──
「実はもっとなのよ。」
どこからか声が聞こえた。
優子は驚いて周りを見回したが、誰もいない。
「気のせいか……」
やはり自分は疲れているのだろう。
優子は部屋へ戻った。
川村優子は45歳のおひとり様だ。
短大卒業後、幼稚園に就職し、幼稚園教諭として23年間勤めてきた。
一人っ子だったため、親から「家にいてほしい」と切望され、家を出たことがない。
年頃になっても職場に出会いはなかった。
合コンに誘われて行ったこともあったが、控えめな優子には居心地の悪い場所だった。
友達は次々と結婚していった。
職場でも若い先生が入ってきては結婚して辞めていく。
いつの間にか、再就職の年配者を除けば、優子は一番の年長になっていた。
結婚した友達は家事や育児に忙しく、少しずつ疎遠になっていった。
たまに会っても話題が合わない。
お互いに気を使ううちに、連絡も途絶えた。
五年前に父が、昨年母が病で亡くなった。
一人っ子の優子は、本当に“おひとり様”になってしまった。
今どきはそんな環境の人間も多いだろう。
しかし優子は、いつからか心が沈み、沈んだままになってしまった。
先々の不安でもない。
世の中への怒りでもない。
他人へのひがみでもない。
ただただ──心が沈んで、浮かび上がってこない。
衣食住は足りている。
仕事も責任感を持って勤めている。
しかし、まるで感情を失くしてしまったように、喜びも悲しみも薄い。
生きている実感も薄いのかもしれない。
何のやる気も起きない中、それでも「何とかしたい」という気持ちはどこかにあったのだろう。
思い切って、この戸板神社に参拝することにしたのだ。
その日も静かに夕食をいただき、優子はまた外の池へ向かった。
池の淵にしゃがみこむと、人の気配を察したのか鯉が上がってきて、口をパクパクさせている。
「私もこの池の鯉になりたいな。」
優子がつぶやいた瞬間──
「どうぞどうぞ、大歓迎ですよ。」
どこからか声が聞こえた。
驚いて周りを見回したが、誰もいない。
次の瞬間、優子の体は池の中へ引きずり込まれた。
気がつくと、隣にいた錦鯉──おみず様が話しかけてきた。
「真言坊の池にようこそ。私が案内するわ。」
そう言って、すいすいと泳ぎ始める。
優子は慌ててついていった。
狭い池のはずなのに、底は果てしなく深い。
潜るほどに水は暗くなり、真っ暗になったかと思うと、その先に小さな光が見えてきた。
光は次第に大きくなり、光の中に“我が家”が見えてきた。
家の中には、小学生の優子と父、母がいる。
「優子、今日は優子の好きな唐揚げよ。いっぱい食べてね。」
母が山盛りの唐揚げを並べる。
「おいおい、いくらなんでもそんなには食べられないだろう。」
父が笑いながら箸を取る。
小学生の優子は嬉しそうに唐揚げを頬張っていた。
次に見えてきたのは高校の校舎。
高校生の優子は親友の博美とお弁当を食べている。
「週末はどこに行こうか?」
「美味しいパフェのお店見つけたんだよ。どう?」
博美は幼馴染で、高校でも大の仲良しだった。
毎日他愛もない話をするだけで楽しかった。
今度は幼稚園が見えてきた。
勤務中の優子は転んだ子供を抱き起こしている。
「痛かったね。けい君、泣かないでえらいぞ。」
半べそだった子供は笑顔になり、また走り出した。
「いいもんですな。」
おみず様の声は、水の中で涼しく響いた。
「でも、今日からはずーっと一緒ですから、寂しいこともあらしません。」
「あ……そうだ。私、この池の鯉になりたいって言ったんだ。」
優子は思い出した。
「もっといい場所へ案内しましょう。」
おみず様はさらに深い底へ泳いでいく。
真っ暗闇の中に、また小さな光が見えてきた。
今度は優子の知らない場所だった。
やわらかな光の中に入ると、そこは緑豊かな公園のようだった。
多くの人がベンチで休んだり、日光浴をして語り合っている。
子供たちはボール遊びをしている。
どの人も優子の知らない顔なのに、なぜだか“知り合いのような懐かしさ”があった。
優子がそこに降り立つと、何人かが寄ってきた。
「やあ、久しぶり。元気でやっている?」
知らない男の人に声をかけられた。
でも悪い気はしない。むしろ嬉しい。懐かしい。
「おかげさまで元気にやっています。」
そう言うと、優子の目から涙がこぼれた。
温かい言葉に触れ、なぜだか胸がいっぱいになった。
「なつかしいでしょう。」
おみず様がしみじみした声で言う。
「あの人、知らない人なのに……どうしてこんなに懐かしいんですか?」
優子が問うと、おみず様はそれでいいのだと頷いた。
「ここはどこなのですか?」
「まだ、あなたに教えるわけにはいかないんですよ。でも良いところでしょう。」
確かに心がホッとする場所だった。
おみず様が少し真面目な顔になって聞いた。
「ずっとここにいたいですか?」
優子は考えた。
ここにいれば、不安も寂しさもない。
穏やかな心でいられるだろう。
しかし──
両親との食事、親友との会話、幼稚園の子供たちの笑顔。
どれも大したことではないけれど、優子にとっては大切な人生の思い出だった。
答えはすぐに出た。
「やっぱり、元の世界に帰りたいです。」
「そうですか?ここもいいところですけど……やっぱり元の世界がいいですか。」
おみず様はくるっと回転し、錦鯉の姿からお姫様の姿へと変わった。
薄衣の白衣をまとい、長い髪をゆったりと結った姿は、まるで天女のようだった。
「おみず様は天女様だったんですか……」
優子が見とれて言うと、
「私は水の働きを司る“罔象女神”です。水の理を守るのが私の仕事。
水のある所なら、いつでもどこでもすぐに行けます。
また寂しくなったら呼んでください。あなたが私を気に入ってくれたように、私もあなたのことが気に入っていますから。」
風船がパチンと割れるように、そこで一気に目が覚めた。
気がつくと優子はベッドで寝ていた。
夢を見ていたのだろうか──
そう思ったが、あまりにも記憶が鮮明だった。
会話もひとつ残らず覚えている。
「また寂しくなったら呼んでもいいって言っていたな……」
つぶやいた瞬間、優子は気づいた。
自分は孤独じゃなかったのだ、と。
同時に、自分がずっと寂しかったことにも気づいた。
原因がわからないまま沈んでいた心は、浮かび上がるはずもなかった。
おみず様のおかげで、優子の心はじわじわと浮上し始めている。
「川村様、この度は二泊お泊りいただきましたので、宿泊代は54,000円になります。」
フロントで紅がチェックアウトの手続きをしている。
「真言坊特製のリンゴジュースをお土産にいただけますか?
三本お願いします。」
一本は自分用。
もう一本は職場へ。
残りの一本は、友達の博美ちゃんに持って行ってみよう。
「ありがとうございます。では個別の袋も三つお入れしますね。」
紅がお土産のジュースを手渡した。
「あの……この宿坊に泊めていただいて良かったです。お世話になりました。」
優子は深く頭を下げた。
「こちらこそ、お泊りいただいてありがとうございました。ぜひまたいらしてください。」
紅と蒼も笑顔で挨拶した。
表に出ると、優子はもう一度池をのぞいた。
おみず様が上がってきて、口をパクパクしている。
「おみず様……ありがとうございました。ぜひまたお会いしたいです。」
優子が小さな声でそう言うと──
「こちらこそ楽しかったですよ。また会いましょう。」
どこからともなく、おみず様の声が聞こえた。
おそらく優子にだけ聞こえたのだろう。
優子の心は、もう浮上し始めている。
「お客さん、元気になって帰っていったな。」
蒼は嬉しそうにリンゴジュースを飲んでいる。
客室の掃除が終わり、一休みしているところだ。
「今回はおみず様が一役買ったようだね。」
紅が池の方に目をやった。
「そうだったのか。おみず様に会えるなんて、お客さんラッキーだったな。」
おみず様と紅、蒼の関係も気になるところだが──
今日も真言坊は順風満帆である。




